一よさく華 -幕開け-

八幡トカゲ

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第四章 擾瀾の影

九.夕暮れの河原、決意の朝

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 はぎの軍が迫っている。
 椿がその知らせを聞いたのは雪原が横浦よこうらに立つ直前、雪原の別宅前でのこと、知らせに来たのは、清名せいなだった。

 椿が市場から戻ってくると、やしきの前に馬が止まっていた。
 珍しい、と思ったちょうどその時、玄関から出てきた清名の顔を見て、椿はただ事ではないと察した。

「清名さん!」

 思わず駆け寄った。
 気づいた清名も椿に駆け寄ってきたが、その顔。
 この男にしては珍しく、狼狽ろうばいを隠せていない。

「萩が、攻めてきます」

 清名は、椿が何を聞くよりも先にそう告げた。
 開世隊かいせいたいと萩の連合軍が。
 それも、もうすでに旧都近くまで進軍してきている。

 椿は、七日もすれば、都の入り口、羅山らざんに到着するだろうと計算した。
 時間がない。

「私はこれから、雪原様について横浦に行きます。椿殿と柚月は、こちらにて待機するようにとのことです」

 清名はそう告げると、馬にまたがり、城に向かっていった。
 椿は邸に飛び込んだ。

「鏡子さん!」

 珍しく大きな声になった。
 飛び出してきた鏡子も、やや青ざめた顔をしている。

「椿、今、清名さんがいらっしゃって…」
「聞きました。柚月さんは?」
「…え?」

 聞かれて初めて、鏡子は柚月の姿が消えたことに気づいた。

「さっきまで、ここにいたのよ。一緒に清名さんのお話を聞いて。…かわや、かしら。」

 言いながら、厠の方を見やっている。
 が、椿にはそこに柚月はいないことは察しがついた。

 いや、邸にいない。

 邸の中に、人の気配は感じられない。
 ガランとしている。

 耐えがたいほどの空虚感。
 胸が重くなる。

 椿は脱ぎかけた下駄を再び履き、外に出た。
 裏の河原に向かうと、やはり柚月が座っていた。
 ぼんやりと川の方を眺めて、草をちぎっては放っている。
 その草が、風に乗って舞っている。

 椿はだんだん歩みが遅くなった。
 なんと声をかければいいのか。
 邸で待機しなければ、と言うほど、冷酷になれない。

 柚月は、ずっと川の方、いや、もっと遠いどこかを見つめたまま、椿に気づかない。
 椿はのろのろ進むうちに、柚月の肩に手が届きそうなところまで来てしまった。

 だが、まだ言葉が見つからない。
 迷いながらも、声をかけようとした、その瞬間。

「きゃっ」

 ふいに下駄が小石をかんで、勢いよくびしゃっと転んだ。
 その豪快さに、柚月もさすがに気がついた。

「だい…じょうぶ?」

 いつもなら咄嗟に立ち上がって助けそうなところだが、今の柚月は、ただただ目を丸くしている。
 だが、すぐに椿が来た理由を察した。

「邸にいないとね」

 弱々しい声でそう言うと、腰を上げようとする。
 椿は慌てた。

「すぐには、次の指示もこないでしょうから」

 咄嗟に止めようと口を開いたが、事務的な言葉しか出てこない。
 だが柚月は、椿の思いを感じたのだろう。
 一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微かに微笑んだ。

「そっか」

 そう言うと、上げかけた腰を再び地面に落とした。
 夕日で、川の水面がキラキラと輝いている。

「大丈夫、ですか?」

 問われて、柚月は「大丈夫」と言いかけたが、言い切らずに両手で顔を隠した。
 椿の真直ぐな目に、心を見透かされそうな気がする。

「いや、ごめん。大丈夫っていう顔、してないよね」

 微笑む口元に、自嘲が混ざった。
 楠木くすのきを斬る。
 心を決めたはずだった。
 それは、開世隊を、しいては萩も敵に回す、ということも分かったうえだ。

 なのに。

 清名から知らせを受け、少なからず狼狽した。
 いや、自分で思った以上に。

 そして気づいた。
 この期に及んでまだ、どこかで、この日が来なければいいのにと願っていたのだ。

 ――情けない…。

 柚月は大きくひとつ、息を吐くと、ガシガシと頭を掻いた。

「大丈夫。やるべきことは、分かってる」

 自分に言い聞かせるように言い切った。
 その目に、声に、強さが戻っている。

 だがそれだけに、無理をしているのが伝わってくる。
 椿は何も言えなかった。
 かけられる言葉など、慰められる言葉など、ない。

「疑ってる?」

 柚月は、いたずらっぽく椿の顔を覗き込んだ。
 子供っぽいその顔に、椿も思わず笑みが漏れ、口元に手を当てた。

「いえ」

 この笑顔。
 口元に添えられた手。
 この手に、斬らせないと決めた。

「楠木は、俺が斬る」

 柚月は、まっすぐに椿を見つめてそう言うと、再び、川の方を見やった。

「新しい国を作るんだ。弱い人が、安心して暮らせる国を」

 夕日に照らされた柚月の横顔は、強いまなざしで、真直ぐに、前を見つめている。
 なぜ、と椿は思う。

 なぜ、柚月が見る未来はいつも、明るい物だけではないのだろう。
 なぜ、黒い影がついてくるのだろう。

 弱い人を想い、新しい国を作りたいというこの人が、楠木を、師と慕った人を、父を想った人を、自ら殺すと言っている。

 どんな時も、人を思い続ける、優しいこの人が。

 椿も、柚月が見る先を見つめた。

「私には、親も兄弟も、家族と呼べるような人はいません。あるのは、拾ってくださった雪原様へのご恩だけです」

 だから、人を斬ることもいとわない。
 確実に仕留めなければ、雪原に危害が及ぶ。
 椿は、その一心で剣を振るってきた。

「私には、難しいことは分からないけど、この戦が終わったら、刀を持たなくていい国になってほしい」

 何よりも、柚月が、もう人を斬らなくていい国に。

「あなたは、人を斬るには、優しすぎる」

 そう言いながら、椿は柚月に微笑みかけた。
 その微笑みに、言葉に、柚月の痛みを想う気持ちがにじんでいる。

 柚月は椿を見つめ、くすりと笑った。
 うれしかった。

「ありがとう」

 柚月の顔がパッと笑顔に変わり、椿はなんだか恥ずかしくなってうつむいた。 

「いえ」

 そう言って、ちらりと見上げると、上目遣いに柚月と目が合った。

 その瞬間。

 ほんの一瞬。

 時が止まった。

 柚月は一歩、手をついて体を傾けると、椿の頬にキスをした。

 再び目があう。
 柚月はいつものように微笑んでいるが、その目には男の色が差している。
 椿が初めて見る表情だ。

 椿はそっと頬に触れた。
 柚月が触れた場所。
 その感触が、ぬくもりが、まだある。

 何が起こったのか。
 夢のように一瞬で。
 でも確かに――。

 じわじわと湧いてくる実感が、今起こったことは、現実のことなのだと教えてくる。
 椿の頬が、染まった。
 夕日の力を借りて、より赤く。

 心臓の音が、自分の耳で聞こえるほど大きい。
 柚月にまで聞こえそうで、それがまた恥ずかしい。

 柚月は何事もなかったかのような顔で、川を見つめている。
 その目は強い決意を宿し、夕日に輝く水面を捉えていた。

 ***

 その日が来た。
 早朝、椿が先に邸を出た。

 いつもの着物に袴を着け、腰には刀をさした。
 女装で、という指示だ。

 椿は、城で剛夕ごうゆうの警護に当たる。
 が、あくまで女中として、ということだった。

 出発の前、椿が離れに行くと、柚月が部屋から出てきた。
 柚月は本陣に行き、雪原の護衛に当たる。
 本陣は、都の中央あたりにある商家、濱口家を借りることになっている。

 ここでの別れは、今生の別れになるかもしれない。

 互いに分かっているが、言葉にはしない。
 代わりに、しばらく見つめあった。

「では、行きます」

 先に椿が口を開いた。
 緊張を隠し、柚月に微笑みかける。

「うん」

 柚月もまた、微笑んで応えた。
 玄関で鏡子が椿の背に火打石を打ち、柚月と鏡子二人で椿を見送った。

「さて」

 鏡子はいつもと変わらない調子でそう言うと、柚月に握り飯を用意した。
 それを平らげると、今度は柚月が出る番だ。
 鏡子とも、また会える保証はない。

 鏡子は、雪原に避難するよう言われたが、「都で戦をするのに、どこに行っても同じでしょう」と言って、聞き入れなかった。

「私は、ここを守ります」
 みんなが帰って来る場所を。
 鏡子の目には、覚悟があった。
 息を一つは吐き、雪原が折れた。

「いってらっしゃい」

 柚月ももう、本陣に向かわなければならない。 
 玄関まで来ると、鏡子はいつものように柚月の背に声をかけた。
 柚月は応えそうになり、鏡子に背を向けたまま、迷うように唇をかんだ。

「…俺」

 微かに絞り出すような声に、鏡子は見守るように、優しい目を向けた。

「俺、嫌だったわけじゃないんです。鏡子さんが、『おかえり』って言ってくれるの。ただ…」

 柚月は震える唇で、懸命に、声を、思いを絞り出す。

「ただ…、怖くて」

 また、「ただいま」と言える場所を、無くすのが――。
 皆まで言わずとも、鏡子には分かっている。

「帰ってらっしゃいね」

 柚月が振り向くと、鏡子の笑顔があった。

「待っていますからね」
「…はい!」

 柚月は元気よく応えた。
 その目に、迷いはない。

 どこであれ、鏡子のいる場所に帰ってくる。
 椿も、雪原も。
 皆のいる場所が、今の自分の、帰る場所だ。

 火打石の音が響く。
 すべての不安を払い去るように。

「いってきます!」

 柚月は勢いよく玄関の戸を開けた。
 世界が、朝日で白く輝いている。
 その中に、勢いよく駆け出して行った。
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