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ここは何処?
01: 銀河高速夜行バスに乗り遅れる ②
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ニューハーフ女王様の日常では、更衣ロッカーの中に唾液でガビガビになったレザーパンツがぶら下がっている。
捨ててもいいが、因縁のあった男の唾液や体液が染みこんだレザーだ、、。
その投げやりな退廃の匂いを嗅いだ時、グロスレッドな蝦頭の姿が、脳裏にフラッシュした。
昨日の深夜、お客に誘われて伊勢エビを食べたのだ。
でっかい尾頭付きのボイルしたやつ。
トゲトゲでやけに真っ赤な殻、飛び出した目玉、長い髭、、意味もなく指で分解してやった。
指先が生臭くなった。
・・・・「豊穣と空虚」さが、ない交ぜになった腐乱文化の行き着く先、あるいはその片隅で咲く鯉太郎という人工花の存在意味が、見えそうで見えない、その歯がゆさを思った。
『クールビューティなシーメール・ボンデージクィーン鯉太郎。貴方の肌にまとわりつく黒いゴムの肌。』
ロッカーの底に落ちているクラブの指名用カタログに書かれた酷いキャッチコピー、、それが自分なのか?
異世界のフェムボーイからずいぶん、出世をしたものだ。
愚痴を垂れながら、鯉太郎は今日も風俗の片隅で、己を見失わない為に文を編んでいる。
「スルカは一つのルールのもとに人体を完全な性的オブジェに変身させられている。まるでポリエステルとファイバーグラスで型を取って固め、その上に精巧な塗料で多彩色をほどこしたような、ブロンドのかつらをぶり、ゴムでできた女の顔をしたマスクをつけ、皮膚に似たラバー・スーツを頭からすっぽり身につけているような、、。」
米国の伝説のシーメール、スルカを描写した文章で、この世界のある作家の一文だ。
はやくスルカになりたい、、。
どうせこの世界で、浅ましい人間家業を続けなきゃならないんなら、いっその事、人を捨て「突き抜け」てしまいたい、、、。
「走れ!ロリポップ少年!」
これがクラブに向かう電車の中で、その子に出逢って瞬間的に思い浮かんだ小説の題名だ。
もちろん、そんな小説は何処にもないし、これから書くつもりもない。
更には、題名としても、これはいささか捻りが足りない。
で、こんな題名を鯉太郎に思い浮かべさせたのは、鯉太郎の座席の真向かいに座っている一人の中学生君の風体のせいだった。
彼は中学生のくせに、すでに中年サラリーマンのような風格を漂わせ始めている人物だった。
肥満の為に乳房が出来ているような身体つき。
とは言うものの、その実態は、夕食を簡単に済ませてこれから塾にでも行くのだろうか、くたびれた濃紺のTシャツを着た彼は、眼鏡をかけた坊主頭のまじめそうな少年に過ぎない。
そんな彼が、そのままなら、鯉太郎の注意など惹くわけがない。
鯉太郎の目を惹いたのは、彼が口に頬張っているロリポップキャンディから飛び出した白い軸と、彼が手にしている文庫本のせいだった。
、、その文庫本の題名は『レ・ミゼラブル』。
今や原作より、世界的に大ヒットしたミュージカル映画のタイトルの方が有名だろう。
昨今、学校からでる読書感想文の対象になる推薦本にだって、『レ・ミゼラブル』は漏れるのではないかと、鯉太郎は想像する。
ましてや本人の意思で、この本が選ばれたのだとしたら、それは充分な驚愕に値すると思う。
もし本人が選んだとしても、そういった人物は電車の中で、ロリポップキャンディをずっと人前で舐め続けるような事はしない筈だと、鯉太郎は思うのである。
だが彼は、実際に目の前に存在して、そこにいる。
彼は時々、口の中の丸いキャンディを舌で回転させては、ずり下がってくる眼鏡を押し上げ、『レ・ミゼラブル』に夢中になっていた。
ああ、もといた世界でも、鯉太郎にはこんな風変わりな友達がいたっけ。
そして、彼の坊主頭を胸に抱え込んで、愛玩のためにその表面をなめ回した事があった、、。
鯉太郎のいた多世界が、この世界と一番違う点は、男女のジェンダーが曖昧な事だった。
というか、この世界の男女の境界の区切れ目が、なぜこれ程強烈なのか、時々、理解に苦しむ事がある。
もしかしてこの子も多世界の住人?アリウスなの?と観察を続けていると、次の駅で金髪中学生ヤンキー3人組が電車の中に乗り込んで来た。
こちらは、絵に描いたような不良君たちである。
彼らを見て眉を顰めない人は大人としての資格がないと思わせる程の、見事な軽薄・傍若無人オーラを発散しながら彼らは登場したのだが、、、この時、、ちらりと彼らの姿を睨み付けたロリポップ少年の視線のするどいこと!!
彼は、やはりただ者ではない事が判った。
彼らが喧嘩でも始めれば、この状況はもっと面白くなるのだが、、最近のこの子達は、見事なぐらい棲み分けが出来ているので、実際には何も起こらない。
起こるとすれば、多様な選択枝を持つ映画や小説などの創作物の中だけだろう。
そしておそらくは、ここ以外のどこかの多世界の一つでは、実際にそういった騒動が起こっているかも知れない。
ただこの世界では、この『レ・ミゼラブル』を好んで読むロリポップ少年は、彼の「多世界人」に似た愉快なスタンスを保持したまま、この時代と世界を生きやがて老いて行く事になるのだろう。
ちなみに鯉太郎は『レ・ミゼラブル』を、小学校高学年で読んでボロボロ泣いた覚えがある。
ただし我ながらタチが悪いなと思ったのは、この頃既に、心のどこかの片隅で『レ・ミゼラブル』を読みながら「これで、もっと泣きたい」と思っていた事である。
多世界の人間は、純粋に感動しないというワケではない。
ただそのポイントが違うのだ。
この世界について現時点で判っている事は、多世界解釈の中の一つであるこの世界を駆動させているワールドエンジンは、フェティッシュ構造エネルギーだという事実だ。
断っておくが、ここでいうフェチとは、なんにでも「フェチ」と付ければ良いと思われている、あの「フェチ」の事ではない。
「私、男の人の鎖骨フェチなの」とか、「いや俺のナイキフェチは、ハイヒールフェチのそれに近いね」といった類の言い方だ。
・・・いや、当たらずも遠からずか、、。
この世界でフェティシズムという言葉を使い始めたのは、フランスの思想家ド・ロスだといわれている。
ド・ロスは、1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』を著した。
ここで扱われているのは、アフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ)であった。
これは「呪物崇拝」と呼ばれる。
後に哲学者カル・マルクスもド・ロスを読み、そのノートを取っていた。
カル・マルクスは非常に有名な人物だから、多くの人は、彼の書いたものを知らなくても、額がはげ上がり白い口ひげと豊かな顎髭の彼の顔を何処かで見ている筈だ。
カル・マルクスは、彼の『経済学・哲学草稿』で資本主義経済批判を展開し、経済を円滑にする手段として生まれた貨幣自体が、神の如く扱われ、人間関係を倒錯させていると述べた。
また彼の『資本論』第1巻では、「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズム(物神崇拝)を論じている。
『資本論』で論じられた「物象化論」や、さらには「物象化」の結果として生じる人間達の思い込みを、マルクスは物神崇拝と呼んでいる。
分かり易く言えば、商品がそれ自身として価値を持っているかのように考える「商品」の物神崇拝である。
この物神崇拝から出発して、貨幣がそれ自身の性質によって他の商品と交換できるかのように考える貨幣の物神崇拝、資本がそれ自身として利子を生むかのように考える資本の物神崇拝が生まれる。
この世界の人間は気づいていないが、それこそが、この世界のワールドエンジンの根幹をなす基本原理だ。
紛れ込んでしまった他世界で生き延びるのには、その世界のワールドエンジンを理解することがもっとも重要になる。
ただし鯉太郎は、この点で少しばかり難儀をしていた。
この世界の場合は、フェティッシュ構造エネルギーへの触地的理解が必須なのだが、このエネルギーが又、ミクロからマクロへと実に大きな幅を持って偏在している部分に、苦労をさせられるのである。
判りやすく例えると、この世界では、例えば『安っぽい香水の匂いのしみ込んだ生テカリ女子高校生制服』等というものの存在が、時の政局を動かしたりするのだ。
この世界の人間には、とても信じられないだろうが、多くの世界は「倫理」がワールドエンジンであり、ミクロは秩序正しくマクロに内包されていて常に安定しているのだ。
これほど不安定で、カオスに満ちた世界は珍しいのである。
そしてその中でも特に不安定なのは、人々の肉体の中に存在しているフェティッシュエネルギーなのだ。
捨ててもいいが、因縁のあった男の唾液や体液が染みこんだレザーだ、、。
その投げやりな退廃の匂いを嗅いだ時、グロスレッドな蝦頭の姿が、脳裏にフラッシュした。
昨日の深夜、お客に誘われて伊勢エビを食べたのだ。
でっかい尾頭付きのボイルしたやつ。
トゲトゲでやけに真っ赤な殻、飛び出した目玉、長い髭、、意味もなく指で分解してやった。
指先が生臭くなった。
・・・・「豊穣と空虚」さが、ない交ぜになった腐乱文化の行き着く先、あるいはその片隅で咲く鯉太郎という人工花の存在意味が、見えそうで見えない、その歯がゆさを思った。
『クールビューティなシーメール・ボンデージクィーン鯉太郎。貴方の肌にまとわりつく黒いゴムの肌。』
ロッカーの底に落ちているクラブの指名用カタログに書かれた酷いキャッチコピー、、それが自分なのか?
異世界のフェムボーイからずいぶん、出世をしたものだ。
愚痴を垂れながら、鯉太郎は今日も風俗の片隅で、己を見失わない為に文を編んでいる。
「スルカは一つのルールのもとに人体を完全な性的オブジェに変身させられている。まるでポリエステルとファイバーグラスで型を取って固め、その上に精巧な塗料で多彩色をほどこしたような、ブロンドのかつらをぶり、ゴムでできた女の顔をしたマスクをつけ、皮膚に似たラバー・スーツを頭からすっぽり身につけているような、、。」
米国の伝説のシーメール、スルカを描写した文章で、この世界のある作家の一文だ。
はやくスルカになりたい、、。
どうせこの世界で、浅ましい人間家業を続けなきゃならないんなら、いっその事、人を捨て「突き抜け」てしまいたい、、、。
「走れ!ロリポップ少年!」
これがクラブに向かう電車の中で、その子に出逢って瞬間的に思い浮かんだ小説の題名だ。
もちろん、そんな小説は何処にもないし、これから書くつもりもない。
更には、題名としても、これはいささか捻りが足りない。
で、こんな題名を鯉太郎に思い浮かべさせたのは、鯉太郎の座席の真向かいに座っている一人の中学生君の風体のせいだった。
彼は中学生のくせに、すでに中年サラリーマンのような風格を漂わせ始めている人物だった。
肥満の為に乳房が出来ているような身体つき。
とは言うものの、その実態は、夕食を簡単に済ませてこれから塾にでも行くのだろうか、くたびれた濃紺のTシャツを着た彼は、眼鏡をかけた坊主頭のまじめそうな少年に過ぎない。
そんな彼が、そのままなら、鯉太郎の注意など惹くわけがない。
鯉太郎の目を惹いたのは、彼が口に頬張っているロリポップキャンディから飛び出した白い軸と、彼が手にしている文庫本のせいだった。
、、その文庫本の題名は『レ・ミゼラブル』。
今や原作より、世界的に大ヒットしたミュージカル映画のタイトルの方が有名だろう。
昨今、学校からでる読書感想文の対象になる推薦本にだって、『レ・ミゼラブル』は漏れるのではないかと、鯉太郎は想像する。
ましてや本人の意思で、この本が選ばれたのだとしたら、それは充分な驚愕に値すると思う。
もし本人が選んだとしても、そういった人物は電車の中で、ロリポップキャンディをずっと人前で舐め続けるような事はしない筈だと、鯉太郎は思うのである。
だが彼は、実際に目の前に存在して、そこにいる。
彼は時々、口の中の丸いキャンディを舌で回転させては、ずり下がってくる眼鏡を押し上げ、『レ・ミゼラブル』に夢中になっていた。
ああ、もといた世界でも、鯉太郎にはこんな風変わりな友達がいたっけ。
そして、彼の坊主頭を胸に抱え込んで、愛玩のためにその表面をなめ回した事があった、、。
鯉太郎のいた多世界が、この世界と一番違う点は、男女のジェンダーが曖昧な事だった。
というか、この世界の男女の境界の区切れ目が、なぜこれ程強烈なのか、時々、理解に苦しむ事がある。
もしかしてこの子も多世界の住人?アリウスなの?と観察を続けていると、次の駅で金髪中学生ヤンキー3人組が電車の中に乗り込んで来た。
こちらは、絵に描いたような不良君たちである。
彼らを見て眉を顰めない人は大人としての資格がないと思わせる程の、見事な軽薄・傍若無人オーラを発散しながら彼らは登場したのだが、、、この時、、ちらりと彼らの姿を睨み付けたロリポップ少年の視線のするどいこと!!
彼は、やはりただ者ではない事が判った。
彼らが喧嘩でも始めれば、この状況はもっと面白くなるのだが、、最近のこの子達は、見事なぐらい棲み分けが出来ているので、実際には何も起こらない。
起こるとすれば、多様な選択枝を持つ映画や小説などの創作物の中だけだろう。
そしておそらくは、ここ以外のどこかの多世界の一つでは、実際にそういった騒動が起こっているかも知れない。
ただこの世界では、この『レ・ミゼラブル』を好んで読むロリポップ少年は、彼の「多世界人」に似た愉快なスタンスを保持したまま、この時代と世界を生きやがて老いて行く事になるのだろう。
ちなみに鯉太郎は『レ・ミゼラブル』を、小学校高学年で読んでボロボロ泣いた覚えがある。
ただし我ながらタチが悪いなと思ったのは、この頃既に、心のどこかの片隅で『レ・ミゼラブル』を読みながら「これで、もっと泣きたい」と思っていた事である。
多世界の人間は、純粋に感動しないというワケではない。
ただそのポイントが違うのだ。
この世界について現時点で判っている事は、多世界解釈の中の一つであるこの世界を駆動させているワールドエンジンは、フェティッシュ構造エネルギーだという事実だ。
断っておくが、ここでいうフェチとは、なんにでも「フェチ」と付ければ良いと思われている、あの「フェチ」の事ではない。
「私、男の人の鎖骨フェチなの」とか、「いや俺のナイキフェチは、ハイヒールフェチのそれに近いね」といった類の言い方だ。
・・・いや、当たらずも遠からずか、、。
この世界でフェティシズムという言葉を使い始めたのは、フランスの思想家ド・ロスだといわれている。
ド・ロスは、1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』を著した。
ここで扱われているのは、アフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ)であった。
これは「呪物崇拝」と呼ばれる。
後に哲学者カル・マルクスもド・ロスを読み、そのノートを取っていた。
カル・マルクスは非常に有名な人物だから、多くの人は、彼の書いたものを知らなくても、額がはげ上がり白い口ひげと豊かな顎髭の彼の顔を何処かで見ている筈だ。
カル・マルクスは、彼の『経済学・哲学草稿』で資本主義経済批判を展開し、経済を円滑にする手段として生まれた貨幣自体が、神の如く扱われ、人間関係を倒錯させていると述べた。
また彼の『資本論』第1巻では、「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズム(物神崇拝)を論じている。
『資本論』で論じられた「物象化論」や、さらには「物象化」の結果として生じる人間達の思い込みを、マルクスは物神崇拝と呼んでいる。
分かり易く言えば、商品がそれ自身として価値を持っているかのように考える「商品」の物神崇拝である。
この物神崇拝から出発して、貨幣がそれ自身の性質によって他の商品と交換できるかのように考える貨幣の物神崇拝、資本がそれ自身として利子を生むかのように考える資本の物神崇拝が生まれる。
この世界の人間は気づいていないが、それこそが、この世界のワールドエンジンの根幹をなす基本原理だ。
紛れ込んでしまった他世界で生き延びるのには、その世界のワールドエンジンを理解することがもっとも重要になる。
ただし鯉太郎は、この点で少しばかり難儀をしていた。
この世界の場合は、フェティッシュ構造エネルギーへの触地的理解が必須なのだが、このエネルギーが又、ミクロからマクロへと実に大きな幅を持って偏在している部分に、苦労をさせられるのである。
判りやすく例えると、この世界では、例えば『安っぽい香水の匂いのしみ込んだ生テカリ女子高校生制服』等というものの存在が、時の政局を動かしたりするのだ。
この世界の人間には、とても信じられないだろうが、多くの世界は「倫理」がワールドエンジンであり、ミクロは秩序正しくマクロに内包されていて常に安定しているのだ。
これほど不安定で、カオスに満ちた世界は珍しいのである。
そしてその中でも特に不安定なのは、人々の肉体の中に存在しているフェティッシュエネルギーなのだ。
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