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第4章
進展と後退 4
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「とりあえずお風呂沸かして来るので、適当に寛いでいてくださいね」
「え?あ、ありがとうございます」
普通に家に上がってしまったが、白石さんはなぜ普通に風呂を沸かしに行ったんだろう…家に上がったのもよく分かっていないのに、更によく分からないまま宿泊コースにプランが変わっていないか?
これで白石さんの家に上がるのは3回目になるが、1回目は酔い潰れてたし2回目は…うん、あんな感じだったし、少し酔っているとはいえ普通の精神状態で白石さんの家に上がるのはこれが初めてだ。
駅チカ、築浅、広くて綺麗なマンションの一室…
改めて思うけどすごい所に住んでるよな…
白石さんの給料は知らないが、男の一人暮らしでこのようなマンションを購入することは可能なのだろうか。
こぢんまりとしたアパートの家賃を支払うだけで残り少ししか余裕の出ない一人暮らしの男がここにいるわけなので、白石さんの収支の内訳が全く想像できない。
とりあえずソファーに腰掛けて、ちらっと部屋を見渡す。
インテリア凝ってるなぁと漠然と思っていたが、以前白石さんが言っていたように余計なものは置いていないし、掃除がしやすいように工夫しているようだった。
というか気付きたくなかったが、もしかして俺の部屋、このリビングより狭くないか?
おかしい…俺の方が歳上で社会人歴は長いはずなのに、この格差…
「すみません、飲み物何もお出ししてなかったですね!」
パタパタと白石さんが急いだ様子で戻って来る。
「いやいや!大丈夫ですよ!というよりすみませんいつも…」
いつも…そうだ、飲み物の前後には毎度色々なことが起きていたんだった…
というか今俺が座ってるソファーもこの間白石さんが座っていて、ここで自ら服を脱いでいるところをじっくり見られれれれれれれれれれれ
「紅茶でもホットレモンでも、何でもお出しできますよ。何にします?」
「れっ!!!そっ、じゃあ、紅茶で…」
「いつものお砂糖無しですね?」
「は、はい…」
どうしてこういうタイミングでわざわざ思い出さないようにしていたことを思い出して意識し出すんだよ黒原三芳~!!
カウンター付きのキッチンでカチャカチャと飲み物を用意する音が聞こえて、自然な感じで俺も手伝いますとか言えば良かった…などと悶々と考えているうちに「どうぞ」と紅茶を差し出され、受け取るとL字ソファの斜め向こう側にストンと腰を下ろした。
ああ、白石さんがこのソファに座っている様子を見るとつい色々思い出されてしまう…
「黒原さんは…」
「はっ!はいっ!」
唐突に声を掛けられ、声が裏返りそうになる。
「10年前に恋人と別れてから、女性が怖いと以前仰られていましたが」
「え…?あ、はい」
白石さんの方を見ると真面目な目線をこちらに向けてきていたので、思わず姿勢が正される。
「具体的には、何が怖いと感じますか?」
「え?具体的に?うーん…何だろう」
「頭で考え込まず、単語でも何でも良いです、思い浮かんだことを口に出してみてください」
思い浮かんだこと…思い浮かんだこと…
「うーん…そうだなぁ…自分でもよく分からないけど、猫かぶってるところとか…」
「猫被りですか?」
「うん、そうですね…表面上は可愛らしい振りして、実際人を見下してるところあるじゃないですか?そういうところとか…」
モヤモヤと元カノの姿が頭に浮かぶ。
そうそう、本性をうまく隠して世渡りをしている感じ。付き合う前に分かっていたらと、何度思ったことか。
「それと…声。元々そんな声じゃない、みたいな…」
「声ですか?」
「うん、声ですね…女性に限ったことではないですが、電話とかもそうですけど、声色って変わるじゃないですか?」
「ええ、ワントーン高くなったりしますね」
「実際はもっと…なんというか威圧的な声なのに、合コンとかだと…あ、猫被りと一緒かも」
「なるほど、偽って表面に出てくる部分と元々の性質のギャップが怖いと感じるんですね」
「うん、そうですね…あとは爪とか唇とか…着飾ったりしてるのが怖いのかなぁ」
「この間の女性はあまり怖いと感じなかったのですか?」
この間の女性…みどりさんのことか。
そういえば怖いとは思わなかったな…何でだろう。
「うーん、怖いと言うよりも困った…って感情のほうが強かったし…何でですかね。」
「お仕事では普通に女性と関われるとも仰っていましたもんね」
「そうです、なので…」
もしかすると、元々恋愛に発展することを前提とした出会いや関係に抵抗があるのか?
みどりさんは途中から雰囲気変わったにしても最初はただぶつかりぶつかられただけの間柄だったし、職場の女性陣はそもそもそういう目で見たことがないし。
「今思ったけど、恋愛に発展するような関係が怖いのかもしれません」
「なるほど、恋愛ですか」
「付き合わなければずっと変わらない関係で居られるじゃないですか?元カノは俺と付き合ったから変わってしまったと思うので…」
元カノのあの憎らしい顔が浮かぶ。けどそうだ、最初はそんな感じじゃなかった。優しくてよく気の回る、明るい良い子だったのに…
「その女性は、出会った時と付き合っている間で随分変わられてしまったんですか?」
「うん…そうですね。最初はすごく優しかったのに、突然ガラッと変わりました。今思うとその頃から浮気してたのかな」
「と言いますと?」
「あ、言ってませんでしたっけ…他に好きな人作って、途中からそっちが本命になってたみたいなんです」
「そんなことが…」
白石さんの表情が曇る。
すっかり白石さんにはなんでも話した気になっていたが、そうか言ってなかったか。
「突然、三芳は浮気してる!とか言い出して、束縛されるようになったんです。ほら、浮気を疑うのは浮気をしている人間だってよく言うじゃないですか、当時はそんなとこまで考え付かなかったけど…」
「突然浮気を疑われるようになって、その頃から人が変わってしまったんですね」
「そうですね…そもそも俺が肉体関係を持てなかったのが悪いんですけど、やっぱ理不尽ですよね」
「理不尽を感じるんですね」
「そりゃそうですよ!罵ったり浮気したりするくらいならとっとと別れて欲しかったです、何度も別れ話はしていたんですよ」
「彼女さんは了承しなかったんですか?」
「別れを切り出すたびに、ものすごく取り乱すんですよ。やっぱり浮気してるんだ!とか、私のことが大事じゃないんだ!とか泣いて叫んで暴れて…いやあ思い出すと地獄ですね」
時には物を投げられたり叩かれたり引っ掻かれたり、思い出すと結構すごかったな。毎回宥めて必死に謝ってその場をおさめてたけど、よく逃げ出さなかったと感心する…いや、逃げ出さなかったんじゃなくて、逃げ出せなかったんだけど。
対等な関係でも何でもなくて、常に顔色伺って気を張りっぱなしで、女王と下僕みたいだったな。今思うと。
「なるほど、ヒステリックな部分があったんですね」
「いやもう、ヒステリーもいいとこですよ!なんだってあそこまで怒り狂う体力がありますよね!?そのエネルギー他のところに使えばいいのにとか…なんか思い出したらムカついてきました、ハハハ」
「それは黒原さんが怒るのも当然だと思いますよ」
今までは思い出すたびに体が強ばり気持ちが沈んでしまうだけだったが、なぜだか今は怒りと同時に笑えてきて、なんとなく気持ちがラクになってきた。
というより、こんなふうに笑って元カノとの話をする日が来るとは思わなかったな…それも白石さんに。
「なんか、長い間怒るよりも…自責の念ばかりだったので、元カノに怒りを感じたのは今が初めてです」
「なるほど、ずっと内部に向いていた感情が初めて外部に向いたんですね」
「外部に…」
たしかに。今まではずっと、自分の悪いところを探して嫌な思い出に囚われて自分を責めることしかしていなかったのに、今、元カノの悪口を普通に話している。それが良いことなのかどうなのかは分からないが…
「きっともう、黒原さんは大丈夫ですよ。これは本当に大きな前進なんですよ」
ニコッと優しい表情をこちらに向ける白石さん。
「前進…ですか?」
「ええ、今まではずっとご自身を責め続けて来られたじゃないですか?」
「ええ…そうですね」
「自分を責めることって、ものすごくエネルギーを使うことなんですよ。内側に向いていた感情が、今初めて元カノさんに対して怒りという形で放出されたんです」
「あ、そうか…」
俺初めて、元カノに怒ってるんだ。
自分自身じゃなくて、元カノに。
ずっと、自分だけが悪いんだと思ってた。元カノには非がなくて、あんなことになったのも全て俺に原因があって、俺だけが悪いんだと思ってた。
けど、実際には俺にも悪いところはあったけど、元カノにも悪いところがあったんだよな。
そう思うと、胸のつかえが取れて…すっと心だけじゃなく身体も軽くなった気がした。
「黒原さんは、もう次に進めると思いますよ」
「そ…そうですかね?」
「僕が保証しますよ。今までの出来事を、これからどんどん上書きして行けば良いんです」
「上書きかぁ…」
「悪い思い出を良い思い出で塗り替えれば、完全には消せなくてもじきに目立たなくなりますよ」
「そうか…そうですね、なんか…いつもありがとうございます、白石さん」
「出会ったばかりの頃に比べると、黒原さん表情すごく明るくなってますし。僕で多少塗り替えられちゃってたりして?あはは」
からかうような顔になって、楽しそうに笑う。
僕で塗り替えられちゃったり…一瞬意味を考えたが、その一瞬でボッと顔が熱くなった。
「なッ…ま、また白石さんは…」
いや、事実そうなんだけど!!
真面目な雰囲気だったのに突然そういうことを言うから!!
「冗談はさておいて、黒原さんの前に早く素敵な女性が現れるのを願ってますよ」
白石さんがスッと、またいつもの仮面を被ったような笑顔に戻る。
この顔、見覚えある。さすがの俺でもわかる、この間もそうだった。
本音と建前と願望が複雑に混ざっていて、きっと本人も何が本心なのか分かっていない、けど少なくとも、俺のために何かをしようとしたり言おうとしたりしている時の顔だ。
「…本当はどう思ってるんですか?」
「え?」
こっちはもう情けないことに負けが目に見えるので、遠回りな聞き方はしない。正攻法でストレートに聞くことにした。
「それ、お仕事モードじゃないですか?白石さんは、どう思ってるんですか?」
ちょっと声が震える。恐怖と言うより、これはちょっと前のベビに睨まれたカエルだった頃の記憶が残っていることによる、生存本能なのだと思う。
「お仕事モード…ではありませんけど」
白石さんがソファの背もたれに体を預けると、小さく軋む音がした。
姿勢が変わったので、白石さんの目線が少し鋭くなったように見える。正直、動悸がすごい。
腕を組んでいるときの白石さんのこの威圧感…!けど負けるな黒原三芳、白石さんに負けるなって意味じゃなくて、自分に負けるな!なぜならこれは勝負じゃなくて、会話だから!
俺はカエルじゃない!ナメクジになるんだ!!
「い、今言ったこと、本心じゃないですよね?」
気合を入れて口に出すと、つい身が乗り出す。
じっとこちらを見つめてくる白石さん。一体どのぐらい見つめあったか…時間にするとほんの数秒とかそのぐらいなのだろうが、その間は永遠のように感じられた。
動悸がすごいのに息が詰まって呼吸が出来ないし、一瞬で全身にじわっと嫌な汗が滲み出て、正直生きた心地がしない…
すると、ふっと白石さんが小さく笑って
「…ほんと、昔から変わらないですね黒原さんは」
小さなため息をつくように、小さく呟いた。
「…昔?」
昔って、いつの?紺野達と合コンに行った時?
「なんでもないです、それで黒原さんは…僕から本心とやらを聞き出してどうするんですか?」
いつもの余裕な表情に戻って、というより悪そうな笑顔になりながら、組んだ腕を解いて膝にひじをつき、前屈みの姿勢になる。
距離が数センチ縮んで、目線が下がった白石さんの目…さっきとはまた違う鋭さがあって、つい生唾を飲み込む。
「ど、どうって…」
「後先考えず僕のこと煽らない方が良いですよ、何しでかすか分からないので」
ニヤッと楽しそうに口角を上げる。
「な、何をしでかすつもりですかッ!?」
「さあ、何でしょうね?」
「て、いうか!煽ってないです!別に!!」
「そうですか?むしろ期待してるのかと思いましたよ」
この不敵な顔…!
「な、何を!期待してるって言うんですか!!」
「黒原さんが想像しているようなことでしょうかね?」
「何を想像してると思ってるんですかッ!!!」
「さあ、僕には分かりませんね…黒原さんの顔が真っ赤になるようなこと、さて一体何でしょうね?」
バッと顔を背ける。
こ、この男はーーーー!!
クスクスと楽しそうに笑う声が聞こえるが、これ以上言い返すことがどうしてもできない…あまりにも恥ずかしすぎる。顔から溶けてしまいそうなぐらい、顔が熱い。
「黒原さん、怒りましたか?」
「お、怒ってません!」
「なら、こっちを見てくださいよ」
本当にこの男は…!
怒っていないのも知っているはずだし、顔が赤いのを見せたくないのも分かっているはずなのに、本当にこの男は!!
仕方なく、そーっと白石さんの方に顔を戻すと、満足そうにふふっと笑った。
今だ、今しかないと思う。俺の直感がそう言っている。残りHPはあと僅かだが、聞くなら今しかない…!
顔のほてりが全く冷めないが、ふうっと息を吐いて、思い切って口を開く。
「あの、白石さんは、俺のこと『ファ~ン♪オフロガワキマシタ!オフロガワキマシタ!』
時間が止まる。
「あ、お風呂沸きましたね、黒原さんお先にどうぞ」
ぱっと白石さんの口調がいつもの調子に戻る。
「えっ?いやいや!俺あとで良いです!」
「僕、お風呂出たらすぐ浴槽の掃除したい人間なので先に入ってもらえた方が嬉しいんです。黒原さんが嫌じゃなければ、先に入ってきてください」
「え、ええ~…じゃあすみません、お先にいただこうかな…?」
「寝巻きと新品の下着、前と同じところに置いてあるので使ってくださいね」
「え!?あ、えっと」
やっぱ泊まるんですね!?
というか、さっきせっかく聞けそうだったことが機械音で掻き消されて空気がガラッと変わってしまった…
いや、黒原三芳!まだ戦えるだろう!
「あ、あの!白石さん…」
「あ、今着られている服は今夜乾燥機かけちゃうので、明日には乾きますよ」
いつものように爽やかな顔…
さっきの熱がこもったような空気は既に俺と白石さんの間から流れ出てしまっており…
「は……はい、ありがとうございます…」
これ以上戦うのは、とてもじゃないけど無理でした…
「え?あ、ありがとうございます」
普通に家に上がってしまったが、白石さんはなぜ普通に風呂を沸かしに行ったんだろう…家に上がったのもよく分かっていないのに、更によく分からないまま宿泊コースにプランが変わっていないか?
これで白石さんの家に上がるのは3回目になるが、1回目は酔い潰れてたし2回目は…うん、あんな感じだったし、少し酔っているとはいえ普通の精神状態で白石さんの家に上がるのはこれが初めてだ。
駅チカ、築浅、広くて綺麗なマンションの一室…
改めて思うけどすごい所に住んでるよな…
白石さんの給料は知らないが、男の一人暮らしでこのようなマンションを購入することは可能なのだろうか。
こぢんまりとしたアパートの家賃を支払うだけで残り少ししか余裕の出ない一人暮らしの男がここにいるわけなので、白石さんの収支の内訳が全く想像できない。
とりあえずソファーに腰掛けて、ちらっと部屋を見渡す。
インテリア凝ってるなぁと漠然と思っていたが、以前白石さんが言っていたように余計なものは置いていないし、掃除がしやすいように工夫しているようだった。
というか気付きたくなかったが、もしかして俺の部屋、このリビングより狭くないか?
おかしい…俺の方が歳上で社会人歴は長いはずなのに、この格差…
「すみません、飲み物何もお出ししてなかったですね!」
パタパタと白石さんが急いだ様子で戻って来る。
「いやいや!大丈夫ですよ!というよりすみませんいつも…」
いつも…そうだ、飲み物の前後には毎度色々なことが起きていたんだった…
というか今俺が座ってるソファーもこの間白石さんが座っていて、ここで自ら服を脱いでいるところをじっくり見られれれれれれれれれれれ
「紅茶でもホットレモンでも、何でもお出しできますよ。何にします?」
「れっ!!!そっ、じゃあ、紅茶で…」
「いつものお砂糖無しですね?」
「は、はい…」
どうしてこういうタイミングでわざわざ思い出さないようにしていたことを思い出して意識し出すんだよ黒原三芳~!!
カウンター付きのキッチンでカチャカチャと飲み物を用意する音が聞こえて、自然な感じで俺も手伝いますとか言えば良かった…などと悶々と考えているうちに「どうぞ」と紅茶を差し出され、受け取るとL字ソファの斜め向こう側にストンと腰を下ろした。
ああ、白石さんがこのソファに座っている様子を見るとつい色々思い出されてしまう…
「黒原さんは…」
「はっ!はいっ!」
唐突に声を掛けられ、声が裏返りそうになる。
「10年前に恋人と別れてから、女性が怖いと以前仰られていましたが」
「え…?あ、はい」
白石さんの方を見ると真面目な目線をこちらに向けてきていたので、思わず姿勢が正される。
「具体的には、何が怖いと感じますか?」
「え?具体的に?うーん…何だろう」
「頭で考え込まず、単語でも何でも良いです、思い浮かんだことを口に出してみてください」
思い浮かんだこと…思い浮かんだこと…
「うーん…そうだなぁ…自分でもよく分からないけど、猫かぶってるところとか…」
「猫被りですか?」
「うん、そうですね…表面上は可愛らしい振りして、実際人を見下してるところあるじゃないですか?そういうところとか…」
モヤモヤと元カノの姿が頭に浮かぶ。
そうそう、本性をうまく隠して世渡りをしている感じ。付き合う前に分かっていたらと、何度思ったことか。
「それと…声。元々そんな声じゃない、みたいな…」
「声ですか?」
「うん、声ですね…女性に限ったことではないですが、電話とかもそうですけど、声色って変わるじゃないですか?」
「ええ、ワントーン高くなったりしますね」
「実際はもっと…なんというか威圧的な声なのに、合コンとかだと…あ、猫被りと一緒かも」
「なるほど、偽って表面に出てくる部分と元々の性質のギャップが怖いと感じるんですね」
「うん、そうですね…あとは爪とか唇とか…着飾ったりしてるのが怖いのかなぁ」
「この間の女性はあまり怖いと感じなかったのですか?」
この間の女性…みどりさんのことか。
そういえば怖いとは思わなかったな…何でだろう。
「うーん、怖いと言うよりも困った…って感情のほうが強かったし…何でですかね。」
「お仕事では普通に女性と関われるとも仰っていましたもんね」
「そうです、なので…」
もしかすると、元々恋愛に発展することを前提とした出会いや関係に抵抗があるのか?
みどりさんは途中から雰囲気変わったにしても最初はただぶつかりぶつかられただけの間柄だったし、職場の女性陣はそもそもそういう目で見たことがないし。
「今思ったけど、恋愛に発展するような関係が怖いのかもしれません」
「なるほど、恋愛ですか」
「付き合わなければずっと変わらない関係で居られるじゃないですか?元カノは俺と付き合ったから変わってしまったと思うので…」
元カノのあの憎らしい顔が浮かぶ。けどそうだ、最初はそんな感じじゃなかった。優しくてよく気の回る、明るい良い子だったのに…
「その女性は、出会った時と付き合っている間で随分変わられてしまったんですか?」
「うん…そうですね。最初はすごく優しかったのに、突然ガラッと変わりました。今思うとその頃から浮気してたのかな」
「と言いますと?」
「あ、言ってませんでしたっけ…他に好きな人作って、途中からそっちが本命になってたみたいなんです」
「そんなことが…」
白石さんの表情が曇る。
すっかり白石さんにはなんでも話した気になっていたが、そうか言ってなかったか。
「突然、三芳は浮気してる!とか言い出して、束縛されるようになったんです。ほら、浮気を疑うのは浮気をしている人間だってよく言うじゃないですか、当時はそんなとこまで考え付かなかったけど…」
「突然浮気を疑われるようになって、その頃から人が変わってしまったんですね」
「そうですね…そもそも俺が肉体関係を持てなかったのが悪いんですけど、やっぱ理不尽ですよね」
「理不尽を感じるんですね」
「そりゃそうですよ!罵ったり浮気したりするくらいならとっとと別れて欲しかったです、何度も別れ話はしていたんですよ」
「彼女さんは了承しなかったんですか?」
「別れを切り出すたびに、ものすごく取り乱すんですよ。やっぱり浮気してるんだ!とか、私のことが大事じゃないんだ!とか泣いて叫んで暴れて…いやあ思い出すと地獄ですね」
時には物を投げられたり叩かれたり引っ掻かれたり、思い出すと結構すごかったな。毎回宥めて必死に謝ってその場をおさめてたけど、よく逃げ出さなかったと感心する…いや、逃げ出さなかったんじゃなくて、逃げ出せなかったんだけど。
対等な関係でも何でもなくて、常に顔色伺って気を張りっぱなしで、女王と下僕みたいだったな。今思うと。
「なるほど、ヒステリックな部分があったんですね」
「いやもう、ヒステリーもいいとこですよ!なんだってあそこまで怒り狂う体力がありますよね!?そのエネルギー他のところに使えばいいのにとか…なんか思い出したらムカついてきました、ハハハ」
「それは黒原さんが怒るのも当然だと思いますよ」
今までは思い出すたびに体が強ばり気持ちが沈んでしまうだけだったが、なぜだか今は怒りと同時に笑えてきて、なんとなく気持ちがラクになってきた。
というより、こんなふうに笑って元カノとの話をする日が来るとは思わなかったな…それも白石さんに。
「なんか、長い間怒るよりも…自責の念ばかりだったので、元カノに怒りを感じたのは今が初めてです」
「なるほど、ずっと内部に向いていた感情が初めて外部に向いたんですね」
「外部に…」
たしかに。今まではずっと、自分の悪いところを探して嫌な思い出に囚われて自分を責めることしかしていなかったのに、今、元カノの悪口を普通に話している。それが良いことなのかどうなのかは分からないが…
「きっともう、黒原さんは大丈夫ですよ。これは本当に大きな前進なんですよ」
ニコッと優しい表情をこちらに向ける白石さん。
「前進…ですか?」
「ええ、今まではずっとご自身を責め続けて来られたじゃないですか?」
「ええ…そうですね」
「自分を責めることって、ものすごくエネルギーを使うことなんですよ。内側に向いていた感情が、今初めて元カノさんに対して怒りという形で放出されたんです」
「あ、そうか…」
俺初めて、元カノに怒ってるんだ。
自分自身じゃなくて、元カノに。
ずっと、自分だけが悪いんだと思ってた。元カノには非がなくて、あんなことになったのも全て俺に原因があって、俺だけが悪いんだと思ってた。
けど、実際には俺にも悪いところはあったけど、元カノにも悪いところがあったんだよな。
そう思うと、胸のつかえが取れて…すっと心だけじゃなく身体も軽くなった気がした。
「黒原さんは、もう次に進めると思いますよ」
「そ…そうですかね?」
「僕が保証しますよ。今までの出来事を、これからどんどん上書きして行けば良いんです」
「上書きかぁ…」
「悪い思い出を良い思い出で塗り替えれば、完全には消せなくてもじきに目立たなくなりますよ」
「そうか…そうですね、なんか…いつもありがとうございます、白石さん」
「出会ったばかりの頃に比べると、黒原さん表情すごく明るくなってますし。僕で多少塗り替えられちゃってたりして?あはは」
からかうような顔になって、楽しそうに笑う。
僕で塗り替えられちゃったり…一瞬意味を考えたが、その一瞬でボッと顔が熱くなった。
「なッ…ま、また白石さんは…」
いや、事実そうなんだけど!!
真面目な雰囲気だったのに突然そういうことを言うから!!
「冗談はさておいて、黒原さんの前に早く素敵な女性が現れるのを願ってますよ」
白石さんがスッと、またいつもの仮面を被ったような笑顔に戻る。
この顔、見覚えある。さすがの俺でもわかる、この間もそうだった。
本音と建前と願望が複雑に混ざっていて、きっと本人も何が本心なのか分かっていない、けど少なくとも、俺のために何かをしようとしたり言おうとしたりしている時の顔だ。
「…本当はどう思ってるんですか?」
「え?」
こっちはもう情けないことに負けが目に見えるので、遠回りな聞き方はしない。正攻法でストレートに聞くことにした。
「それ、お仕事モードじゃないですか?白石さんは、どう思ってるんですか?」
ちょっと声が震える。恐怖と言うより、これはちょっと前のベビに睨まれたカエルだった頃の記憶が残っていることによる、生存本能なのだと思う。
「お仕事モード…ではありませんけど」
白石さんがソファの背もたれに体を預けると、小さく軋む音がした。
姿勢が変わったので、白石さんの目線が少し鋭くなったように見える。正直、動悸がすごい。
腕を組んでいるときの白石さんのこの威圧感…!けど負けるな黒原三芳、白石さんに負けるなって意味じゃなくて、自分に負けるな!なぜならこれは勝負じゃなくて、会話だから!
俺はカエルじゃない!ナメクジになるんだ!!
「い、今言ったこと、本心じゃないですよね?」
気合を入れて口に出すと、つい身が乗り出す。
じっとこちらを見つめてくる白石さん。一体どのぐらい見つめあったか…時間にするとほんの数秒とかそのぐらいなのだろうが、その間は永遠のように感じられた。
動悸がすごいのに息が詰まって呼吸が出来ないし、一瞬で全身にじわっと嫌な汗が滲み出て、正直生きた心地がしない…
すると、ふっと白石さんが小さく笑って
「…ほんと、昔から変わらないですね黒原さんは」
小さなため息をつくように、小さく呟いた。
「…昔?」
昔って、いつの?紺野達と合コンに行った時?
「なんでもないです、それで黒原さんは…僕から本心とやらを聞き出してどうするんですか?」
いつもの余裕な表情に戻って、というより悪そうな笑顔になりながら、組んだ腕を解いて膝にひじをつき、前屈みの姿勢になる。
距離が数センチ縮んで、目線が下がった白石さんの目…さっきとはまた違う鋭さがあって、つい生唾を飲み込む。
「ど、どうって…」
「後先考えず僕のこと煽らない方が良いですよ、何しでかすか分からないので」
ニヤッと楽しそうに口角を上げる。
「な、何をしでかすつもりですかッ!?」
「さあ、何でしょうね?」
「て、いうか!煽ってないです!別に!!」
「そうですか?むしろ期待してるのかと思いましたよ」
この不敵な顔…!
「な、何を!期待してるって言うんですか!!」
「黒原さんが想像しているようなことでしょうかね?」
「何を想像してると思ってるんですかッ!!!」
「さあ、僕には分かりませんね…黒原さんの顔が真っ赤になるようなこと、さて一体何でしょうね?」
バッと顔を背ける。
こ、この男はーーーー!!
クスクスと楽しそうに笑う声が聞こえるが、これ以上言い返すことがどうしてもできない…あまりにも恥ずかしすぎる。顔から溶けてしまいそうなぐらい、顔が熱い。
「黒原さん、怒りましたか?」
「お、怒ってません!」
「なら、こっちを見てくださいよ」
本当にこの男は…!
怒っていないのも知っているはずだし、顔が赤いのを見せたくないのも分かっているはずなのに、本当にこの男は!!
仕方なく、そーっと白石さんの方に顔を戻すと、満足そうにふふっと笑った。
今だ、今しかないと思う。俺の直感がそう言っている。残りHPはあと僅かだが、聞くなら今しかない…!
顔のほてりが全く冷めないが、ふうっと息を吐いて、思い切って口を開く。
「あの、白石さんは、俺のこと『ファ~ン♪オフロガワキマシタ!オフロガワキマシタ!』
時間が止まる。
「あ、お風呂沸きましたね、黒原さんお先にどうぞ」
ぱっと白石さんの口調がいつもの調子に戻る。
「えっ?いやいや!俺あとで良いです!」
「僕、お風呂出たらすぐ浴槽の掃除したい人間なので先に入ってもらえた方が嬉しいんです。黒原さんが嫌じゃなければ、先に入ってきてください」
「え、ええ~…じゃあすみません、お先にいただこうかな…?」
「寝巻きと新品の下着、前と同じところに置いてあるので使ってくださいね」
「え!?あ、えっと」
やっぱ泊まるんですね!?
というか、さっきせっかく聞けそうだったことが機械音で掻き消されて空気がガラッと変わってしまった…
いや、黒原三芳!まだ戦えるだろう!
「あ、あの!白石さん…」
「あ、今着られている服は今夜乾燥機かけちゃうので、明日には乾きますよ」
いつものように爽やかな顔…
さっきの熱がこもったような空気は既に俺と白石さんの間から流れ出てしまっており…
「は……はい、ありがとうございます…」
これ以上戦うのは、とてもじゃないけど無理でした…
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