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第一章 ~『命を賭ける決意』~

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 体感時間で十年、実時間で十秒が経過した。

 十年あれば人は大きく成長することができる。子供は大人になり、新人はベテランとなる。きっと十年経てばランクAくらいの魔法なら扱えるようになっている。そんな淡い夢を抱いていたが、現実はあまりにも無常だった。

「ランクDの魔法を習得できないッ」

 机の上に積まれたランクDの魔導書たち。炎、風、水。種類は数多くあるものの、その内の一冊すら読むことができずにいた。

「ランクEまでは努力で何とかなったのにな……」

 修業を始めてから三年で、ランクEまでの魔法を習得することができた。もちろんそれは容易ではなかった。文字に目を通すだけで魔力を吸い取られてしまい、進捗は亀のように遅かった。

 それでも本を読むという特性上、どれだけ時間がかかっても前に進んでいる達成感を得ることができた。だからこそアルクの心は折れずに進むことができた。

 しかしランクDになってから事情が急変する。

 一文字目に目を通しただけで、魔力が空になってしまうのだ。これでは先に進むことができない。

 アルクは最初の一文字目を読むために、魔力を増やす訓練に時間を費やした。しかし村人である彼では魔力の増加量があまりにも小さい。

 七年間、自分ならできると信じて努力してきたが、ランクDの魔導書はいまだ大きな壁として立ちはだかっている。

 努力が報われない現実にアルクの心はとうとう折れようとしていた。

「やっぱり村人の俺には無理だったんだ……」
「気を落とさないでください。ランクDの魔法は専門の魔法使いでさえ、習得できる者は稀な高度な技術です。習得できないことを恥じる必要はありませんよ」

 クリスの慰めは決して的外れではない。ランクDは王国内でも使い手が少なく、習得すれば王国騎士団なら大隊長クラスの権限が、王国魔法協会なら上級魔法使いの称号が与えられる。

 選ばれた者しか踏み込めない領域に、足が届かないことを悔しく思うことはあっても、恥じる必要はない。

 クリスの慰めは正論であり、アルクも理解していた。しかし最強を目指すと決めたのに、ランクDで逃げることはできない。だからこそ自分の才能のなさを恥ずかしいと感じていた。

「俺はこのままランクEの魔法使いで人生を終えるのかもな……」
「そんなことありませんよ。アルクくんはやればできる人なのですから♪」

 机の上で頭を抱えるアルクの背中をクリスが優しく撫でる。その優しさが彼の神経を逆なでした。

「いいよな、才能のある奴は……」
「アルクくん?」
「村人の俺が十年間努力してもできないことが、聖女の職業があれば簡単にできるようになる。人生なんて生まれた時から勝者と敗者が決まっているんだ。俺は敗者側の人間なんだよ!」

 酷いことを言ってしまったと、アルクが自覚した時にはもう手遅れだった。クリスは今にも泣きそうな顔で、俯いていた。

「クリス、俺は……」
「いいんです……悪いのは私なんですから……私があなたに無茶をさせてしまったのです」
「クリスは悪くない。悪いのは俺が無能だからで……」
「いいえ、私はあなたを陰ながら応援してきたからこそ知っています。寝る間も惜しんで努力してきたアルクくんが悪いはずありません……そして、努力が報われない悔しさも理解しているつもりです」
「…………」
「もう止めにしましょう。結界も解放します……私の我儘に付き合ってくれて、ありがとうございました……っ」

 結界を解除したのか、周囲に漂っていた魔力の粒子が消え去る。時は動き始め、現実の時間が戻ってきたことを肌で感じる。

「クリス、凡人な俺で本当にすまなかった……」

 結界が解除されたため、アルクは外に出るための扉を探す。すると廊下の突き当りに今まで存在しなかった扉が出現していた。

 扉のドアノブを回した先は階段になっており、昇ると、ステンドグラスが輝く教会へと辿りつく。

「あなたは……」

 教会の内陣で祭壇の前に立っていた老婆がアルクの存在に気付く。目が合った以上、誤魔化すこともできない。アルクは軽く一礼する。

「もしかしてアルクさんですか?」
「俺のことを知っているのか?」
「もちろんですとも。クリスの婚約者ですよね?」
「…………」

 婚約を破棄した以上、首を縦に振ることはできない。しかし否定するのもまた、目の前の老婆にいらぬ誤解を与えるかもしれない。沈黙で答えるしかできなかった。

「俺のことを一方的に知られているのも気分が悪い。あんたのことも教えてくれ」
「ふふふ、申し遅れましたね。私は修道女のマーサです。そしてクリスを立派な聖女に育てるための教育係でもあります」
「あんたが噂に聞いたマーサさんか……」

 アルクはマーサの存在をクリスから聞いたことがあった。親のいない彼女にとって、マーサは親代わりの存在だとも知らされていた。

「ふふふ、それにしてもアルクさんはこういう人だったのですね」
「……あまりに凡庸で失望したか?」
「いいえ。むしろ納得しました。クリスはどんなお金持ちにも、どんな強者にも、どんな美男子にも、振り向きませんでした。しかしあなたのような優しい目をした人になら、心を奪われたとしても不思議ではありません」
「俺は優しくなんてない……」

 自分の無能さが原因で婚約を破棄したのだ。王国一の最低男と呼ばれても何も言い返せない。しかしマーサ―は笑う。

「いいえ、あなたは優しいですとも。その証拠にクリスは口を開けばいつもアルクさんの話ばかりしていました。頬を赤らめて話す彼女は、見ているこっちが胸焼けしそうになるほどにデレデレしていましたから」
「…………ッ」

 自分の知らないノロケ話を聞かされ、何だかむずがゆくなる。

 その反応が微笑ましいのか、マーサは口元に小さく笑みを浮かべた。

「私はあなたに感謝しているんですよ」
「感謝?」
「クリスが立派な聖女になるための訓練を頑張れたのはあなたのおかげなのですから」

 アルクはクリスを助けるようなことをした覚えがない。だがマーサ―の言葉には確信が満ちていた。

「聖女は王国に一人しか生まれません。そのため期待も大きく、その修練は血を吐くほどに辛いのです。事実、あの娘も授業が終わると、修行が辛いとよく泣いていました」
「クリスにそんな過去が……」

 凡人には凡人の苦労があるように、天才にも天才であるが故の苦労がある。国から聖女へ向けられる期待は常人では耐えられないほどに辛いプレッシャーだろう。

「ですがクリスは逃げ出しませんでした。彼女は聖女の立場にありながら、孤児であることにコンプレックスを抱いていました。だからでしょうか。孤児の自分ではアルクさんと釣り合いが取れないと。いつかアルクさんの隣に立てるような立派な女になるのだと、いつも前を向いていました。もしあなたがいなければ、きっと今の彼女はいませんよ」
「俺のために、あいつは……」

 昔のクリスは今のアルクと同じように、婚約で後ろ指を指されないために努力していたのだ。だがアルクと違い、彼女はどんなに苦しくても逃げなかった。

 気づくとアルクの口元に笑みが浮かんでいた。クリスが逃げなかったのだ。なら自分も逃げるわけにはいかない。

「ありがとう、マーサさん。おかげで決心が付いたよ」
「決心?」
「俺は心のどこかで村人の立場に甘えていたんだ。村人だから能力に限界があると決めつけて、本気でやる気概に欠けていたんだ」

 アルクはマーサに頭を下げると、再び地下室へと戻る。薄暗闇の部屋の隅、膝を抱えるクリスの姿があった。

 アルクの気配に気づいたのか、クリスは顔を上げて目を合わせる。彼女の目尻はうっすらと濡れていた。

「これは気まずいところを見られてしまいましたね……」
「俺が泣かせたんだよね?」
「結婚の夢が潰えましたからね。さすがの私でも泣いてしまいますよ……」
「すまなかったな」
「謝らないでください。私が無理を言ったのですから」
「いいや、謝罪させてくれ。そして最強を目指す修業とクリスとの婚約を再開させて欲しい」
「ほ、本気ですか?」
「本気だ。今度こそ迷わない。正真正銘、文字通り命を賭ける」

 アルクは机の上にある魔導書を手に取る。一文字目さえ読むことのできない魔法の書。だが彼には一つの考えがあった。

「魔導書を読めないのは途中で魔力が尽きるからだ。だがこれは正確ではない。魔力は生命力の源でもあるため、完全に絞りつくされれば命を落とす。だから本当に大事な魔力までは浸食されないように無意識にセーブをかけているんだ」

 そのセーブを外せば使える魔力量は増える。ランクDの魔導書を読むことも不可能ではなくなるはずだ。

「危険です! 死ぬ直前まで魔力を使い切るなんて!」
「勘違いするな。俺は直前で止めることさえしない。死ぬ前提で魔力を使い切る」
「そ、そんなの、自殺と変わりません!」
「だからさ、もし俺が命を落としたら、クリスの回復魔法で蘇生させてくれ」

 蘇生魔法を利用した修業法。これこそがアルクの秘策である。

 実はこの方法をアルクはずいぶん前から思いついていた。しかし生き返る手段があると知っていても、死ぬことが怖くないはずがない。どんな恐怖が待っているか分からない場所に足を踏み入れるのは恐ろしかった。

 しかし今のアルクに迷いはない。クリスのためなら死んでやると。そう心に決めていた。

「で、ですが、もし私が蘇生に失敗したらどうするのですか?」
「失敗しないさ」
「何を根拠に……」
「実は地上に出たときにマーサさんと話をしたんだ。そこでクリスが俺のために努力してくれたことを聞いた。ならその努力を信じてやるのも婚約者の役目だろ」
「…………ッ!!」

 人に命を預ける。言葉にするのは簡単だが実行に移すことは難しい。もし失敗したらどうなるのか。もし裏切られたらどうするのか。命を賭ける以上、疑念を完全に払拭することはできない。

 だからこそ命を預けるという行為は全幅の信頼の証である。クリスはその信頼に応えるために覚悟を決める。

「分かりました。あなたは必ず私が蘇生してみせます。だから……安心して死んでください!」
「頼んだぜ」

 アルクは魔導書を開くと最初の文字をジッと見つめる。

 まず襲ってきたのは魔力不足による疲労感だ。だがそれを耐える。次に生命を維持するための魔力が消費され始める。全身が燃えるような熱さを帯びるが、何とか耐えきってみせる。

 そしてとうとう一文字目を読み終えた頃、身体から魔力が尽き、生命さえ維持できなくなる。

 死んだと認識した直後、視界が真っ暗になり、その場に倒れこむ。しかし次の瞬間、身体を優しい光が包み込む。クリスの回復魔法により、アルクは蘇生したのだった。

「生きていますか!?」
「クリスのおかげでピンピンしてるよ」
「良かった! 蘇生は大成功ですね!」
「クラスDの魔導書を読むことにもな」

 アルクは才能の壁を、命を代償とすることで乗り越えた。凡人が天才たちの領域へと足を踏み入れた瞬間だった。

「なぁ、クリス。俺、もっと強くなれるよな?」
「なれますとも。だってあなたは私の婚約者ですから♪」

 手に入れた力を実感するように、アルクは拳を握りしめる。もう二度と逃げださない。彼はそう決意するのだった。

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