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第三話
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心音と返り血
六月の終わり、湿気の多い曇り空の日だった。
その日、蓮は学校に来ていなかった。理由は誰も知らなかったし、先生も深く追及しなかった。
私は何となく予感がして、帰り道を遠回りした。いつも彼と寄る古びたバス停の裏に、小さな空き地がある。そこに、彼はいた。
制服は着崩れていて、白いシャツには赤黒い染みが点々とあった。
私は数秒間、声をかけられなかった。
その染みが何か、分からないふりをしようとしても、視線がそこに吸い寄せられてしまう。
「……それ、何?」
私がそう聞くと、蓮は少し困ったように笑った。
「雨で落ちなかったみたい」
誰の血か、どこでそうなったか。彼は言わなかったし、私は聞かなかった。
ただ、その目がどこか遠くを見ているようで、私はまた心臓がきゅっと痛むような気がした。
そしてなぜだか、私はその場で膝をついて、彼の服の袖をそっと指先でつまんだ。
「……洗えば、落ちるかな」
蓮は少しだけ目を伏せた。
「落ちないものもあるよ」
その言葉が、何を意味しているのか、私にはわかるようで、わからなかった。
「楽しかった?」
私は、自分でもなぜそう聞いたのか分からなかった。声は震えていなかった。けれど、胸の内側がひどくざわついていた。
蓮は少しだけ考えてから、静かに首を横に振った。
「ううん、楽しくなかった。今回は」
「どうして?」
「……なんか、ただ殴っただけだった。終わった後、空っぽだった」
彼のその言葉に、私は安堵してしまった自分に驚いた。
彼が喜んでいなかったことに、救われた気がしたのだ。
でも、それと同時に胸の奥で、別の感情が静かに芽を出していた。
“彼が喜んでいたら、私はどうしていただろう?”
もし彼が「楽しかった」と言っていたら。私もその感情に共鳴してしまったのではないか。
その想像が、ひどく怖かった。
次の日、蓮は何事もなかったように登校してきた。
クラスでは誰も何も言わず、彼もまた、何も語らなかった。
私は彼の机に目をやりながら、心の奥でぐらつく何かを必死で抑えていた。
休み時間、私はそっと彼に言った。
「……誰にも、見られてないんだよね?」
彼は目を細めて、少しだけ首を傾げた。
「うん。大丈夫。気をつけてるから」
それだけを言って、教室の窓の方を見た。
雨上がりのグラウンドが、鈍く光っていた。
私はその視線の先を追いながら、胸の内で言葉にならない疑問が渦を巻いていた。
その日の放課後、私たちはまたバス停の裏に行った。
地面はまだ濡れていて、古いベンチの木がしっとりと湿っていた。
「……またやるの?」
私の問いに、蓮は少しだけ笑った。
「わからない。でも、たぶん、またやると思う」
私は黙って頷いた。
そのあと、ほんの短い沈黙が流れた。
耳を澄ますと、遠くで鳥が鳴いていた。
そして、自分でも驚くほど自然に、口にしていた。
「……今度、私もついていく」
蓮は一瞬だけ目を見開いた。
その目に映った感情が、戸惑いだったのか、喜びだったのか、それとも警戒だったのか、私にはうまく読み取れなかった。
でも、彼は否定しなかった。
「……うん。わかった」
そのやりとりが、どれほど重い意味を持つか。その時の私は、まだ全部を理解していなかった。
けれど、それでも、そう言わずにはいられなかった。
あのとき、彼のそばにいたかった。
誰かを傷つけた手でも、その手を、私は見捨てられなかった。
――でも、その時の彼の笑顔は、確かに少し嬉しそうだった。
それが、私をより深く縛った。
六月の終わり、湿気の多い曇り空の日だった。
その日、蓮は学校に来ていなかった。理由は誰も知らなかったし、先生も深く追及しなかった。
私は何となく予感がして、帰り道を遠回りした。いつも彼と寄る古びたバス停の裏に、小さな空き地がある。そこに、彼はいた。
制服は着崩れていて、白いシャツには赤黒い染みが点々とあった。
私は数秒間、声をかけられなかった。
その染みが何か、分からないふりをしようとしても、視線がそこに吸い寄せられてしまう。
「……それ、何?」
私がそう聞くと、蓮は少し困ったように笑った。
「雨で落ちなかったみたい」
誰の血か、どこでそうなったか。彼は言わなかったし、私は聞かなかった。
ただ、その目がどこか遠くを見ているようで、私はまた心臓がきゅっと痛むような気がした。
そしてなぜだか、私はその場で膝をついて、彼の服の袖をそっと指先でつまんだ。
「……洗えば、落ちるかな」
蓮は少しだけ目を伏せた。
「落ちないものもあるよ」
その言葉が、何を意味しているのか、私にはわかるようで、わからなかった。
「楽しかった?」
私は、自分でもなぜそう聞いたのか分からなかった。声は震えていなかった。けれど、胸の内側がひどくざわついていた。
蓮は少しだけ考えてから、静かに首を横に振った。
「ううん、楽しくなかった。今回は」
「どうして?」
「……なんか、ただ殴っただけだった。終わった後、空っぽだった」
彼のその言葉に、私は安堵してしまった自分に驚いた。
彼が喜んでいなかったことに、救われた気がしたのだ。
でも、それと同時に胸の奥で、別の感情が静かに芽を出していた。
“彼が喜んでいたら、私はどうしていただろう?”
もし彼が「楽しかった」と言っていたら。私もその感情に共鳴してしまったのではないか。
その想像が、ひどく怖かった。
次の日、蓮は何事もなかったように登校してきた。
クラスでは誰も何も言わず、彼もまた、何も語らなかった。
私は彼の机に目をやりながら、心の奥でぐらつく何かを必死で抑えていた。
休み時間、私はそっと彼に言った。
「……誰にも、見られてないんだよね?」
彼は目を細めて、少しだけ首を傾げた。
「うん。大丈夫。気をつけてるから」
それだけを言って、教室の窓の方を見た。
雨上がりのグラウンドが、鈍く光っていた。
私はその視線の先を追いながら、胸の内で言葉にならない疑問が渦を巻いていた。
その日の放課後、私たちはまたバス停の裏に行った。
地面はまだ濡れていて、古いベンチの木がしっとりと湿っていた。
「……またやるの?」
私の問いに、蓮は少しだけ笑った。
「わからない。でも、たぶん、またやると思う」
私は黙って頷いた。
そのあと、ほんの短い沈黙が流れた。
耳を澄ますと、遠くで鳥が鳴いていた。
そして、自分でも驚くほど自然に、口にしていた。
「……今度、私もついていく」
蓮は一瞬だけ目を見開いた。
その目に映った感情が、戸惑いだったのか、喜びだったのか、それとも警戒だったのか、私にはうまく読み取れなかった。
でも、彼は否定しなかった。
「……うん。わかった」
そのやりとりが、どれほど重い意味を持つか。その時の私は、まだ全部を理解していなかった。
けれど、それでも、そう言わずにはいられなかった。
あのとき、彼のそばにいたかった。
誰かを傷つけた手でも、その手を、私は見捨てられなかった。
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それが、私をより深く縛った。
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