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第6章 煙の如き狂猿
67: 月光の花
しおりを挟む僕たちは月の光りもない闇の中で、庭園の植え込みに潜み、博物館の様子を観察した。
博物館の周囲の地面には、アッパーライトが設置してあって、その幾つかが未だに点灯していた。
そのせいで博物館は巨大な石碑のように見えた。
剛人さんは視線を左右に走らせると、迷わず右前方に進み出した。
博物館の裏手の方向だ。
剛人さんの広い背中が揺れている。
僕も遅れないように必死でついて行く。
博物館の裏手に回ると、縦長の大きなシャッターが目に飛び込んできた。
剛人さんはそのシャッターの隣にある通用門らしい鉄扉に真っ直ぐ向かった。
僕は剛人さんを追いかけながら、いつ野犬の群れが僕らを襲ってくるか気が気でなかった。
『このシャッターから展示物だとかを、搬入するんだろうな、、』
僕は気を紛らわす為に、口を動かさずに独り言を言う。
剛人さんは博物館の壁の側で、例によって僕には判らない「何か」を値踏みしていた。
「、、あそこに監視カメラみたいのが。」
僕だって気がつくことの一つや二つはある。
僕は出来るだけ小声で言った。
シャッターの右斜め上に取り付けてあるカメラのレンズがこちらを見下ろしている。
「心配しなくて良い。ここはメインの施設じゃないからね。それに展示物は、ほとんど撤去されていると聞いている。もう通電していない可能性もあるし、していも誰も能動的にはモニターしていない筈だ。警備会社は、ここはレベル的に、火災探知装置だけで充分と判断してるんじゃないかな?完全廃棄された施設の現実なんてそんなものだ。もし煙猿が、あのカメラに何か細工をしていたとしても、ずっとモニターにかじりついてる程、暇じゃないだろう。それに私たちはどの道、ここからしか、中に入れない。」
剛人さんは胸ポケットからボールペン程度の長さの細い金属棒を取り出すと、通用門の鍵穴に突っ込んで、それを器用に動かし始めた。
程なくすると、カタンと金属が動く乾いた音がした。
僕は前から剛人さんの正体を、警察か軍の人間か、あるいは犯罪者の類ではなかったかと考えていたけれど、この解錠の腕前を見て、後者の可能性が高いのではないかと思い始めた。
凄腕の窃盗団の首領、、、僕たちが乗ってきた車、トヨタGT2000レプリカの値段、後で調べてみて驚いた、、一介の元お抱え運転手が手に入れられるような額じゃない。
「さあ、ここから先は、お喋りはなしだ。君は絶対に、私の後ろから離れないこと。約束事はそれだけだ。いいね。」
「はい。」
僕は今夜、何度「はい」と返事をしただろう。
所長と一緒に行動した時は、一度も「はい」と言った記憶がなかったのに。
世界の古い陶磁器を展示していたのか、、、まだ撤去されきっていない、あちこちのディスプレイ板の文字を見て、初めてこの博物館の展示内容に思い至った。
でもどの展示ケースにも、現物はもうなかった。
あるのは空虚な空間と、その空間を辛うじて照らし出している非常灯の淡い緑の光だけだ。
この博物館の展示方法は、時代区分よりも地域を優先しているようで、今僕たちがいるエリアは西ヨーロッパのようだった。
それから考えると、この大きな壁で区切られている展示ブロックは、後、幾つかあるように思えた。
剛人さんの歩みは、実に堂々としていた。
そのくせ足音一つ立てず、周囲には細心の注意を払っているようだった。
剛人さんが階段を上がる時に、階段の横に併設してある身障者用のスロープを用いたのは、薄暗闇で僕が段差に足を引っかけない為の配慮だ。
僕の全てをフォローしてくれる、出来過ぎた大人としての剛人さん。
初めてであった頃は、所長にはない、その大人としての魅力に惹かれ、次に澄斗君に見せた人間としての剛人さんの「弱さ」にココロごと溺れそうになっていた僕。
でも澄斗君の整理をつけようとする今の剛人さんは、昔の「完全無欠な大人」に戻っていた、、。
スロープの横の壁には、歩行者に沿うように斜めに置かれた展示ケースが延々と繋がっている。
その下に一メートル間隔ぐらいで、時代を1世紀ずつ進むプレートがあって、ここだけは歴史推移で見せたい何かの展示物があったのだろうと思わせた。
腰を屈めたお猿さんが、段々直立して歩く裸の人間になる例のアレだ。
そのプレートが20世紀を終えて、床の傾斜がフラットになり、しばらく歩くと、大きな天窓が取られたブロックに出た。
上空では雲の切れ間に月が差し掛かったのか、僕たちの周囲は白々とした光が満ちる空間になった。
剛人さんが、何かを発見したのか、突然立ち止まった。
彼の後を必死で付いて行くしかなかった僕は、思わず剛人さんの背中にぶつかりそうになった。
剛人さんの分厚い手が、僕の顔にかけられる。
剛人さんの手首で揺れる、腕輪数珠が見えた。
僕は嫌な予感に襲われながら、それを振り払った。
剛人さんが気に留めてくれる、僕が見てはならないもの・・・逆に言えば、それこそが僕が見るべきものだった。
・・・もしかして行方知れずの所長が?・・・僕は覚悟した。
覚悟できるものではなかったけれど、覚悟しなきゃ、、、。
剛人さんが、分厚い手で遮った先に、それはあった。
元は非常に大きな陶磁器製の壷を並べて置いてあったのだろうと思われる展示棚のど真ん中に、それはあった。
最初は、撤去し忘れた人間の彫刻かと思えた。
でもそれは芸術品らしからぬポーズをしていた。
人間が犬のチンチンの格好をして座っている。
僕の肩を掴んで、僕の動きを止めようとしている剛人さんを無視して、僕はその像に近付いた。
胸が早鐘のようになる。
近づくにつれ、それが所長ではないことは、なんとなく像の雰囲気でわかった。
でも最悪の結果である事には違いはない。
あれが澄斗君と一緒に見た、あの人間剥製であるのは間違いない。
・・・・沢父谷姫子だった。
僕が想像していた、どんな悪い結末よりも、もっと悪い結果で沢父谷はそこにいた。
僕が知らないところで、僕に恋をし、僕にその思いを告げた途端に行方不明になった女子高生。
公衆便所とさえ噂されたのに、胸に純情を秘めた娘。
どんな悲惨な死に方をしようと、人の持つ尊厳が、その死体をゴミ屑のようなものにはさせない、しない、そうさせない、その筈だった。
それは生き残った人間が、その死体から、なんらかの有意義な意味を汲み上げようとするからだ。
けれど、その死体の形が、人の悪意によってワザとねじ曲げられていたら、、。
快楽に歪んでいるのか、苦痛に歪んでいるのか判らない目の周りの表情に相反して、沢父谷姫子の口は大きく広げられていて、その舌が無い物ねだりをするように反り返りながら突き出ている。
突き出した形のよい尖った顎、牙を打ち込みたくなる白い喉、野外での排泄の時のような、腰を落としきった座り方。
犬がお手をしたような手のひらのあげ方。
大きく広げられた膝の間からは局部が恥ずかしげもなく見える。
煙猿は、何故こうまでして、女性の尊厳を傷つけ、更にその「無惨」を、死体に刻み込もうとするのか?
僕には判らなかった。
けれど僕には、一つだけはっきりしている事がある。
それは、僕が決して煙猿を許さないという事だった。
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