BYOND A WORLD

四葉八朔

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第1章

56.蟲の王

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 ホルターネックドレスの胸元から覗く、日焼けした地肌が俺の視界に入ってくる。

 別にスケベ心を起こしたわけでもないのだが、俺より頭ひとつ分以上背の低いエレナが腕を組んで挑発的に見上げてくるせいで、どうしても豊かな胸の谷間のほうに視線が向いてしまう。

 それにしてもまるでこれから舞踏会にでも赴くかのような格好だった。
 モニター越しにこれまでエレナの姿を何度か見てきたが、普段は下ろしている亜麻色の髪を現在は綺麗に結い上げているし、こんな露出の多いドレス姿を見たのはこれが初めてかも知れない。

 いつもは乗馬服やこの世界の庶民に近いラフな格好だったし、昨日の交渉の席でもチュニックの上にサーコートを重ねて着ていただけ。
 あまり女性らしい恰好を好まないのか、どちらかと言えば男女どちらでも着れるような服装が多く、エレナのドレス姿というのは俺のイメージの中にはまったくなかったぐらい。
 まあ、こんなドレス姿もエレナにはよく似合っていたが、わざわざこんな格好をしてきたということはそこに何か裏がありそうだとも感じていた。

「ふーん。レッド・グリーンウッドさんね。レッドさんとお呼びすればいいのかしら?」
「レッドでもそこのあんたでもお好きなようにどうぞ。俺は単なる小間使いに過ぎないんでね」
「もしかしてさっきのことで怒ってる?」
「いや、そういうわけじゃない。孫六が嫌がっているように見えたのでな。あまりしつこくするのは控えてくれると助かるっていうだけだ」
「しつこくしたつもりなんかないのに……」
「みょおおお」
「こう見えてけっこう人見知りするほうなんでな。知らない人間に対しては臆病な性格をしているんだよ」

 実際には人見知りするどころか、出会ってすぐこちらに懐いたぐらい。むしろ人懐っこい性格をしているはずだが。
 今も孫六に触ろうとするエレナの手から、俺の身体を盾代わりにして必死に隠れていた。いったい何があってこうなったのかはわからないが、孫六はどうやらエレナのことが苦手らしい。
 かといって、孫六に嫌われているみたいだから止めとけとはっきり言うこともできない。ここは人見知りということにして、やんわりとお断りするしかあるまい。

「わかったわよ。というか、レッドさんってフローラ様のそばに控えていたぐらいだからそれなりの身分なんでしょ? 普通レオン団長ぐらいの立場じゃないと、重要人物の護衛なんか任されないもの」
「そのレオン団長というのが誰なのか、俺は全然知らないんだが」
「白鷺騎士団の騎士団長よ。そうねえ、団長の身分はたしか準男爵だったかしら」
「なるほど。まあ、身分としてはそんなところだろうな。一応階級としては大佐だが。ただ、セレネ公国とエルセリア王国ではだいぶ身分制度が違うみたいなんで、一概に同じだとは言い切れないところもあるが」
「へええ、そうなんだ。それで今回エルセリアに一緒に付いてきたのはフローラ様の専属騎士だから?」
「そういうわけじゃない。俺が護衛に付いたのはたまたまだ。交渉の場でのあれを見ただろ。そもそもフローラ様には護衛役なんてそれほど必要ないというか、言ってみれば誰でも構わないのさ」

 まったく身分格差がない社会だというのもこの世界の人間にとっては受け入れがたい話だろうし、あまり俺の身分を低く偽るのものちのちになって齟齬が生じてきそうで怖い。
 騎士団長辺りならそこまで目立つこともないだろうと考え、俺はエレナの問いに素直に頷く。

「ふーん」
「何でそんなことを聞きたがるんだ?」
「べ、別にちょっと気になっただけよ。ねえねえ、ということはレッドさんはフローラ様についても詳しいはずよね」
「ん、まったく知らない間柄というわけではないが」
「実はフローラ様のことについて色々と聞きたかったのよね。あれほど美しいお方なんですもの。旦那様はどんな方なのかどうしても気になるじゃない。それに女性であるにもかかわらず、国を代表する御使者を任されているぐらいだもの。お国ではそれだけ尊敬されているってことよね?」
「そういうことは会ったときに直接本人にでも聞いてくれ」

 おそらく男尊女卑の激しい社会だ。
 ラウフローラのような女性が政治の表舞台に出てくることが相当珍しいのだろう。
 その点を考慮しなかったわけでもないのだが、現在男性型ドールで残っているのは万が一のためにウーラアテネ周辺の警護を命じているドルトミクスだけ。
 これ以上ウーラアテネを手薄にすることはさすがに避けたかった。

「何よ、少しぐらい教えてくれたっていいじゃない。そりゃ私も最初はついカッとなっちゃたから悪いところがあったのかも知れないけど。セレネ公国の方々とはこの先仲良くやっていきたいのよ」
「そりゃ同感だね。ただ、俺と仲良くする必要はないぞ。この俺が言うのもおかしな話だが、エレナお嬢様が今相手にしなきゃならないのは、バルムンド提督やフローラ様のはずだと思うが?」
「それはそうなんだけど――」
「エレナお嬢様。先にフローラ様にお会いして、昨日の謝罪をされたほうがよろしいのでは? レッド様、申し訳ありませんが案内のほうをお願いできますか」

 と、エレナの隣へと並んだマーカス少年が不意に俺たちの会話に口を挟んでくる。
 俺にはそれが意図的にエレナの言葉を遮ったように感じた。
 となると、今の会話でエレナが何かマズいことを口走りそうになったということか。

「ええ、そうよね。まずはフローラ様やバルムンド提督に昨日の非礼を詫びるほうが先だったわ」
「まあ、そんなところだろうと思い、俺もこうやって外に出てきたんだけどな。フローラ様のところまで案内するから一緒に付いてきてくれ」

 俺はそれだけ言うと、孫六の手を引きながら屋敷のほうに向かって歩いていく。

 バルムンドの予想は外れたが、エレナが謝罪に来ること自体はそうおかしくないと俺は思っていた。
 エレナ自身の意志ではなく、父親からそう命じられてこの場にやってくることは充分に考えられたからだ。
 ジークバード伯爵の立場からすれば、セレネ公国の機嫌を取り、何とか交渉を再開させたいはず。その役目がストレイル男爵ではなく、エレナのほうだったのは少々意外だが、女性であるエレナのほうがこちらの態度も軟化しやすいと考えただけなのかも知れない。

 ただ、そうじゃない可能性だってある。
 だとしたらいったいどんな意図が隠されているのかを頭の中で考えながら、俺はエレナとマーカスのことを屋敷の中へと招き入れていた。

 ◆

「クリスティーナお嬢様。新しい食料を檻の中へ運び終えました」
「モンドさん、お疲れ様。それじゃあ先に馬車のほうに戻っていていいわよ。小1時間ほど経ったらこの私も戻る予定だから」
「はい、承知致しました」

 暗い地下回廊の中、そんな会話が聞こえてくる。
 ひとりはここグラン領の領主であるアンドリュース伯爵のひとり娘、クリスティーナ。そしてもうひとりはクリスティーナの下男であるモンドという老人の様子だった。
 ただ、どうやら現在地下回廊の内部に居たのはそのふたりだけではなかったらしい。
 モンドという老人が地上に出て行くのと入れ替わるように、奥のほうからフロイド神父が現れ、クリスティーナに対して声を掛ける。

「今回の食料は亜人の子供のようですな」
「それなのですよ、神父様。最近は街中の警備がやたらと厳重で。仕方なく避難民の亜人の子供で代用するしかなかったのです」
「ふむ。それも仕方ないことでしょうな。すでに何十人もの子供が行方をくらましているのですから。それにサイード導師も人間の子供でなければ駄目だとはおっしゃられなかった。おそらく亜人でも問題ないと思いますが」
「だといいのですけれど」
「安心してください、クリスティーナ様。王はすでに成長を終え、最終段階に入っています」
「それは本当ですか?」
「ええ。あとはサイード導師から教えられた儀式用の魔呪さえ唱えれば、進化が始まるはず。とはいえ、今後もたくさんの餌が必要になってきますので、食料のほうもけっして無駄にならないと思いますよ」

 そう言ってフロイド神父がクリスティーナへと野卑な笑みを向ける。
 だが、そんな笑みを向けられたクリスティーナのほうはといえば、フロイド神父の言葉もなかば上の空で、感慨深げにうっとりと目を細め、何事かを妄想している様子があった。 
 
「半年かけてようやくここまで……。ついに儀式が始まるのですね」
「ええ。まもなく蟲の王がこの地に誕生することでしょう」
「この儀式が成功すれば、きっと私の忠誠心がザルサス様の元にも届くはず。そうなればこの私が使徒に選ばれることも夢ではないわ」
「見事蟲の王を復活させた暁には、ザルサス様からの覚えがめでたくなるのは確実かと。つまりはクリスティーナお嬢様の望みである絶世の美貌と永遠の若さをザルサス様から授けられるということですな」
「ふふふ。本当にそうなればいいのですが」
「かのサイード導師も太鼓判を押しておられたので、まず間違いないかと。使徒はおろか、貴人に選ばれることすらあり得る話ですよ。ですが、そこにはこの私めの多大なる貢献があったことをけっしてお忘れなきようにお願いしますよ」
「ええ、もちろんわかっておりますわ。私が使徒に選ばれさえすれば、世俗の権力など思いのまま。フロイド神父の好みの少女ぐらい、いくらでも用意できますもの」
「ならばいいのですが……」
「心配しないでください。約束を反故にしたりなどしませんので。それでは参りましょうか。新しい我らが王をお迎えに」

 薄暗い回廊にコツコツとふたり分の靴音が響く。
 狭く短い回廊の奥にある分厚い鉄扉に向かって、クリスティーナとフロイドのふたりはゆっくりと歩いていった。

 ◆

「グム・エルセント・ジエム・バルマルバシム・ドーンガ・ディレム。トゥトゥイヌス・グルース・バル・ドーシャン……」

 両脇にかがり火が焚かれた祭壇の向こう側。
 そこには縦長の大きな魔物が、いささか狭い穴倉の中で窮屈そうにその身を潜めていた。
 その魔物がクローリーニードルだということは熟練の冒険者ならひと目見てわかったはずだ。
 ただ、そのクローリーニードルは普通の個体と比べて、身体のサイズが桁違いに大きい様子。本来ならば大型でも2メートルから3メートル程度だと言われているのに、おそらくその個体は5メートル以上の巨体であるように見えた。
 いや、穴倉の奥は薄暗く、奥の方まではっきりとは見えていない。もしかしたらそのクローリーニードルは実際にはもっともっと大きかったのかも知れない。

 いずれにせよ、そんな巨体が穴倉の中で静かに身を潜めている様子はどことなく奇妙であるように感じた。
 何故なら魔物のすぐ目の前には、美味しそうなふたつの餌があったからだ。だというのに魔物はその餌にはまるで興味を示していない。
 どういう理由から餌だと見做されていないのか定かではないが、すぐ届くような距離に居るクリスティーナとフロイド神父のふたりは平気で地面に腰をおろしていた。

 そんなふたりは腕に魔道具らしい腕輪を付けており、何か呪文のようなものを唱えている最中。
 その朗々と読み上げているその呪文は魔呪と呼ばれる種類のもので、クローリーニードルを蟲の王へと進化させるための邪法らしい。
 そしてふたりが現在腕に身に付けている腕輪は、蟲の王をコントロールするための魔道具。だからこそ目の前に居るふたりを魔物も襲わなかったのだろうが。
 少なくともフロイドとクリスティーナのふたりは、そうサイード導師から教えられていた。

 と、長い詠唱もようやく終わりを告げたらしく、口を結んだクリスティーナがその場に座ったまま重々しく顔を上げる。

「ふう……。これですべてが完了したのよね? あまり何か変わったようには見えないけれど」
「いいえ、ご覧ください。今も王は周囲に集まった邪気を吸収している様子。どうやら見事進化が終了したようですぞ」
「ほっ。成功したのね」
「はい。これで虫系の魔物すべてがこの王に従うはずです。その気になればマガルムークはおろか、この世界を支配することすら可能やも知れませんぞ」
「それも面白いかも知れませんね。ですが、どうせサイード導師がお戻りになられるまではこの場から動かせないのでしょう?」
「そうですね。もうしばらくはこのまま隠し通さなければならないかと。ただ、虫使役の能力のほうは私たちだけで試してみたほうがいいかも知れません」
「そうね。ほかの虫系の魔物がこちらの言うことをきかなければ、あまり意味がないもの」
「では、さっそく試してみますか」

 そう言ってフロイド神父が立ち上がり、蟲の王へとゆっくり近付いていく。
 これまでも腕に付けた魔道具のおかげで大丈夫だったからか、クローリーニードルが目と鼻の先に居るというのにフロイドの顔には恐怖心のようなものが一切見当たらなかった。
 その場に立って掲げるようにして腕輪を魔物に対して向けると、何やら呪文を唱え始める。

「グム・エルセント・ジ・ルシウム・ドーガ。蟲の王よ。近場に棲息している魔物をこの地に呼んでほしい。そうだな。2,3匹も居れば十分だ」

 そんなフロイド神父の言葉を理解したのか。
 魔物がゆっくりと鎌首をもたげると、頭部を上方に向けて右左へと揺らす。
 クリスティーナにはその姿がまるで何か考え込んでいるようにすら見えていたほどで、少なくとも蟲の王がその言葉に反応を示していることだけは確かだった。
 
「FUSYUKIKIRIKIRIKIKIRIKIRIKI!」

 と、奇妙で耳障りな鳴き声がその場に響き渡る。

 ――いや。
 口の前に付いている顎肢がっきゃくをキリキリと擦り合わせる音が、まるで鳴き声のように聞こえただけなのかも知れない。
 どうやらフロイド神父はその鳴き声を肯定の言葉だと受けとったらしく、その場で後ろを振り向くと、蟲の王から背を向けクリスティーナに対して話し始めていた。

「おそらくこれで伝わっているはずです。とはいえ、実際にほかの魔物が現れるまで本当に成功したのかどうかはわかりませんがね。まあもう少し待てば――」

 そこまで言って、フロイドの言葉が不意に止まる。
 といってもフロイドが何事かに気付き、言い淀んだわけでもない。それどころかフロイドからすれば、言いたいことを言えなくなっただけだった。

「ひっ!」

 クリスティーナの口からそんな小さな悲鳴が漏れる。
 そればかりか思わずその場に尻もちをついてしまうクリスティーナ。
 その体勢のまま、クリスティーナがズルズルと這いずるように後ずさっていく。
 クリスティーナの目には、頭部の上半分を失くしたフロイド神父の身体がゆっくりと前方に倒れていく光景だけが映っていた。
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