気高き翼に手を伸ばす

幽月 篠

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契りの儀の準備

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手放しに祝いたかったのにそういう訳にはいかぬようだ

 長の言う通り人に手を貸すのは、今すぐという訳ではない。土御門との盟約の条件などの話し合いで数日かかるらしい。
 その間は此方にいない方が良いと思ったが、何かあった時にすぐに対応出来るようにと人間どもの滞在が決まった。
 元は先代の療養の為に建てられた庵で、庵と呼ぶには広すぎたのだ。数名泊まるには構わなかったが、風琴にとって愛弟子との静寂を何日も乱されるのは苦痛であった。

「お前ならともかく他の者の妖気をずっと肌に感じるのが苛ついて仕方がない」
「風琴、仮にも数十年は長を務めたんだからそんなこと言ったら駄目だろ。みんなお前達を心配して護衛を着けたのだから」

 東雲は呆れたように口元に笑みを作って白湯を啜っている。我よりは早めに目を覚ましたようだが、神気と衝突した際に怪我を負ったらしく、薬の臭いがする。

「そう言えばお前、妖力が戻ってないのに飛んできて良かったのか」
「ご心配には及ばず。それに俺はお前の元側近だろ。お前達の護衛で来ない訳がない」

 それはそうだが少し申し訳ない。腹は立つことはあるが、こやつも大切な者に違いないのだ。

「大丈夫なら下半分だけでなく、面を全部取って言ってみろ」
「は!? 風琴、本気で言ってるのか」

 東雲は驚いて湯呑みを落としかける。何故そこまで驚くのかと風琴は睨んだ。

「天狗が嘘偽りなしと示すのは素顔の時なのだ。我ばかりが素顔を出してお前が出さぬのはおかしいだろ」
「いやあ。お目汚しかと思いまして……」

 東雲は目を泳がせる。風琴が黙って睨み続けると、観念したように東雲は面を取った。面を取った顔は、数日前に見た通りそこそこの男前。精悍な顔立ちであるが灰緑の双眸は少し優しげな印象を与える。

「ちゃんと我を見ろ」
「はいはい見ればいいんでしょう?」

 東雲は泳がせていた目をやっと我に向ける。若干頬が赤いが熱でもあるのか。風琴は身を乗り出すと、東雲の額に手を当てた。

「熱は無いようだが、念のために休んだ方が良い。空き部屋がまだあるからそこに横にでもなってろ」
「ふ……風琴の破廉恥!!」

 東雲は顔を真っ赤にしたまま固まっていたが、我を後方に押した。風琴がすぐに受け身を取って東雲を見ると、東雲は既に面を被っている。

「破廉恥とは何だ。昔は我の頬に触ってたくせに」
「あれは子供の頃だろ! とりあえず月夜君以外には絶対、こんなことしたら駄目だからな!」

 そんなに怒らなくても良いだろと言いたかったが、普段こいつを投げ飛ばしてる我が言う筋合い無いな。
 それに騰蛇殿に素顔を見られたので気持ちは多少は分かる。風琴はむっとしたがすぐにすまなかったと謝る。素直過ぎる態度に、東雲は両目を見開いた。

「何だ、投げ飛ばさないのか」
「怪我人にそのようなことはしたくない。それに我もあまり妖力が戻っていないから殴る気力が無い」

 疑っている表情の東雲を無視して茶を飲む。しばらくして嘘偽りが無いと納得したのだろう。東雲は湯呑みを再び手に取った。

「そういや月夜君が助けた天狗なんだけど、口淫について教えてくれた天狗なんだよ。知ってたか」

 風琴は軽く瞠目する。そんなこともあるのか。元人間の天狗らしいとは聞いていたが、驚きだ。

「初耳だ。それは良かった」

 ただでさえ天狗に犠牲者が出たのだ。間接的にでも関わりがあるものが亡くなれば、胸が余計に痛むし月夜が悲しむ。風琴は安堵に胸を撫で下ろした。

「あとさ、もうそろそろ月夜君と契りを結ぶのか。今の空気だと気まずいからやる日の夜は人払いはしておこうか」
「ああ、勿論するつもりなので人払いを頼む」

 本当は宴を開きたかったが、月夜が一刻も早く強靭な肉体と妖力を得る必要がある。今回は静かに開いて、後から盛大に祝うとしよう。

「分かった。だけど妙薬以外に何も無しでは寂しいだろ。はいこれ」

 東雲は傍にずっと置いていた風呂敷を我に渡す。中を開けば、菓子と酒が入っていた。

「わざわざすまぬな。後で礼はする」
「礼なんて気にするな。それよりも風琴。翌日腰が悲鳴上げぬようにしっかりしろよ」

 風琴は耳まで赤くなると、無言で東雲の背をバシバシと叩く。東雲は痛いと痛いと言いながらも、優しい目で笑っていた。

 風琴と東雲が話をしている頃、月夜は泰重や天将達と共にいた。枇杷を食べた日から仲良くなった月夜と泰重は、話題が途切れることなく話をする。

「では月夜殿は天狗になられるのですね。……人間じゃなくなることに未練は無いのですか」
「無いですよ。私は人里に戻ったところで、行く宛も無いですし。それに……出来ればずっと師匠の傍にいたいのです。人の寿命は、師匠に寄り添うにはあまりにも短すぎますから」

 月夜の躊躇いの無い返答に泰重は複雑な面持ちになる。神や妖を使役するといっても、陰陽師は人間だ。元人間の天狗がいるのは知っていたが、月夜殿が人間以外の身体に作り替えられてしまうのは、少し恐ろしく感じる。
 世間で言うところの道を外れた修験者がなるような天狗とは異なるようだ。ではどうやって天狗にするのだろうか。血を飲ませるとか、妖力を注ぐとかなどか。興味はあるが、このようなことは門外不出の物であろうから聞けまい。
 それよりも懸念しているのは、月夜が人間以外の者になるということは、人を害すれば問答無用で敵対するということ。
 いや、月夜に限ってそんなことは無いと泰重は思いたいが、盟約が決裂した場合も敵対関係になるのだ。
 泰重は微風に吹かれる青々とした木々を見つめながら、それは嫌だなと心の中で呟く。

「ところで、天狗は衆道という話を耳に致しますが、その辺りはどうなんです」
「こ……紅月殿!?」

 突然なんという話題を出すのかこの人は!? 月夜殿は一瞬固まると、目を伏せる。

「いやあ……あはは……。私も詳しくは知りませぬが、男女の仲もあれば同性での関係もあるという、人里とさほど変わらないようですよ」

 月夜殿も何を正直に話しているんだ!? 3人の人間の中で唯一の無垢である泰重は、頬を赤くして月夜と紅月を交互に見る。

「では月夜殿も風琴殿と愛し合っておられるのですね。月夜殿は勿論ですが、風琴殿も貴方に向ける眼差しはお優しいですし。風琴殿は貴方のような師匠思いの弟子を持つことが出来て幸せでしょうな」

 紅月殿の言葉で月夜殿は硬直する。耳が真っ赤なことから、恥ずかしさのあまり放心状態になってしまったか。少し後、泰重が軽く肩を叩くまで、月夜は固まったままだった。

「ごめんなさい、ぼうっとしてしまいました。師匠をお慕い申し上げているのは事実ですが、他の方から指摘されるのはどうも恥ずかしいですね……」

 それはそうだろう。で紅月殿の言葉は直接的であまりにも遠慮がない。泰重は少し紅月を睨むが、紅月は少しも悪びれた様子はない。紅月は木々に視線を向けると風に流れてきた葉を1枚手に取った。

「貴方のような純粋な想いなど、身も心も穢れている某は少し羨ましいです」

 いつもは一切見せぬ憂いた瞳に、泰重は言葉を失う。紅月が外法師の情報を得るために、その身を餌として身体を幾度も開いていることは、なんとなしには知っていた。
 だが紅月は全く本心を覗かせてくれないので、身体を開くことにどう思っているかなど気づかなかった。

「紅月殿はちょっと意地悪なところもありますけど……身も心も穢れているとは思いません。自分をそんな風に言わないでください。言霊で卑下することは、自分の心に刃を突き立てることと同じです」

 こんなことは自分が言えた言葉などではない。貴方は確かに、好きでもない相手に身体を開いているかもしれない。
 それでも私は貴方の大名への忠誠心や命を懸けて戦う貴方が美しいとしか思えない。誰が何と言おうと、私にとって貴方は美しくて強い方なのだ。
 たとえ貴方自身であっても「紅月」を否定することは言ってほしくない。紅月は両目を見開くと、目を細めて微笑を浮かべる。

「そうですね。泰重殿、ありがとうございます」

 紅月の笑みに泰重は紅潮して目を逸らす。その様子を眺めていた月夜は、水を飲み込みながら考える。
 泰重殿は紅月殿に想いを寄せているのだろう。泰重殿は私と違って身体は無垢のようだから、完全に無意識のようだ。
 泰重殿に指摘すべきだろうか。月夜が紅月を見ていると、視線に気づいた紅月が唇に人差し指を立てる。
 ああ、そうか。泰重殿の想いを受け入れるかはさておき、紅月殿は泰重殿の想いを知っているのか。師匠程とはいかないが紅月殿は美しい方だ。想いを寄せた者は少なくないのだろう。
 泰重殿の恋を応援したいが、私に愛しいと仰った師匠と違って、紅月殿が誰に想いを寄せているかは分からない。
 だから、泰重殿が自分の想いに気づくまでは話すなというのか。


 その日の夜は、師匠や長の計らいで私と師匠、そして泰重殿と紅月殿で夕食を食べることとなった。

「私がお呼ばれして良かったのでしょうか」

 食前に耳打ちすると、師匠は当然だと頷いた。

「長に泰重とお前が打ち解けたことを伝えたところ、それなら一緒に食事をなさいますとよろしいでしょうとな。……それに、折角のお前との契りの祝いが派手には行えぬから、どうせなら食事くらいそこそこ良いのを食べてもらわないと」

 契りという言葉を聞いただけで、鼓動が早くなる。もう一度、師匠と交わりたい。泣き濡れた瞳で甘い声を上げる姿が見たい。そんな邪な想像をしてしまって、月夜は目を伏せる。

「月夜。今、我に対してとんでもない想像をしなかったか」
「いえ……そんなことは……あり……ます。どうしてお分かりになったのです」

 嘘をついても仕方がない。正直に話して問うと、師匠はお前のことなどお見通しだと笑った。

「何年もいれば分かる。それに、我はお前よりうんと長く生きているからな」

 師匠は平安の頃に生まれたそうなので、師匠にとって私は赤子同然なのだろう。天狗になってもその差は埋められそうにない。それを考えると、少しだけ気落ちしてしまいそうなので、話題を変えることにした。

「契りの祝いということは……師匠、もしや今夜ですか」
「今夜は駄目だ。せっかくお前に抱かれるのなら念入りに身体を清めてから受け入れたいから明日な。どうせ明日も夕食は一緒だし」

 師匠はどこから見ても綺麗だし美しいから清める必要などないのに。だが、師匠が自分の為にそこまで気遣ってくれることが嬉しい。

「師匠、愛しております」

 愛しさが溢れて思わず師匠を抱き締める。師匠は痛いぞと言いながらも、私の背に腕を回す。

「我も……他の誰よりも月夜を愛している」

 愛しい人から告げられる愛の言葉はなんとも甘くてくすぐったい。月夜は愛しい人の身体を抱き締めながら幸せを噛み締めていた。
 泰重に対して罪悪感を覚えつつ月夜は頷く。紅月は軽く頭を下げて微笑んだ。


 夜時になって月夜は客間で食事を摂る。正面には泰重と紅月、隣には風琴という並び。普段の夕食はいつも師匠と食べるので、4人で食べるのは初めてだ。
 昨日までは普段に近い食事であったが、客人向けということもあって、豪勢だ。少しでも料理の上達の参考にしたくて月夜は噛み締めて食べる。

「我が気を失っている間、色々と世話になったらしいな。礼を言う」
「いえお気になさらずに。此方での滞在を許して頂けてる恩もありますし」

 泰重殿はもう師匠に怯えた素振りを見せなくなっている。友人が師匠に怯えなくなったのは喜ばしい。泰重殿に怯えられていることを口にした時の師匠は、泰重殿を心配なさっている様子だったから。

「ところで、お怪我は大丈夫ですか。手合わせの際にお怪我をなさっていた様子でしたので」
「このくらい平気だ。それに手合わせにおいての怪我など謝らなくて良い。我とて重々承知の上でやったのだから」

 月夜はちらりと風琴を見る。師匠が気を失っている間に着替えさせたが、包帯はそれによるものだったか。明日抱くならば、あまり乱暴にしては傷が広がるかもしれないな。慎重にしなければ。

「そういえば、騰蛇殿はどうした。我のいない間にでも帰ったか」
「いいえ。気になることがあると、結界の修繕の方々と一緒におります」

 騰蛇殿か……。月夜は風琴が気を失った時のことを思い出す。師匠が眠っている間は常に彼の気配を感じていた。
 殆ど消耗しているとはいえ、彼の神気は恐ろしさがあった。だが、師匠の代わりに守ってくれていたのだ。後で私も礼を言うべきだろう。

「そうか。では勾陳殿か紅月に頼みたいのだが、少しばかり月夜の手合わせの相手になってくれないか」

 月夜は思わず箸を落としかける。いや、師匠。私は未熟者ですよ。紅月殿はともかく、東雲様を倒した天将殿が相手では勝ち目が無いのでは……。
 師匠を見ると、萌葱色の瞳が私に拒む権利はないと告げていた。

「紅月はともかく、天将は先祖の命で、人の血を流させてはいけぬということになっております。神気を使わなくて良いというならば、それなりの手加減は出来ますがどうされますか」

 天将殿にはそのような制約があるのか。ならば師匠が怪我を負ったのは人でなかったからであろう。

「では神気はなるべく抑えた状態でいい。我が怪我をする分には構わぬが、此方も今の状況で人間である月夜に怪我を負わせたくはないのでな」

 契りの前日で怪我を負う心配が無いのはありがたい。だが手加減というのがどの程度になるのか。

「ですが万が一ということを考えて、勾陳よりも某が適任ではないでしょうか。手加減も出来ますし」

 ずっと箸を止めなかった紅月殿が口を開く。紅月殿は確か人間。泰重殿の先祖に制約をかけられている勾陳殿よりも適任ではあるだろう。
 しかし……この方は魂は蛇神の分御霊ではないか。一緒にお話している時の雰囲気好きだが戦う時とは絶対に違うだろうし、蛇は少し苦手だ。

「確かにそれもそうだな。だが紅月、お前も神気を見せるなよ」
「承知。大切な交渉相手の大事な方を無下には扱いませぬよ」

 紅月殿は赤い瞳を煌めかせる。昼間に話している時と違う何かを見出だして月夜は背筋が薄ら寒くなった。

「では月夜と紅月、食べ終わってから半刻後にどうだ」

 四半刻後ならともかく、半刻後なら大丈夫だろう。でも勝てるかどうか。

「某は大丈夫ですよ。月夜殿、貴方はどうですか」
「私も……大丈夫です」

 師匠が信頼しているならば、手合わせを受けるしかない。それに師匠の指示ならば何かしらの理由がある筈だ。月夜が頷くと、風琴は目を細めた。

「では決まりだ。紅月、酒を飲みすぎぬようにな」
「別に某は酒に酔ったことはございませぬが念のために控えましょう」

 紅月殿は残念そうに酒瓶を置くと、残りの食事に箸をつける。師匠や東雲殿以外との手合わせは初めてだ。
 勝てないにしても、全力は出せるようにしなければ。月夜は緊張のあまり、残りの料理の味が分からなくなった。

 食事が終わって半刻後、師匠の寝室の前に集まる。私が来る頃には既に紅月殿がいた。いつもの武家のような格好とは違い、墨染の布に赤い装飾を施した変わった衣。白い肌と赤い瞳に映えて良く似合っておられる。夜の風に濡羽の髪を靡かせる様はあまりにも妖艶で、少しどきりとした。

「月夜殿、準備は出来ておりますね」
「はい、勿論です」

 使いなれた木刀を握り締める。この方がどのような戦法を取るのかは分からない。それでもちゃんと対応出来るようにしなければ、師匠の顔に泥を塗ることになる。

「では風琴殿。合図をよろしくお願いします」
「あい分かった。ではいざ尋常に……勝負!」

 師匠の合図と共に互いに地を蹴った。紅月殿は苦無を投擲したので、木刀で弾き返す。その間に距離を詰めた紅月殿が間合いに入ってきた。小刀が首を狙うぎりぎりのところで避けて、胴に木刀を叩きつけようとする。だが兎の如き俊敏さで、木刀の上に着地した。

「なっ……!?」

 木刀の上にいるのにもかかわらず、一切の重みを感じない。一瞬、混乱したが、すぐに木刀を振ると紅月殿は宙返りして地に着地した。

「まだまだ序盤。気を抜いては駄目ですよ」

 紅月殿は微笑むと、腰の刀を鞘から抜いて駆けてくる。そして一気に跳躍すると、間合いに斬り込んできた。

「くっ……!」

 先程とは違い、岩のような重みがのし掛かる。月夜は必死に受け流すと、紅月は凄まじい早さと衝撃で斬り込んできた。

「流石風琴殿の弟子ですが、まだまだ俊敏さが足りませんね。それにそのように力んでいては、後が持たなくなりますよ」

 等と涼しげな顔で言うが、威力も早さも一切衰えない。この人は一体何なのだ。月夜は刃を受け止めるので精一杯だった。

「では此処からちょいと、手加減を止めますよっ」

 紅月殿は素早い早さで間合いを詰める。先程とは違い、明確な殺気。紅月の眼光の恐ろしさに、月夜は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。

「ほら……隙有り!」

 紅月は勢い良く木刀を月夜の手から弾き飛ばす。月夜は唖然と地に落ちた木刀を見ていた。

「そして殺気には対応出来ないと。月夜殿、どれ程の腕を持っていても殺気に怯んでは冗談抜きに死にますよ」

 紅月殿の瞳は寒々としている。月夜はただ言葉を失ったまま、膝を突いた。

「風琴殿、まさか知っていたから凶将や私を手合わせの相手にしたかったんですか」
「いいや。我や東雲ではお前達のような敵意は向けられぬ。したとしても、此方では無意識の内に生易しい程の手加減をしてしまうと思ったまでよ」

 それもあるだろうが、師匠は私の過去を知っているからであろう。私は母が死んでからずっと追っ手から殺意を向けられていた。何度首を刎ねられそうになっただろう。昔からその夢ばかりを見る。……そして今でも。                     
   月夜は恐る恐る風琴を見上げる。風琴は紅月の方を向いてるためか、表情は分からない。折角師匠から稽古を長い間つけてもらっていたのに、これでは無駄になるではないか。師匠は私を見捨てたりしないだろうか。幼児の頃と同様の不安が過る。

「月夜はもうすぐ天狗になるが、天狗になっても殺気に対処出来ぬようでは自分の身も守れぬ。故にお前が特訓してくれないか。礼なら弾む」

 紅月殿は今にも舌舐めずりをしそうな表情で笑った。

「礼ですか。別に金銭はそれほど求めてないですが、貴方の御髪を後ろ髪から三寸程頂けませんかね。貴方の御髪であらば、強力な退魔の呪具が作れますので」

 月夜は瞠目した。待ってくれ。髪を他者に渡すなど言語道断。それに……師匠の髪が切られるなんて考えたくもない。

「我に呪詛を掛けぬと言質を取らせるならば、くれてやってもいい」

 師匠は躊躇いも無く髪紐を解くと、艶やかな髪を風に靡かせて見せつけていた。

 紅月殿は大きく目を見開くと、首を横に振った。

「いや、了承して頂けるなら嬉しいが、せめて御髪ぐらいは大事にしてくだされ。貴方は天狗でも立場がある方でしょうが」
「月夜の今後と我の髪を天秤で量るならば、当然月夜の今後であろうが。それに髪はいつかは伸びる」
「……っ」

 安堵と共に涙が溢れそうになる。必死に堪えたが、その内にあることを考えてしまった。このままでは師匠の足枷になってしまったままなのではないかと。

「弟子愛は素晴らしいことですが、少しくらいは自分を大切になさってください。あと髪は指の太さ程の一房で良いのです。流石に後ろ髪全部三寸もらったら目立ちますし、某が天狗達に白い目で見られます」

 良かった。紅月殿のような方が髪の重きを分かっておられるようだし、師匠と友人として仲好くなりたいと仰っていたから、そんな非道なことを言うわけないのだ。師匠は拍子抜けした様子であったが、少しむっとされた。

「貴様、どの口で自分を大切になどと忠告している」
「さあどの口でしょう」

紅月殿はにやりと笑うと、木に凭れかかった。

「先に言っておきますけど、あくまで月夜君に教育の必要性を感じた場合ですから、今は受け取れませんよ。それと、目立たぬように切りますので、そこはご安心を」

 結局、私が天狗の身になって殺気を浴びても剣を振るえるなら、師匠は御髪を切らなくて済むということだ。だが、私の考えを悟った師匠が首を振った。

「お前の敗因は幼き頃の心の傷だ。天狗になったとてすぐ克服出来るかといえば難しい。生きたければ、我を守りたくばこやつの特訓を受けろ」
「はっ……はい……」

 今のままでは力不足なのだ。師匠を守るどころか、師匠を危険な目に遭わせてしまう。月夜は頷くと、手のひらが血に滲む程握り締めた。


 紅月が戻った後、月夜は大層落ち込んでいた。無理もない。あのようにこてんぱんにやられたのだから。縁側で肩を落として座る月夜に風琴は羽織を掛けた。

「まだ青二才なのだからそこまで気落ちしなくても良い」
「ですが……私は貴方をお守りすると誓ったのです。なのに今の私では貴方の足手まといになってしまいます」

 天狗にもなっていない小僧が何を気にしているのだろうか。風琴は月夜の肩に腕を回した。

「五十年も生きていない奴が、足手まといがどうこうとか考えるな。それにお前は、心の傷さえ乗り越えれば強くなれるのだ。容易なことではないが、あやつの特訓を受ければましにはなるだろさ。あやつは生半可な強さではないからな」

 それでも落ち込んだままの月夜。未熟な者が力不足を歯痒いと思ってしまう気持ちは痛い程分かる。
今の月夜に言ったところでどれも月夜の心をちくちくと針を刺すようなことと同じかもしれない。風琴は立ち上がると、部屋からあるものを探す。見つけた物を手にして座ると、風琴は面を取った。
 風琴は見つけたある物を唇に当てる。夜の風に乗せて雅な音色が響き渡る。月夜が顔を上げたのを横目で確認すると、視線を月に向けた。
 この曲はかつて母が生きていた頃に、父が母にせがまれて毎夜の如く吹いていたものだ。
 幼い我は母の膝の上で、父がいつもは取らぬ面を外して横笛おうてきを吹くのを見上げていた。月夜に聞かせたのはいつ以来だったか。風琴が一通り吹き終えて唇を外すと、月夜は少し元気を取り戻したのか微笑を浮かべていた。

「師匠、こんな私の為にありがとうございます」
「別に礼などいらぬ」

 月夜には少しでも笑っていてほしいと願ったまでだ。礼など求めていないし、笛の音が月夜の慰めになったのならそれを礼と受け取っておこう。

「……月夜、お前がどう思おうと、我は明日の夜にお前に身を委ねる。お前がどれだけ未熟であろうと、我が愛していることは忘れないでくれ」

 我が矜持を捨ててまで愛するのはお前だけなんだ。月夜の頭を撫でると、月夜の瞳が潤み始める。やがて涙が溢れて一筋落ちると、月夜は顔を覆って肩を震わせた。風琴は目を細めると、月夜が泣き止むまで黙って傍にいた。
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