白と黒

上野蜜子

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第9章

遺恨と外泊 6

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急ぎの仕事以外は翌週に回すようにして、残業がないよう仕事を終わらせすぐにスマホの電源を付けて白石さんにメッセージを送る。

電源をつけると続々重なる桃華からのメッセージ通知…何度か着信もある。

仕事してないのか?いや、そういえば今日土曜か…。暇なのかな…こんなところに使うエネルギーが本当に勿体無いと思うんだけどな。

メッセージが大量に送られてくることに徐々に慣れてきてしまっている。この慣れは良くないな。

荷物をまとめてエレベーターで下に降りると、白石さんが会社からすぐの街路樹のそばで待っていた。

「白石さん!お待たせしました…」

急いで駆け寄り声を掛けると、ぱっと白石さんが顔を上げた。

「黒原さん、お疲れ様です。すみません、僕の我儘で突然お誘いしてしまって…」

「いや、こちらこそ本当にすみません…!もしかして外で待ってたんですか…!?」

今日は雨が降っていたし、いつもより気温が低い。いつからここにいたんだろう。体を冷やしてしまっていないだろうか…

「いえ、来たばかりですよ。お気遣いありがとうございます」

「それなら良いんですけど…風も冷えるし、寒くなってないですか」

「確かに今日は肌寒いですね…黒原さんこそ寒くないですか?家で温かい紅茶でもどうですか」

家のお誘いにどき、と胸がときめく。

が、微笑んではいるものの白石さんの眼差しは真っ直ぐ自分に向けられていて、うかうかときめいている場合では無かったとすぐに我に帰る。

様子を伺われている。どんな反応をするのか観察しようとしている目だ。それこそ吉川さんが言っていたように、視線やら返事のテンポやら仕草など…言葉以外で読み取れる、俺の考えを…

俺は吉川さんのように、自分を相手にうまく伝える仕草のコントロールができるわけではない。むしろ俺は分かりやすいらしいし、この動揺まで全部白石さんに読み取られてしまう可能性すらあるってことだ。

「…白石さんの迷惑じゃなければ…」

極力、いつもと同じような声色になるよう意識して返事をする。

「迷惑なわけないでしょう、黒原さんてば」

そう言って歩き出すが、いつもより距離が空いている…気がする。

白石さんの表情が見えない。たとえ見えたとしても、スイッチが入っている白石さんからは決してうまく気持ちを汲み取ることはできないだろうけど…。

けどこれだけは分かる。間違いなく今の白石さんは気を張っている。いつものようにふわっとした雰囲気じゃない。

もうこの時点で白石さんの手のひらの上にいるのは間違いない…嘘も誤魔化しも絶対に見破られるだろうし…

ああ…何がどうなってしまうのか全く分からない。白石さんに連絡もせず元カノに会ったし、その報告もしてないし…

白石さんに言えないこと…というわけではないのに、聞き出されないと答えないこと、という事象がもうやましさを感じる。

そもそも強請られているのにダッシュで逃げてきてしまった。紺野にいつ連絡を取られて何を言われても分からない状況だし、紺野と白石さんも繋がっている…

紺野はアホだから…仲の良い白石さんには平気で桃華から聞いた話を伝えてしまいそうだ。正直アホすぎてそこまでの信用がない。

そして、レストランで白石さんの顔は桃華に割れている…

どうしたらいいんだろう、いやどうにもならない。全てに不安の要素しかないんだけど…。

白石さんと会えるのは嬉しいのに、純粋に喜べない状況も、そんな自分も嫌になる。

「…黒原さん、もしかして体調悪いですか?」

「いや…大丈夫です。ちょっと疲れが出たかな…」

「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いですよ、ゆっくり歩きましょうか」

とん、と肩に手が置かれ、脳裏に元カノのぎらぎらした手がよぎる。ぞわっと全身に鳥肌が立ち、

「だから大丈夫ですってば…!」

ばっと、衝動で手を振り払ってしまった。

その直後、一瞬のうちに我に帰る。

俺、今誰の手を振り払った…?

目の端に映る、驚いた白石さんの顔…

や、やば…!!

「す、すみません…!違うんです!本当にすみません!!乱暴にしてごめんなさい、手大丈夫でしたか!?」

慌てて白石さんの手を取る。

俺、どうかしてる…!白石さんとあの女と、何も重なるところなんてないはずなのに!

冷えた白石さんの指…。指先が赤い。さっきは来たばかりだと言っていたが、しばらく外で待たせてしまっていたんじゃないだろうか。雨が降ったからだろう、今日はいつもより肌寒いし、尚更…

返事もよこさないで心配して電話してくれて、どんな気持ちで外で待たせていて…今手を振り払って、どんな気持ちにさせてしまったんだろう。余裕なさすぎて、本当に情けない。大切な白石さんの手を振り払うなんて…

自分が嫌すぎて、涙が出てきそうだ。

「僕は大丈夫ですよ、急に触ってしまってすみません。本当はどこか座れれば良いんですけど…ベンチ濡れてるでしょうし」

さっきの驚いた顔は一瞬でなくなり、普段と変わらない表情で辺りを見回す白石さん。

表情も何もかも、作らせてしまっている…。本当に気にしていないのかもしれないが、とてもそうは思えない…

「…あ、あの俺…」

うまく言葉が出てこない。

どう謝れば良いだろうか。せっかく付き合えたばかりなのに、こんなことをしでかすなんて…

白石さんがきゅっと優しく手を握り返してくる。

「…普段と様子が違うように見えます。今、何か困っていることがあるんじゃないですか?」

「…えっと…」

困ってることなんて…ありまくりだよ…!

でも、どうしたらうまく伝わるのか分からない。そもそも自分の頭が整理されていない段階で伝えるべきことなのかも分からない。

「もし答えづらかったら無理しないで大丈夫ですよ、何かできることがあったらと思っただけなんです」

何かできることがあったらって…

そりゃ白石さんに話せたら俺の悩みの大半のことは解決するだろうと思う。けどそれは友達だった頃の話で…

今白石さんは俺の最も大切な人で…恋人同士なんだし、過去の恋愛話に関わることはできれば話したくない。今まで話してしまったことは仕方がないがそれ以上のことを知られたくない…。

とてもじゃないけどさくっと話せることじゃないし。けど何が起きたかなんて白石さんは知る由もないし、俺ですらこんな様子の人間がそばにいたら何があったか聞くと思う。

でも全人類の中で、白石さんにだけはどうしても話しにくい事情なんだよ…!

「あの…違うんです。白石さんに言えないとかじゃなくて…」

「分かっていますよ、心配しないでください」

俺の言葉を待って、ゆっくり喋る白石さん。

せっかく仕事が終わってプライベートな時間なのに、またいつものようにお仕事モードにさせてしまった。

心配かけないように生活したいのに…白石さんには絶対何も隠せない…。

目を閉じて、一度深呼吸する。覚悟を決めよう、このまま隠し通せるはずがないんだから…

「…あの、昨日元カノに会ったんです…」

「えっ」

さすがの白石さんも驚きの声を上げる。そりゃそうだ…

今、白石さんと付き合ってるのに過去の人間と会うのもとんでもないことだし、

以前顔見ただけでパニックになってた相手で、かつ知り合ってからずっと相談し続けてきたトラウマの元凶みたいな存在ってことをもちろん白石さんは知っているのに、

そんな存在にわざわざ会うってなかなかにぶっ飛んでるよな…

「経緯がややこしいんですけど…あの、知らない番号からの着信で…電話出たら元カノだったんです。会わないなら紺野に付き合っていた頃の話をしてやると言われて、混乱して承諾してしまいました…」

「…そ、そんなことを言われたんですか」

眉を顰める白石さん。そりゃ引くよな…俺だって引く。元カノにも、すぐに白石さんに言わない俺自身にも…

「あの、それで…何か用があって呼び出されたのかと思ったら、用件言うでもないし…3,40分くらいで解散はしたんです。したんですけど…」

どう話せば良いのか全く分からない。

どこからどこまで話せば上手く伝わるんだろうか。

もうこの時点で伝え方に上手いも下手もないと思うんだけど…

白石さんは俺が話すのを待っている。話しながら考えるって、すごい苦手だ…正直整理も全くできてない。

「…突然家に来たがって、今付き合ってる人がいるからって断ったら…急に態度が変わって、過去に撮られた写真と動画が残っているからと脅されたんです。言う通りにしろと」

「写真…」

「元カノは…お、俺のせいで…自尊心を傷付けられたから…責任を取れって言ってました。俺のせいで散々な人生になったと言っていて…」

どくどくと動悸がしてくる。

俺は今白石さんになんでこんな話をしているんだ…

白石さんは黙って俺の手を握って話を聞いている。ふうっと息を吐いて頭を落ち着かせる。

「家は覚えてるからいつでも乗り込めるって言われて、それで…どうしたら良いか分からず、逃げちゃいました…ダッシュで…。そしたら着信とメッセージがすごくて、しんどくて電源を切ってしまっていたんです」

「…そんなことがあったんですね、本当に大変でしたね…」

「だからあの、白石さんの連絡にも気付かなくて…すみませんでした。けどやましいことは何もないです、本当に」

「そんなことを気にしているわけじゃないですよ、黒原さんの状況も、誠実なのも知っていますから」

グサッと言葉が胸に刺さる。誠実なら、何でも報連相してるんだって…。知られると都合が悪いから言わなかっただけなんだって…。そして隠し通せるはずもないのに連絡が来なければこうして白石さんに話すこともなかったのかと思うと…俺は不誠実の塊です…!

「すぐに連絡しなくて…本当にすみません」

「黒原さん、謝らないでください。昨日は…ご自宅に帰られたんですか?」

「いや…タクシー呼んでカプセルホテルに泊まりました…家にもし来ていたらと思うと怖くて、とても帰れなかったです」

「そうですよね…怖かったですね」

あやすように、指先をすりすりと撫でられる。

なんだこれ、すごい安心する…

「あ…ありがとうございます…」

「けど…僕に連絡してくだされば、どこにでも迎えに行くのにな」

伏目がちに、呟くようにそう言う白石さん。

どきっと胸が痛む。本来、真っ先に連絡するべきはずの人を忘れて…自分のことしか考えられなかった。いつだって車出して迎えに来てくれるのに、1人でタクシー呼んでカプセルホテルに…って、

俺、信じられないぐらい最低じゃないか?

「あの、ごめんなさい!白石さんに知られたくなくて…自分でなんとかできると思ってしまって…幻滅しましたよね…?」

ずるい聞き方をしてしまった。白石さんが幻滅したとか言わないことなんて、分かり切ってるはずなのに…

「しませんよ、幻滅なんてするわけないじゃないですか。黒原さんは何も悪いことしていないんだし、謝らないでください」

この言葉…前にも白石さんが同じように言ってくれていたような気がする…

白石さんは、俺に非がないとか謝らないで良いとか、いつだって俺のことをまるっと全肯定してくれる。

…知らないところで元カノに会って、1人で外泊。そんなの白石さんが良い気するわけないのに。しかも完全に事後報告…!

そんな俺をいつだって受け止めてくれるのに…俺、本当に最低だ…

「…結局こうやって迷惑かけて…白石さんを嫌な気持ちにさせてしまって、ほんと俺って情けないです。いつもごめんなさい白石さん…」

「そんな、僕のことは気にしないでくださいよ。大変なのは黒原さんでしょう?情けなくなんてないです、黒原さんはいつだって頑張ってるじゃないですか」

「頑張れてないですよ…だって現にどうにもなってないんですから」

「僕はそう思いませんけど…黒原さんは、ご自身が頑張れていないと思っていらっしゃるんですか?」

「だって…そうでしょう?俺がちゃんと言い返せてたら…ちゃんと断れてたら、こんなことになってないんですよ…」

「ちゃんと言い返すって、たとえばどんな風ですか?」

「えっと…」

どう言い返していたらこんなことにはならなかったんだ…?

だめだ、わからない…。何を言っていようととんでもない事態になっていた気しかしない。

電話の時点で…誰ですか?とかすっとぼけてたら…?いや声と喋り方でバレるだろうし、あんな突然の電話でそんなことが本当にできていただろうか。

紺野を誘おうかと言われた時に、お好きにどうぞと言って切ってたら…?だめだ、タラレバすら上手く浮かんでこない。

白石さんの問いに答えられずにいると、

「黒原さんは…常に最善のことをしていると僕は思ってますよ。黒原さんがされてきた以上のことって無いし、常に最善を尽くされてると思っていますよ。すごくすごく、いつも頑張ってるじゃないですか」

握っていた手を両手で包まれる。

気付いたら俺よりも白石さんの手の体温のほうが高くなっている。

あたたかい…安心するぬくもりだ。俺はこんななのに、白石さんはいつだって俺の存在自体を肯定してくれる。

「…最善を…尽くせてるんですかね…」

「僕はそう思いますよ。でも一人だとどうにもならないことって必ずあるから…そういう時は迷わず僕に声をかけてほしいです。何もできないかもしれないけど、必ずそばにいますから」

なんでこの人こんな俺にこんなに優しいんだ…

白石さんは俺に呆れたり怒ったりして良い立場だろ。俺が恋人の立場なら…黒原三芳、ちゃんとしろ!って怒りたくなるかもしれない。

「今日は…ご自宅には帰られないんですか?」

「元カノが来ていたらと思うと…とてもじゃないけど帰れないです。適当にホテル見つけて泊まろうかと…思っていました…」

「そうですか…。じゃあ一緒にホテル行きましょうか」

「はい……はい?」

白石さんが真面目な顔でとんでもないことを言い出す。

「僕とお泊まり会をしましょう」

「はい???」

どうしてそうなった???

白石さんの家、もう徒歩数分だよ?なぜわざわざホテルに泊まりに行くことがあるのか????

「え?今日はホテルに泊まられるんですよね?僕もご一緒させてください」

「いや迷惑かけたくないからホテルに泊まるって言ってるんですけど…」

「迷惑なんて思うはずがないですけど、この状況で僕の家に来るのは抵抗がある…から、ホテルに行こうと思われてるんですよね?」

「え、そ、そう…ですね…」

「ですよね。それなら一緒にお泊まりするのが一番良いかと思いまして」

しらっとした表情が、何も間違っていることは言っていないですよね?と言っている。

「な、あの、どうしてそうなりますか!?」

「僕が一緒に行きたいんですよ。ダメですか?」

「今回ばかりはダメです、だって…意味が無さすぎじゃないですか!?」

「え~、そうですか?じゃあ仕方ないので、別々の部屋を取りましょうか」

「どういうことなんですかそれ!?」

何言ってんだこの人!?

迷惑かけたくないから1人でホテル泊まるって言ってるのに、一緒に泊まると言い出してきて、

それを断ったら同じホテルの別々の部屋取って泊まろうとしている!?

どういうことなの本当に!!

「だって、一緒の部屋はダメなんですよね?なら同じホテルの別室で僕も泊まります」

「そういうことじゃなくて…!」

「けどビジネスホテルって、お風呂とトイレが一緒だし…お部屋も最低限の広さなんですよね。二人で一部屋なら駅の反対口に広くて綺麗なラブホテルがあるのにな…」

「らっ…」

らぶ、ほてる…

白石さんの口から、ラブホテルなんていう単語を聞く日が来てしまうなんて…

「最近リニューアルオープンしたばかりらしいですよ。行ってみませんか?」

「ど、どういうことなの…」

「年季の入ったビジネスホテルと新しいラブホテル。どっちがいいですか?」

いつもの選択式確定事項。

ホテルに一緒に行くのは知らないうちに確定事項になっていた。

「ひぇ…」

思わず、情けない声が口から漏れた。




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