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愚行
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「お前、こんな事して済むと思ってんのかよっ!」
上半身を拘束され、床に座らされた湊は、東郷を罵倒することで虚勢を見せた。
「君に心配してもらわなくても、ちゃんと考えはあるよ」
涼しい顔で答える東郷が、床に転がった糸峰を足蹴にする。
「うう……」
「おい、やめろっ。糸峰! しっかりしろ!」
腹部から血を滴らせ、横たわっている糸峰に呼びかけると、呻き声をあげて気絶してしまった。
鷹揚な態度で東郷を脅していた糸峰は数分前、躊躇いの欠片もない東郷に腹を刺された。
千歳を手にかけたことで人を殺すことに抵抗がなくなったのか、そもそも猟奇的な性質を孕んでいたのか。
どちらにしてもこのままじゃ、自分も律も殺される。
湊は何とかして自分達の存在を、外に知らせようと考えあぐねいていた。
「この子が君と一緒にいたいって言うからだよ。小学校の時から湊君のことが好きって知ってたかい?」
「小学校? っんなの知らねーよ! それより律を解放しろっ」
「だからさっきから言ってるよね、君が死ねって。もう自分で飲めないなら僕が飲ませてあげるよ」
苛立つ東郷が器用に指先でキャップを開けて、湊の顔に影を作った。
反対の手で髪を掴まれ、首が折れるほど後ろへと反らされる。
「い、痛っ、よ、よせ……。やめろっ」
「苦痛に歪む顔を、君の親にも見せたかったな。ま、死体でもいいか。彼らが最高の苦しみを味わうならどっちでもいい」
髪を掴んでいた東郷の手が顎に移動し、自ずと口が開くよう両頬を指で強く挟まれた。
ペットボトルを口元に近付けられると、湊は力の限り顔を背けた。足をバタつかせ、東郷の接近を拒もうと足掻いた。
「暴れるなよ、溢れるだろ。それに君も同じようなことをあの子にしてたじゃないか。彼もやめてくれって何度も叫んでたろう? それなのに君らはやめなかった。なのに自分は助けろって言うんだ。本当、そう言う身勝手なとこがやっぱり親子だよね」
「あの……こ? 何の……ことりゃ……よ」
頬を掴まれたままで、うまく話せない。湊は忌々しい目で東郷を見上げた。
「あれ、忘れた? 一楓って子にだよ」
東郷の言葉に、湊は息を呑んだ。
忘れたくても忘れられない名前を、なぜ東郷が知っているのか。
動揺する頭の中で、泣き叫ぶ一楓の頭を押さえつけていた感触が蘇ってしまう。
「やってたよね、君と亮介君とでさ」
「ど、どうしてあんたがそれを……」
「やめてってあの子が何度も泣いて頼んでたのに、君らはやめなかった。凄くかわいそうだったよ。だから思ったんだ、君があんなことを平気でやってのけるのも、あの親から生まれた人間なら仕方ないってね」
「う……ううっ」
あの時の一楓も今の自分と同じように助けを求め、必死で逃れようとしていた。なのに自分はその手を緩めることもなく、一楓を妬み、もっと苦しめ、泣き叫べと憎しみをぶつけた。
それが今、自分もこうやって味わっている……。
体が抵抗することを諦めてしまい、目の奥が熱くなるのを感じた。
「あの子が死んだ日、僕も病院にいたんだよ。亮介君が繪野と揉めていたから、捕まえて動画を見せて貰った。僕は彼の家庭教師だったからね。ああ、そう言えば君は知ってたかな? 亮介君は、あの子にずっと性的虐待を続けてたんだよ」
「……そ、そんな──。嘘……だ。あ、あいつ……あの時一回きり……だったんじゃ……」
あの日、あの教室での一回きりだと……。 たった一回の悪ふざけだと思っていた。それを亮介は何度も繰り返していた? なんでそんな馬鹿なことを──いや、違う。亮介を最初に誘導したのは、嫉妬にまみれた汚い自分だっ。
その結果、一楓はずっと、ずっと、ずっと、ずっと苦しんでいたと言うのか……。
「亮介君に襲われながら、あの子はずっと『りつ』って名前を呼んで泣いてたなぁ」
東郷の言葉にとどめを刺され、湊は堪えていた涙を溢した。
つまらない嫉妬で一楓を苦しめ、律を悲しませ、亮介を罪人にした。そうして得た、律を独り占めできる快感に酔い、多幸感にどっぷり浸かってしまった。
悲哀に満ちた目を忘れたフリをして……。
「少しは反省してるみたいだね。でも僕は君達みたいな、自己中心な考えの人間が大っ嫌いなんだよ、君の親も含めてね」
東郷が吐き捨てるように言うと、放心状態になった湊の口を再びこじ開けようとしてきた。
「や、やめ……」
口を閉じようとしても、東郷の指はそれを許さず、透明な凶器が一滴、二滴と湊の唇を湿らせる。
飲み口から逃れようと、首を捻ったと同時に氷水を浴びたような刺激を頬で受けた。
それはすぐ痛みに変わり、頬を殴られたんだと数秒後に自覚した。
衝撃で目がチカチカする間に、無理やりペットボトルを口腔にねじ込まれてしまった。
湊が液体を嚥下しそうになったその時、目の前から東郷が忽然と消え、激しくぶつかる音が部屋中に鳴り響いた。
「み……なと、にげ……ろ」
パイプ椅子ごとゆらりと立ち上がる律が、朦朧とした目で床に転がる東郷を見下ろしている。
「りつ!」
「……みな……と、はやく……にげろ」
覚束ない動きで律が庇うよう、湊の前に立ち塞がっている。
「律、お前……」
久しぶりに聞いた『湊』と言う声。こんな状況なのにそれが嬉しく、庇ってくれることに心が震えた。だが、当の本人は振り返ることもせず、倒れ込んだ東郷を警戒している。
「目が醒めるの早いよ繪野。薬の量足りなかったかぁ」
「先生……あんた、何やってんだ……」
血を流す糸峰の姿に気付き、怯んだものの、律の視線は東郷をしっかりと捉えている。
「何って、湊君がこれから自殺するんだよ。首を吊ってね」
「……何……言ってんだ……」
椅子に縛られたままの律が、ナイフを翳す東郷を凝視した。
不利な状況なのは火を見るより明らかなのに、その横顔は凶器も恐れず立ち向かおうとしている。だが東郷は千歳を殺し、糸峰の腹も躊躇なく刺した。きっと自分達も殺してくる。だからこそ、律だけは守らなければならない。
「律、ここから出ろっ! お前だけでも逃げるんだ!」
「……るさ……い。お前……黙ってろ」
「そうそう、繪野の言う通りだ。君達がちょっとでも動けば、糸峰にとどめを刺すからね」
ゆるりと起き上がると、東郷が糸峰の胸にナイフの先端を向けた。
「湊君、この女と繪野を殺されたくないなら、君が自分でこっちに来い」
鈍く光る刃先は自分が拒めば、糸峰に、若くは律へと襲いかかる。
千歳の命を奪った人間は、罪を重ねることをもう、何とも思ってないのだ。
「警察は馬鹿じゃない。あんたがヤったってすぐにバレるぞ」
「それはどうかな。君は繪野にフラれて自殺。お前を好きな糸峰はそれに巻き込まれた。たまたま鍵の開いていた、僕の部屋を勝手に使ってね」
湊の言葉は東郷の歯牙にも掛けない。
冷嘲する顔からそれが容易に分かる。
大きく息を吐き、庇ってくれる律の横を通り過ぎると、湊はゆっくり東郷へと近付いた。
足が震えているのが情けない。それでも両親のしたことの後始末は、息子である自分が片をつけなければならない。
「お……い、湊、やめろっ。行く……なっ」
引き留めようとしてくれる声が愛おしい。湊はそれだけで十分だと思えた。なのに、律はまだ、覚束ない足取りの湊を押しのけ、東郷に体当たりしようとした。
二度目の攻撃は東郷から軽くかわされ、ナイフは律目掛けて振り翳そうとしてくる。
湊が全身で律を押し除けて庇うと、刃先は湊を狙った。
咄嗟に目を瞑った湊の耳に、鈍い音と呻き声が聞こえ、そろりと目を開くと、腕から血を流している律の姿が目の前にあった。
「律! お前、血が……」
「繪野はほんと、お人好しだな」
「せ、せんせ……マジやめろよ。こんなこと意味ない……だろ」
弱々しく発した律の声は東郷に響かず、むしろ標的を庇われたことに苛立ちを増し、鮮血が滴る刃先を律に向けている。
律の腕から滴る血を見て、湊は覚悟をした。これ以上、大好きな人を傷付けたくない。
身動きの出来ない湊が律を救う方法は、自分が死ぬしかないのだ。
「いいのかな、湊君。大好きな『りつ』が死んじゃうよ。──ああ、部屋が汚れてしまったな」
糸峰の血を踏んだ靴底をスカートに擦り付けながら、汚物でも見るような目で東郷が舌打ちをする。
「……律、俺がやられてる間にここを出て警察に行ってくれ。こいつはお前もきっと殺す」
決意した声は震えていた。それでも律だけは絶対に守る、一楓のためにも……。
「繪野が眠ったままだったら彼を助けてやったのに遅かったね。仕方がない、繪野は道連れだ」
「湊! こいつの言うことなんか聞くなっ。お前が死ぬことはないっ」
腕から血を流し、椅子を引きずって制止しようとする律に、湊は笑って見せた。
「律は黙ってろ。で、さっさとこっから出るんだっ。こいつの姉さん殺したのウチの親らしいし、千歳も俺のせいで死んだんだ。責任は俺が取る。それに……」
一楓……死んで償うなんて、だせぇけど……俺の命で許してくれないか……。
これは一楓と律を悲しませた報いだ。
自分が消えるのが一番相応しい。
湊は死を甘んじて受け止めるよう、足を一歩踏み出した。
「初めからそうやって素直に従えばいいものを」
笑顔の下に閉じ込めていた酷薄な顔を見据え、湊は引き留める律の声を無視した。
家族より大切な千歳に心の中で懺悔し、東郷の前に立った。
律の叫ぶ声と椅子を引きずる音が聞こえる。
自分なんかを庇って怪我までしてくれた律に感謝し、これまでの愚行を噛み締めたていた。
刃先は容赦なく振り翳され、デスクライトで反射したナイフが、勢いよく空を切ろうとする。
湊は、ギュッと目を閉じた。
やめろっと叫ぶ律の声。まだこんな自分を守ろうとしてくれるのが嬉しい。そう思った時、誰かの声が律の声と重なって聞こえた。
湊を庇おうとする律の前に、もう一人の影が躍り出てくると、肩で息を吐く背中が二人を守るように立ち塞がっていた。
「門叶……さん」
律が呟くと、「大丈夫か、二人ともっ!」と、門叶が背中越しに叫んでいる。
その声、その姿に湊も律も心の底から愁眉を開いた。
「何で刑事さんここにいるの? どいつもこいつも僕の邪魔をするなっ!」
間髪入れず、門叶目掛けてナイフが襲う。
「危ない! 門叶さん!」
律が叫ぶと門叶はナイフを避けながら、東郷の手首を掴んでいた。
捨て身になった東郷との攻防戦が始まった直後、遅れて部屋に飛び込んできた錦戸が東郷の背後に回ると脇から腕を取り、羽交い締めにして暴れる体を拘束したかと思うと、寝技のように床へ押さえ込んだ。
「うう……、もう少しだったのに……くそっ、くそっ!」
錦戸に押さえ込まれた東郷の手から、門叶はすかさずナイフを取り上げ、冷たく重い枷をポケットから取り出した。
「東郷拓人、午後九時十分、殺人未遂容疑で現行犯逮捕だ!」
金属の冷えた音と共に、東郷の腕に手錠がぶら下がる。その姿に湊と律は目を背けた。
気心知れる優しい講師は復讐に取り憑かれ、たったひとりの家族を失くした悲しみを増殖させて千歳の命を奪った。
奪われた彼女にも自身と同じように、たったひとりしかいない家族がいることも知らずに。
湊と律は、拘束された東郷を呆然と見ていた。それは同僚でもある生方も同じだった。
刑事さん……と、呼び止め、「千歳ヤったのそいつだ」と、震える唇で伝えた。
「そうか……他に何か言ってなかったかな」
錦戸が二人の拘束を外しながら、労わるように聞いてきた。
「糸峰が……千歳の手を、持ってる……どっかに隠して……」
腹部を刺されながらも微かに息をしている糸峰に目を向け、湊は声を詰まらせた。
涙をこらえ、顔を上げたその先に、律の視線が待ち構えていた。
一瞬絡まって耐えきれず、湊は目を逸らしてしまった。
「と、東郷先生……あ、あなたって人はっ、あなたって──」
手枷をはめた東郷に生方が責め立てた。
初めて聞く彼の大声を、湊は虚無の波に揺蕩い聞いていた。
「生方先生、あなた今日、出張じゃ……」
「先生、千歳を……千歳をどうして!」
「……どうして……どうしてだろう。あ……そうか、邪魔されたからだ……」
誰のことも見ていない虚な目の人間に、何を話しても伝わらない。両親がしたことを湊が詫びたとしてもきっと届かないだろう。
「生方先生……ごめん。全部俺の……せいだ。千歳が死んだのも全部……」
失望を眉根に乗せた湊は最後まで言えず、蒼ざめた唇を閉ざした。
生方から顔を背けると、身勝手な考えがよぎる。
いっそのことあの薬を飲み干していれば、悲しみや絶望を連れて死ねたのか、と。
濃紺の空を見上げるフリをして、そっと律の横顔を見つめた。
律の側にいたい。でも、それを願うことも罪なのだと、湊は唇を硬く閉ざした。
上半身を拘束され、床に座らされた湊は、東郷を罵倒することで虚勢を見せた。
「君に心配してもらわなくても、ちゃんと考えはあるよ」
涼しい顔で答える東郷が、床に転がった糸峰を足蹴にする。
「うう……」
「おい、やめろっ。糸峰! しっかりしろ!」
腹部から血を滴らせ、横たわっている糸峰に呼びかけると、呻き声をあげて気絶してしまった。
鷹揚な態度で東郷を脅していた糸峰は数分前、躊躇いの欠片もない東郷に腹を刺された。
千歳を手にかけたことで人を殺すことに抵抗がなくなったのか、そもそも猟奇的な性質を孕んでいたのか。
どちらにしてもこのままじゃ、自分も律も殺される。
湊は何とかして自分達の存在を、外に知らせようと考えあぐねいていた。
「この子が君と一緒にいたいって言うからだよ。小学校の時から湊君のことが好きって知ってたかい?」
「小学校? っんなの知らねーよ! それより律を解放しろっ」
「だからさっきから言ってるよね、君が死ねって。もう自分で飲めないなら僕が飲ませてあげるよ」
苛立つ東郷が器用に指先でキャップを開けて、湊の顔に影を作った。
反対の手で髪を掴まれ、首が折れるほど後ろへと反らされる。
「い、痛っ、よ、よせ……。やめろっ」
「苦痛に歪む顔を、君の親にも見せたかったな。ま、死体でもいいか。彼らが最高の苦しみを味わうならどっちでもいい」
髪を掴んでいた東郷の手が顎に移動し、自ずと口が開くよう両頬を指で強く挟まれた。
ペットボトルを口元に近付けられると、湊は力の限り顔を背けた。足をバタつかせ、東郷の接近を拒もうと足掻いた。
「暴れるなよ、溢れるだろ。それに君も同じようなことをあの子にしてたじゃないか。彼もやめてくれって何度も叫んでたろう? それなのに君らはやめなかった。なのに自分は助けろって言うんだ。本当、そう言う身勝手なとこがやっぱり親子だよね」
「あの……こ? 何の……ことりゃ……よ」
頬を掴まれたままで、うまく話せない。湊は忌々しい目で東郷を見上げた。
「あれ、忘れた? 一楓って子にだよ」
東郷の言葉に、湊は息を呑んだ。
忘れたくても忘れられない名前を、なぜ東郷が知っているのか。
動揺する頭の中で、泣き叫ぶ一楓の頭を押さえつけていた感触が蘇ってしまう。
「やってたよね、君と亮介君とでさ」
「ど、どうしてあんたがそれを……」
「やめてってあの子が何度も泣いて頼んでたのに、君らはやめなかった。凄くかわいそうだったよ。だから思ったんだ、君があんなことを平気でやってのけるのも、あの親から生まれた人間なら仕方ないってね」
「う……ううっ」
あの時の一楓も今の自分と同じように助けを求め、必死で逃れようとしていた。なのに自分はその手を緩めることもなく、一楓を妬み、もっと苦しめ、泣き叫べと憎しみをぶつけた。
それが今、自分もこうやって味わっている……。
体が抵抗することを諦めてしまい、目の奥が熱くなるのを感じた。
「あの子が死んだ日、僕も病院にいたんだよ。亮介君が繪野と揉めていたから、捕まえて動画を見せて貰った。僕は彼の家庭教師だったからね。ああ、そう言えば君は知ってたかな? 亮介君は、あの子にずっと性的虐待を続けてたんだよ」
「……そ、そんな──。嘘……だ。あ、あいつ……あの時一回きり……だったんじゃ……」
あの日、あの教室での一回きりだと……。 たった一回の悪ふざけだと思っていた。それを亮介は何度も繰り返していた? なんでそんな馬鹿なことを──いや、違う。亮介を最初に誘導したのは、嫉妬にまみれた汚い自分だっ。
その結果、一楓はずっと、ずっと、ずっと、ずっと苦しんでいたと言うのか……。
「亮介君に襲われながら、あの子はずっと『りつ』って名前を呼んで泣いてたなぁ」
東郷の言葉にとどめを刺され、湊は堪えていた涙を溢した。
つまらない嫉妬で一楓を苦しめ、律を悲しませ、亮介を罪人にした。そうして得た、律を独り占めできる快感に酔い、多幸感にどっぷり浸かってしまった。
悲哀に満ちた目を忘れたフリをして……。
「少しは反省してるみたいだね。でも僕は君達みたいな、自己中心な考えの人間が大っ嫌いなんだよ、君の親も含めてね」
東郷が吐き捨てるように言うと、放心状態になった湊の口を再びこじ開けようとしてきた。
「や、やめ……」
口を閉じようとしても、東郷の指はそれを許さず、透明な凶器が一滴、二滴と湊の唇を湿らせる。
飲み口から逃れようと、首を捻ったと同時に氷水を浴びたような刺激を頬で受けた。
それはすぐ痛みに変わり、頬を殴られたんだと数秒後に自覚した。
衝撃で目がチカチカする間に、無理やりペットボトルを口腔にねじ込まれてしまった。
湊が液体を嚥下しそうになったその時、目の前から東郷が忽然と消え、激しくぶつかる音が部屋中に鳴り響いた。
「み……なと、にげ……ろ」
パイプ椅子ごとゆらりと立ち上がる律が、朦朧とした目で床に転がる東郷を見下ろしている。
「りつ!」
「……みな……と、はやく……にげろ」
覚束ない動きで律が庇うよう、湊の前に立ち塞がっている。
「律、お前……」
久しぶりに聞いた『湊』と言う声。こんな状況なのにそれが嬉しく、庇ってくれることに心が震えた。だが、当の本人は振り返ることもせず、倒れ込んだ東郷を警戒している。
「目が醒めるの早いよ繪野。薬の量足りなかったかぁ」
「先生……あんた、何やってんだ……」
血を流す糸峰の姿に気付き、怯んだものの、律の視線は東郷をしっかりと捉えている。
「何って、湊君がこれから自殺するんだよ。首を吊ってね」
「……何……言ってんだ……」
椅子に縛られたままの律が、ナイフを翳す東郷を凝視した。
不利な状況なのは火を見るより明らかなのに、その横顔は凶器も恐れず立ち向かおうとしている。だが東郷は千歳を殺し、糸峰の腹も躊躇なく刺した。きっと自分達も殺してくる。だからこそ、律だけは守らなければならない。
「律、ここから出ろっ! お前だけでも逃げるんだ!」
「……るさ……い。お前……黙ってろ」
「そうそう、繪野の言う通りだ。君達がちょっとでも動けば、糸峰にとどめを刺すからね」
ゆるりと起き上がると、東郷が糸峰の胸にナイフの先端を向けた。
「湊君、この女と繪野を殺されたくないなら、君が自分でこっちに来い」
鈍く光る刃先は自分が拒めば、糸峰に、若くは律へと襲いかかる。
千歳の命を奪った人間は、罪を重ねることをもう、何とも思ってないのだ。
「警察は馬鹿じゃない。あんたがヤったってすぐにバレるぞ」
「それはどうかな。君は繪野にフラれて自殺。お前を好きな糸峰はそれに巻き込まれた。たまたま鍵の開いていた、僕の部屋を勝手に使ってね」
湊の言葉は東郷の歯牙にも掛けない。
冷嘲する顔からそれが容易に分かる。
大きく息を吐き、庇ってくれる律の横を通り過ぎると、湊はゆっくり東郷へと近付いた。
足が震えているのが情けない。それでも両親のしたことの後始末は、息子である自分が片をつけなければならない。
「お……い、湊、やめろっ。行く……なっ」
引き留めようとしてくれる声が愛おしい。湊はそれだけで十分だと思えた。なのに、律はまだ、覚束ない足取りの湊を押しのけ、東郷に体当たりしようとした。
二度目の攻撃は東郷から軽くかわされ、ナイフは律目掛けて振り翳そうとしてくる。
湊が全身で律を押し除けて庇うと、刃先は湊を狙った。
咄嗟に目を瞑った湊の耳に、鈍い音と呻き声が聞こえ、そろりと目を開くと、腕から血を流している律の姿が目の前にあった。
「律! お前、血が……」
「繪野はほんと、お人好しだな」
「せ、せんせ……マジやめろよ。こんなこと意味ない……だろ」
弱々しく発した律の声は東郷に響かず、むしろ標的を庇われたことに苛立ちを増し、鮮血が滴る刃先を律に向けている。
律の腕から滴る血を見て、湊は覚悟をした。これ以上、大好きな人を傷付けたくない。
身動きの出来ない湊が律を救う方法は、自分が死ぬしかないのだ。
「いいのかな、湊君。大好きな『りつ』が死んじゃうよ。──ああ、部屋が汚れてしまったな」
糸峰の血を踏んだ靴底をスカートに擦り付けながら、汚物でも見るような目で東郷が舌打ちをする。
「……律、俺がやられてる間にここを出て警察に行ってくれ。こいつはお前もきっと殺す」
決意した声は震えていた。それでも律だけは絶対に守る、一楓のためにも……。
「繪野が眠ったままだったら彼を助けてやったのに遅かったね。仕方がない、繪野は道連れだ」
「湊! こいつの言うことなんか聞くなっ。お前が死ぬことはないっ」
腕から血を流し、椅子を引きずって制止しようとする律に、湊は笑って見せた。
「律は黙ってろ。で、さっさとこっから出るんだっ。こいつの姉さん殺したのウチの親らしいし、千歳も俺のせいで死んだんだ。責任は俺が取る。それに……」
一楓……死んで償うなんて、だせぇけど……俺の命で許してくれないか……。
これは一楓と律を悲しませた報いだ。
自分が消えるのが一番相応しい。
湊は死を甘んじて受け止めるよう、足を一歩踏み出した。
「初めからそうやって素直に従えばいいものを」
笑顔の下に閉じ込めていた酷薄な顔を見据え、湊は引き留める律の声を無視した。
家族より大切な千歳に心の中で懺悔し、東郷の前に立った。
律の叫ぶ声と椅子を引きずる音が聞こえる。
自分なんかを庇って怪我までしてくれた律に感謝し、これまでの愚行を噛み締めたていた。
刃先は容赦なく振り翳され、デスクライトで反射したナイフが、勢いよく空を切ろうとする。
湊は、ギュッと目を閉じた。
やめろっと叫ぶ律の声。まだこんな自分を守ろうとしてくれるのが嬉しい。そう思った時、誰かの声が律の声と重なって聞こえた。
湊を庇おうとする律の前に、もう一人の影が躍り出てくると、肩で息を吐く背中が二人を守るように立ち塞がっていた。
「門叶……さん」
律が呟くと、「大丈夫か、二人ともっ!」と、門叶が背中越しに叫んでいる。
その声、その姿に湊も律も心の底から愁眉を開いた。
「何で刑事さんここにいるの? どいつもこいつも僕の邪魔をするなっ!」
間髪入れず、門叶目掛けてナイフが襲う。
「危ない! 門叶さん!」
律が叫ぶと門叶はナイフを避けながら、東郷の手首を掴んでいた。
捨て身になった東郷との攻防戦が始まった直後、遅れて部屋に飛び込んできた錦戸が東郷の背後に回ると脇から腕を取り、羽交い締めにして暴れる体を拘束したかと思うと、寝技のように床へ押さえ込んだ。
「うう……、もう少しだったのに……くそっ、くそっ!」
錦戸に押さえ込まれた東郷の手から、門叶はすかさずナイフを取り上げ、冷たく重い枷をポケットから取り出した。
「東郷拓人、午後九時十分、殺人未遂容疑で現行犯逮捕だ!」
金属の冷えた音と共に、東郷の腕に手錠がぶら下がる。その姿に湊と律は目を背けた。
気心知れる優しい講師は復讐に取り憑かれ、たったひとりの家族を失くした悲しみを増殖させて千歳の命を奪った。
奪われた彼女にも自身と同じように、たったひとりしかいない家族がいることも知らずに。
湊と律は、拘束された東郷を呆然と見ていた。それは同僚でもある生方も同じだった。
刑事さん……と、呼び止め、「千歳ヤったのそいつだ」と、震える唇で伝えた。
「そうか……他に何か言ってなかったかな」
錦戸が二人の拘束を外しながら、労わるように聞いてきた。
「糸峰が……千歳の手を、持ってる……どっかに隠して……」
腹部を刺されながらも微かに息をしている糸峰に目を向け、湊は声を詰まらせた。
涙をこらえ、顔を上げたその先に、律の視線が待ち構えていた。
一瞬絡まって耐えきれず、湊は目を逸らしてしまった。
「と、東郷先生……あ、あなたって人はっ、あなたって──」
手枷をはめた東郷に生方が責め立てた。
初めて聞く彼の大声を、湊は虚無の波に揺蕩い聞いていた。
「生方先生、あなた今日、出張じゃ……」
「先生、千歳を……千歳をどうして!」
「……どうして……どうしてだろう。あ……そうか、邪魔されたからだ……」
誰のことも見ていない虚な目の人間に、何を話しても伝わらない。両親がしたことを湊が詫びたとしてもきっと届かないだろう。
「生方先生……ごめん。全部俺の……せいだ。千歳が死んだのも全部……」
失望を眉根に乗せた湊は最後まで言えず、蒼ざめた唇を閉ざした。
生方から顔を背けると、身勝手な考えがよぎる。
いっそのことあの薬を飲み干していれば、悲しみや絶望を連れて死ねたのか、と。
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