一よさく華 -幕開け-

いつしろ十蘿

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第五章 亂 -らん-

九.鬼

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 柚月は、義孝よしたかと同じように楠木くすのきともあるいは、と、淡い期待を抱いてしまっていたのかもしれない。

 だが、楠木と対峙した瞬間、それは叶わないと悟った。

 三山が交差する場に祀られたほこら
 楠木は、その祠に腰かけていた。

 じっと、地面をみつめ、まるで、遅れてくる誰かを待ちわびているかのように、苛立ちとはやる気持ちを抑えている。

 異様だ。

 楠木自身だけではなく、楠木を取り巻く空気までも。
 柚月は、自然と足が止まった。

 近寄れない。

 その気配に、楠木がゆっくりと顔を上げた。
 ギラリと光る目が、柚月を捉えている。

 柚月は一瞬、一歩引きそうになったのをかろうじて踏みとどまった。
 風に乗って、血の匂いが漂ってくる。

 ――人を、斬ったんだな。

 それがまた、楠木の異様さを煽り立てる。

「よう。一華いちげ

 久しぶりに聞く楠木の声は、以前のそれとは違っていた。
 何かにとりつかれたような、不気味な声音をしている。

「お前、随分出世したみたいじゃねえか。政府の、それも、陸軍総裁様なんかに、べったりくっついてよ」

 楠木は、嘲笑するような調子でそう言うと、一変、鋭い眼光で柚月を睨んだ。

「で、何しに来た」

 柚月は、背中が冷たい汗でぐっしょり濡れている。
 だが、ぐっと拳を握りしめると、楠木に真正面から向いた。

「あなたを、斬りに来ました」

 柚月の真直ぐな目が、楠木を捉えている。
 その目に、楠木はニタリと笑った。

「本当に、偉くなったもんだ」

 そう言って、ゆらり、と立ち上がる。
 その様はさながら、亡霊。
 柚月はビクリと脅えたように肩を震わせた。

 楠木が、のそりのそりと向かってくる。
 柚月は、地面を踏みしめ、構える。

 手が、顎が、震えそうだ。
 それを、必死で無視して楠木に集中した。

 楠木は、ゆっくりと、近づいてくる。
 その顔が、はっきりと見えた。
 ギラギラ光る目は、この世を捉えてはいない。

『あれは、鬼だ』

 佐久間の言葉が、今、現実として目の前にある。

 父と慕ったこの人は。
 師と仰いだこの人は。
 もう、人ではない。
 人では、なくなってしまった。
 柚月は深い悲しみの感情が沸き、それをかき消すように鯉口を切った。

 楠木は加速しながら抜刀し、右薙みぎなぎに切り込んだ。
 柚月の右腹から横一線、楠木の刀が走る。
 それを柚月は刀で払った。

 楠木は、すぐに一歩踏み込んで胴に一刀入れる。
 柚月は刀で受けたが、その重さ。
 柚月の知る楠木のものではない。
 まるで、鬼の力が宿ったかのようだ。

 強い。

「この国はなあ、一華。腐ってるんだよ」

 押し合う刀が、ギリギリとなる。
 柚月は競り負けそうになるのを、必死に耐えた。

「お前も知っているだろう。城に蔓延はびこる馬鹿どもを。肩書が立派なだけで、中身なんて何も無い、空っぽだ。覚悟も責任感もない。民の苦しみも、国の利益も考えちゃいない。あいつらは、自分の保身にしか脳みそ使ってないからなぁ! この国は、そんな奴らが支配者気取りだ。松平実盛まつだいらさねもりの姿を見ただろう。あの名ばかりの国主を。あいつが何をした。国は潤ったか? ああ? 衰えるばかりだったろう!」

 楠木の力が増し、柚月はわずかに押されたのをこらえた。
 こらえながら、胸に、苦々しい思いが湧いている。

 柚月も知っている。
 はぎの民は貧困にあえぎ、治安は悪化するばかりだった。
 その結果、野盗が横行し、あちこちで村が襲われた。

 奴らは、ただ物を盗るだけではない。
 どれほどの人が、犠牲になったことか。
 女、子供、老人。赤ん坊さえ。

 にもかかわらず、国主である実盛は、その野盗の始末さえ明倫館めいりんかんにやらせた。
 萩の軍を使わず。
 存在を認めてさえいなかった、小さな私塾に押し付けたのだ。

「だからっ…」

 柚月は懸命に持ちこたえながら、声を絞り出す。

「だから、いい国を作ろうとしたんじゃないんですか? 弱い者が、安心して暮らせる国を」

 それを信じてついて来た。
 そして。

「そのために、俺は…! …俺は…っ」

 楠木の口元が、ニヤリと笑んだ。

「ああ、よく殺してくれたよ」

 楠木の冷たい目が、柚月を見下している。
 柚月は、心がえぐられ、一瞬ひるみそうになった。

 変えようのない事実が、逃れようのない罪が、否応なく襲ってくる。
 柚月は自身を鼓舞するように、刀を握る手に力がこめた。

「俺は、あんたを信じてた!」

 柚月がわずかに押した。
 が、それを楠木の力が押し返してくる。
 楠木の、さげすむような不気味な笑みが、ぐっと近づいた。

「ああ、そうだった。そうだったなぁ。お前は本当にかわいいよ。バカみたいに信じてな。あんな戯言を」
「…戯言?」

 柚月は、カッと怒りが湧き、怒りに任せて押し払うと、楠木の腹を左薙ひだりなぎに払った。
 楠木は後ろに飛びのきかわす。

 二人の間を、ざっと風が吹いた。

 柚月は肩で息をしながら、楠木を睨みつけている。
 その目に宿る、強い怒り。

 楠木はゾクリとした。
 えもいえず、心地いい。

「なら、あんたは、何のために…。何のために、こんなことを」

 多くの犠牲を払って。
 柚月の声には、怒りが浸透している。

 楠木がふっと、真顔になった。
 不気味なほどに静かな表情かおだ。

「何の為?」

 楠木がまとう空気が、変わった。

「そんなものは、決まっている」

 言いながら、一足飛びで斬り込んだ。
 柚月ははじいたが、楠木は追撃の手を止めない。

「あいつらはなぁ、一華。安全なところから出ようともせず、その上努力まで忘れ、結果、その立場が脅かされることを恐れて、能力がある者を認めない。偉そうなだけで!」

 楠木の目は、さらにギラギラと光り、常軌を逸していく。
 それと比例して、刀がさらに速く、重くなる。
 柚月ははじくので精いっぱいだ。

「なにが家柄だ! 肩書だ! そんなものに何の価値がある‼」

 楠木の激しい一撃に、柚月ははじきながらもよろけた。
 楠木が大きく振りかぶる。

「あんなくずどもより、この俺が劣るなど。そんな世など、認めん! この俺が、あんな奴らの下に置かれるなど‼」

 渾身の力で振り下した。
 柚月は飛びのいてかわすと反撃し、小手、胴、肩と、少しずつ楠木に傷を負わせるが、楠木は出血しているのも全く意に介さず、疲労さえ感じている様子はない。
 柚月が一歩飛びのき、にらみ合いになった。

 柚月の息はさらにあがり、肩が大きく上下している。
 それに対し、楠木は穏やかなものだ。

「間近で見た中央政府はどうだった。ああ? 同じだっただろう。この国にはな、屑しかいねえんだよ」

 楠木の形相は、もう人ではない。

「俺こそが、この俺こそが! 国をべるにふさわしい‼」

 楠木が振りかぶった瞬間、柚月の背で、七輪山しちりんさんからわずかに朝日がのぞいた。

 空を、世界を、一気に照らす、目もくらむような閃光が走る。
 力強い光が、楠木の目を打った。

 楠木がひるんだ。
 その一瞬を、柚月は逃さなかった。

 がら空きの胴を右から横一線に切り払い、返して、足を切りつけた。
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