一よさく華 -幕開け-

いつしろ十蘿

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第四章 擾瀾の影

八.火急

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 雪原の元に火急の知らせが飛び込んで来たのは、ほどなくしてからである。

 その内容は、出兵の兆し有りと言うものではなく、すでに、旧都近くまで進軍しているというものだった。

 それも、「開世隊かいせいたい」がではなく「はぎ」が。
 正確には、萩と開世隊の連合軍が、だ。

「なぜ今まで気が付かなかった!」

 雪原は珍しく荒々しい声を上げ、城内、陸軍本部内は一瞬にして静まり返った。
 だが、雪原が感情的になったのはほんの一瞬だけ。
 答えは、すぐに雪原自身の中に湧いた。

「いや、すまない。続けなさい」

 雪原は促したが、報告の隊員は言葉に詰まっている。
 雪原の剣幕に気圧されたからではない。
 ぐっと奥歯を噛みしめると、意を決したように口を開いた。

「敵の総大将は…、冨康とみやす様です」

 室内の空気が揺れた。
 一同どよめく中、雪原は一人、冷静だ。

「やはり、そうか」

 今まで疑念だったものが、事実に変わった。
 冨康は萩に、いや、楠木くすのきの元にいる。

 保身の気持ちの強い萩国主、実盛さねもりのことだ。
 開世隊を認めても、萩の軍まで動かすことにはしり込みしただろう。
 それを楠木は、冨康を総大将にすることで、実盛を安心させ、萩の軍を動かしたのだ。

 それだけではない。
 萩進軍の知らせを発したのは、旧都に設置されている中央政府直属の機関、旧都きゅうと見守職みまもりしょくだった。
 それはつまり、進路にある国は、萩の進軍を黙認している、ということだ。

 もはや形ばかりではあるが、現将軍は冨康である。
 その冨康が総大将となれば、国主たちはその軍を止めることはできない。

 だが、問題もある。

 帝の許可を得ていない萩は、たとえ将軍の冨康を擁していても賊軍ということになる。
 この戦に勝利したとしても、帝から諸国に対し、萩討伐の勅令ちょくめいが下るだろう。

 どう転んでも、萩に勝利はない。

 他国が黙認するのみで、我も、と参加しないのはそのためだ。
 誰も賊軍に堕ちてまで、この国の変革を望みはしない。

 逆にいえば、萩は、いや、楠木は、そうまでしてこの国を変えようとしている。
 正確には、乗っ取ろうとしている。

 雪原はすぐに横浦よこうらに向かった。
 横浦には、海外から取り寄せた武器を保管している。
 それらを都に運び、さらに、滞在している諸外国の外交官たちに警戒を呼び掛けると同時に、横浦に一斉調査を入れた。

 敵の潜伏を警戒してのことだ。
 だが、開世隊員、萩の者、またそれと思われる人も武器のたぐいも発見されなかった。

 雪原はとって返すと城に赴き、もろもろの手はずを整えると、今度は本宅に向かった。
 雪原には、もうひとつ、果たすべき責任がある。
 玄関を入ると、息子、章太郎しょうたろうが飛び出してきた。

「父上! おかえりなさい。章太郎は手習てならいが随分上達したのですよ。ぜひ見てください!」

 雪原が履物を脱がないうちから袖を引いている。
 なかなか会えない父の帰宅に、喜びが止まらないといった様子だ。
 それを、遅れて出てきた妻、節子が止めた。

「章太郎、お父様はお疲れなのですよ」
「えええ」

 隠そうともせず、全力で不服そうだ。
 雪原は微笑んだ。

「すぐ行くよ」

 その一言に、章太郎の不服に満ちた顔は、一瞬で満面の笑みに変わった。

「待っていますね」

 そう言って、元気に廊下を駆けて行く。
 その後姿を、夫婦で見守った。

「申し訳ございません。私のしつけが甘いばかりに」
「いや、元気があって、なによりだよ」
「もうとおになるのに、幼くて」

 節子の眉が困ったように垂れた。

 ――もう十歳か。

 雪原は息子の年さえはっきり覚えていないことに気づき、わずかに自責の念がわいた。
 それと同時に、柚月はあの年で親を亡くしたのだなと思うと、今、自分が死んだら、あの子はどうなるのだろうと頭をよぎる。
 自然、顔が曇った。
 その顔を、節子が心配そうに見つめている。
 雪原は安心させるように微笑んだ。

「変わりないか。すまない。何もかも任せきりで」
「いえ、お仕事、大変でございましょう」

 節子は、世の状態をおおよそ把握している。
 そして、雪原が帰ってきたわけも。

 節子は武家の妻として、申し分の女だ。
 家を取り仕切り、跡取りである章太郎の教育にも熱心で、夫の愛人である鏡子のことも承知しているが、何も言わないときている。

 武家の男に、側室、妾、愛人の類はつきもの。
 そういうものだと教えられて育ち、節子自身、そう思っている。
 唯一、あまり笑わないのが、玉にきずといったところだろう。

 雪原が部屋に行くと、待ち構えていた章太郎は、夢中であれこれ話した。
 この顔。
 幼い頃の自分を見るようだ、と雪原は思う。

 ますます似てくる。
 周囲が笑うほどに。

 ただ、麟太郎のようにすさんだ目をしていない。
 これも節子のおかげだと、雪原は思っている。

 節子も加わり、親子団欒だんらんの時間をすごした。
 久しぶりの、そして、これが最後になるかもしれない。
 そうと知らない章太郎だけが、終始、無邪気な笑顔を見せていた。

 そして夜、雪原は節子と並んで床に就いた。
 横になってしばらくして。

「明日、出陣する」

 雪原が口を開いた。
 静かな声だ。
 節子は天井を見たまま、ただ、

「はい」

 とだけ答えた。
 またしばらく間をおいて、

「もし、私が戻らなかったら」

 と、雪原が言いかけると、

「あなたはお戻りになりますよ」

 節子は遮った。

「そのために、帰って来られたのでしょう。」

 静かな声には、確認に満ちた芯がある。

 節子は嫁いですぐ、夫の腹のうちに気づいた。
 一見穏やかなようで、その内には黒い、憎しみを抱いている。
 恐ろしい人だと思った。

 だが、一緒に日々を過ごすうち、雪原の生い立ちを、そして何より、雪原麟太郎という人間を知るうちに、恐れる気持ちは和らぎ、そればかりか、その願いを守ってやりたいとさえ思うようになっていた。

 だから、雪原が出世の道から外れる外務職を選んだ時も、何も言わず、表情さえ崩さず、ただ、

「あなたの御心のままに」

 とだけ言った。
 そして今、その思いを遂げるため、満を持して帰ってきた。
 雪原の願った通り、兄たちを超える地位を得て。

 今や、政府の誰もが雪原を頼っている。
 参与さんよの長兄さえ、苦々しい思いを噛み殺しながら、この五番目の弟に願いを託している。

 この争いを納められるのは、麟太郎しかいないと。

 雪原はちらりと節子を見た。
 よくできた妻だ、と、思っている。
 自分には、もったいないとも。

「お前も、もっといいところに嫁げばよかったのに」

 本音が漏れた。
 節子はふふっと微笑む。

「あなた以上の方は、いませんよ」

 雪原は知らない。
 節子は、いやいやいるのではない。
 しっかり雪原に惚れている。

 良いも悪いも、すべて飲み込んで。
 雪原が、まだ誰も知らない、雪原家の五男坊だった頃から。

 翌朝、いつものように章太郎も玄関に見送りに来た。

「今度はいつ、お戻りになるのですか?」

 寂しそうに聞く。
 この子供は、世の中の事情など知らない。
 ただただ大好きな父に会えず、寂しがっている。
 その顔を見ながら、大きくなったな、と雪原は改めて思った。

「お父様を困らせるものではありませんよ」

 節子に制され、ふてくされる章太郎を見て、雪原に笑みが漏れた。

「すぐに戻るよ」
「本当ですか!」

 章太郎の顔が、ぱっと明るく咲く。
 その後ろで、節子が複雑な笑みを浮かべている。
 雪原はその節子に微笑みかけた。

「行ってきます」

 玄関を出た。

「いってらっしゃーい!」

 章太郎の明るい声が背中を押す。
 雪原麟太郎の、初陣である。
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