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第四話
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君が望むなら
七月に入った。蝉の声が鳴り始め、校舎の空気は騒がしく、どこかうわついていた。
でも私たちは、その喧騒から少し外れた場所にいた。いつもの図書室の窓際、風が通る時間だけが、唯一まともに感じられた。
蓮は相変わらず静かだった。けれど、その静けさは以前よりも深く、硬質なものになっていた。
沈黙が増えた。
けれど、私はその沈黙の中に、彼の本音が隠れているような気がしていた。
「……今日、来る?」
放課後、蓮がぼそっとそう言った。
私は頷いた。
ただ頷いただけで、それがどういう意味を持つか、もう説明はいらなかった。
夕暮れ前、駅裏の古い廃ビル。街のはずれ、誰も通らない道。
私は蓮の数歩後ろを歩いていた。肩越しに見えるその背中は、まるで何かを背負っているように重く見えた。
「ここから先は、戻れないよ」
蓮は立ち止まり、そう言った。背を向けたままの声は、やけに冷静で、静かだった。
「うん、わかってる」
私は自分の手のひらを握りしめて、答えた。
彼を止めることも、引き返すことも、もう考えていなかった。ただ、そばにいたかった。それだけだった。
何が起こったのか、断片しか思い出せない。
急な物音、誰かの怒鳴り声、走る足音。血の気の引いた手、息苦しいほどの沈黙。
私は走っていた。蓮の手を握って、全力で。湿ったコンクリートの匂いと、夜の街の光が、ぐにゃりと曲がって見えた。
どこかで悲鳴のようなものが聞こえた気がした。でも、振り返らなかった。
蓮は走りながら、ふっと笑った。
「君、思ったより速いね」
私も笑った。
なぜ笑えたのか、自分でもわからなかった。ただその瞬間、彼と同じ景色を見ていることに安心していた。
川沿いの遊歩道まで逃げてきたとき、ようやく足を止めた。
二人とも肩で息をしながら、誰もいないベンチに腰を下ろした。
蝉の声はまだ遠く、街灯がちらちらと揺れていた。
「……大丈夫だった?」
蓮がそう聞いた。私は黙って、自分の手のひらを見た。
指先にこびりついた赤茶色の汚れ。服の袖にも、点々と何かがついていた。
「うん。大丈夫」
それが本心かどうか、自分でもよくわからなかった。
でも、蓮がいるから、大丈夫だと思いたかった。
「無理させたね」
「……違う。私が、ついていくって言ったの」
蓮は私の言葉に、目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「嬉しかったよ」
私はその言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「それって、どういう“うれしい”?」
「わからない。たぶん、喜びじゃないかもしれない。ただ……君が隣にいたこと、それだけは確かに、俺を落ち着かせた」
私はゆっくりと彼の手を取った。
その手は、ひどく冷たくて、震えていた。
私はその震えごと、手のひらで包み込んだ。
「私は、蓮が望むなら……何でもするよ」
「……それ、危ないよ」
「うん。でも、そうしないと、自分が壊れそうなの」
夜風が吹いた。
私たちの間にある境界線は、もう見えなくなっていた。
――そのときの私には、彼と一緒に壊れていくことしか、救いだと思えなかった。
七月に入った。蝉の声が鳴り始め、校舎の空気は騒がしく、どこかうわついていた。
でも私たちは、その喧騒から少し外れた場所にいた。いつもの図書室の窓際、風が通る時間だけが、唯一まともに感じられた。
蓮は相変わらず静かだった。けれど、その静けさは以前よりも深く、硬質なものになっていた。
沈黙が増えた。
けれど、私はその沈黙の中に、彼の本音が隠れているような気がしていた。
「……今日、来る?」
放課後、蓮がぼそっとそう言った。
私は頷いた。
ただ頷いただけで、それがどういう意味を持つか、もう説明はいらなかった。
夕暮れ前、駅裏の古い廃ビル。街のはずれ、誰も通らない道。
私は蓮の数歩後ろを歩いていた。肩越しに見えるその背中は、まるで何かを背負っているように重く見えた。
「ここから先は、戻れないよ」
蓮は立ち止まり、そう言った。背を向けたままの声は、やけに冷静で、静かだった。
「うん、わかってる」
私は自分の手のひらを握りしめて、答えた。
彼を止めることも、引き返すことも、もう考えていなかった。ただ、そばにいたかった。それだけだった。
何が起こったのか、断片しか思い出せない。
急な物音、誰かの怒鳴り声、走る足音。血の気の引いた手、息苦しいほどの沈黙。
私は走っていた。蓮の手を握って、全力で。湿ったコンクリートの匂いと、夜の街の光が、ぐにゃりと曲がって見えた。
どこかで悲鳴のようなものが聞こえた気がした。でも、振り返らなかった。
蓮は走りながら、ふっと笑った。
「君、思ったより速いね」
私も笑った。
なぜ笑えたのか、自分でもわからなかった。ただその瞬間、彼と同じ景色を見ていることに安心していた。
川沿いの遊歩道まで逃げてきたとき、ようやく足を止めた。
二人とも肩で息をしながら、誰もいないベンチに腰を下ろした。
蝉の声はまだ遠く、街灯がちらちらと揺れていた。
「……大丈夫だった?」
蓮がそう聞いた。私は黙って、自分の手のひらを見た。
指先にこびりついた赤茶色の汚れ。服の袖にも、点々と何かがついていた。
「うん。大丈夫」
それが本心かどうか、自分でもよくわからなかった。
でも、蓮がいるから、大丈夫だと思いたかった。
「無理させたね」
「……違う。私が、ついていくって言ったの」
蓮は私の言葉に、目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「嬉しかったよ」
私はその言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「それって、どういう“うれしい”?」
「わからない。たぶん、喜びじゃないかもしれない。ただ……君が隣にいたこと、それだけは確かに、俺を落ち着かせた」
私はゆっくりと彼の手を取った。
その手は、ひどく冷たくて、震えていた。
私はその震えごと、手のひらで包み込んだ。
「私は、蓮が望むなら……何でもするよ」
「……それ、危ないよ」
「うん。でも、そうしないと、自分が壊れそうなの」
夜風が吹いた。
私たちの間にある境界線は、もう見えなくなっていた。
――そのときの私には、彼と一緒に壊れていくことしか、救いだと思えなかった。
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