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羽化
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翼を得ても貴方にはまだ遠い
その日の朝、月夜が目覚めると久方ぶりに性欲ではなく空腹を覚えた。この頃、水と血と腎水しか口にしてないから何か欲しい。
例えば塩気のあるものとか。月夜はのろのろと起き上がると、風琴の手の甲に口付けをしてから井戸に水を汲みに行った。少しずつ身体の中が変化しているのは分かるけれども、もうちょっと外見にも変化は出ないだろうか。瞳が師匠みたいな色になるとか。眠気を醒ますようにぱしゃぱしゃと顔を洗う。
「あれ!?」
そして桶に映る己の顔を見た途端、月夜は思わず声を上げた。
「どうした月夜。何かあったか」
月夜の声に目覚めたのか、風琴が寝巻き姿の風琴が障子を開ける。そんな風琴に月夜は震える指で己の目を指差した。その動作で風琴は察する。
「ようやく変わったようだな。瞳も綺麗な若葉色だ」
「はい! ありがとうございます」
月夜は嬉そうに頷くと、桶の中に映る己の顔に視線を戻した。瞳は今までの黒色と違って、鮮やかな若葉色へと変貌している。師匠に近づけたようで嬉しい。
「妖力もちゃんと定着したようだ。更に我の妖力に適応すると、我の瞳の色に似てくるだろうよ」
「本当ですか!? 早くそうなる日が楽しみですね」
やはり情交が必要なのか。だが、ここ何日も師匠に無理をさせてしまったので、しばらく情交は控えるべきであろう。焦ってしまっては愛する人にまで迷惑がかかってしまう。
「ところで師匠。どうすれば飛べるのですか。翼が生える気配がしないのですが」
「大丈夫だ。朝餉を済ませてから練習するとしよう。我が教えるから心配するな」
早速今日飛べるのかと、月夜は空を見上げる。日が昇るのが早くなったせいか、すでに胸がすく程の青い空。ああ、師匠の隣でこの空を飛べるのだと思うと、月夜の胸が弾んだ。
久しぶりに口にする食事は、白粥であっても美味い。涙が出そうになりかけながら堪能し、1刻後に練習をすることになった。
私はすぐにでも出たかったが、初めて飛ぶものは吐くことが多いから食後は少し時間を開ける必要があるということ。私が庭に出ると、すでに師匠は東雲殿と待っていた。久しぶりに見る2人の翼。東雲殿のも立派であるが、やはり師匠の翼の方が大きくて美しい。
天狗にとって翼も美醜の判断材料となるらしいので、そのような点からも師匠は美しいのだろう。月夜は風琴に駆け寄った。
「師匠、よろしくお願いいたします」
「うむ。では指南を始めるが、以前に言ったように妖力で翼を形成せねば飛べぬ。まずは我や東雲の翼を見て、己に翼が生えている姿を想像してみろ」
月夜はじっと風琴の翼を見つめる。師匠の翼は髪のように黒く艶やかで大きい。気品すら感じるあの翼を守れるような翼が生える翼。愛しい貴方を守れるような翼。月夜が意識する内に、背に熱さを覚えた。
「おお、これは中々」
東雲殿の声に誘われるように視界の端に目を向ける。そこには大きな翼があった。
「師匠、翼が生えましたよ!」
「ああ、見ておったぞ」
師匠に頭を撫でられて、月夜は子供のようにくるくると見て回りたくなる衝動が込み上げたが、自制心で我慢した。
「では飛ぶとしよう。まあこの辺りのコツは……習うより覚えろと言ったところだな。今から我の翼の動きを見ていろ」
師匠が私の手を取ると、反対の手を指を鳴らす。すると周囲に柔らかな風が流れ、師匠が地を蹴った。とたんにふわりと浮き上がる自分の身体。
どんどん木よりも高い位置まで飛んでいくにつれて、空気が少し冷たく感じる。どれだけ高く昇ったであろうか。ある程度の高さで師匠は上昇するのを止めた。
「月夜、我の翼の動きをしっかりと見ていたか」
「はい、この目でしかと見ておりました」
貴方から目を離すわけがありませぬと言うと、師匠は面を外した。いつもと違い、優しげに微笑んでいる。本当に美しいお顔だなと見とれていると、信じられない言葉が聞こえた。
「そうか。では手を離すぞ」
「へ……? ………うわああ__!?」
突然手を離されると、身体が一気に降下する。どうしよう。このままでは確実に死ぬではないか。月夜の顔から一気に血の気が引いた。
「月夜、翼を動かせ。我の翼の動きをしかと見たと言ったであろうが」
そう言われても、こんなに急にされても無理だ。身体に叩きつける強風や段々と近づいてくる地面に月夜は肝が縮んで目を瞑る。脳裏に蘇るは、悠々と羽ばたく師匠の翼。それだけではない。温かい腕の中から見た頼りがいのある大きな翼の羽ばたきを鮮明に思い出した。すると背中がかっと熱くなり、翼の感覚が手足のように如実に伝わる。
これを動かせばいいのか。月夜が翼に力を込めると、今まで痛い程当たっていた強風が嘘のように穏やかになった。月夜は恐る恐る目を開ける。視界に広がっていた筈の地面はなく、見えるのは山々の木々。自分が飛んでいることが信じられずにいると、横から師匠の気配がした。
「ちゃんと出来るではないか。よし一旦降りよう」
「はい」
師匠と翼が当たらぬように向かい合わせに手を繋いでゆっくりと降下する。一度翼を動かすことが出来れば、後は自然と師匠の周りの風の動きが手に取るように分かり、師匠の早さに合わせて降下出来る。
地に足をつけた途端、今までの緊張がどっと出て月夜はふらついた。風琴は月夜を受け止めると、その頭を撫でる。
「少し荒療治だとは思ったがよくやった」
「これは少しなのですか……師匠」
下手をしたら死んでいたのではないか。月夜が恨めしげに言うと、風琴は何を言っているのやらと呆れた様子で言った。
「少しだとも。まず我の妖力で地面に叩きつけられても軽傷で済むだろうし、万が一の為に地上では東雲が待機しておったからな」
「そうそう、生まれた時から天狗の俺達もガキの頃に受けた通過儀礼だ。安全には十分考慮しているさ」
師匠も東雲殿もこれを経験しているのか。私などよりも怖かったに違いないな。もう身体も十分大きい私が怖がっている場合ではないなと気を引き締めた。
「月夜、飛ぶコツも掴めたであろうから、一度四半刻ばかり休憩してから練習を再開しようか」
「いいえ、不要です。一刻も早く一人前の天狗になりたいのですから」
「そうか……。なら来い」
師匠は目を細めると、私の手を掴んで空に戻った。
その後は妖力が底を尽きて飛べなくなるまで散々鍛えられた。空を自在に駆け回れるだけの飛び方や、強風に耐えるだけの体幹を鍛え、急降下しても着地の衝撃を抑える方法。気がつけば夕方になっており、私は地べたに倒れ込んだ。
「よし明日は多少剣の手合わせをしても問題なかろう」
師匠は俯せで転がっている私の隣に着地すると、翼を畳んで私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ですが師匠……私はあまり上手く飛べてない気が……」
風に流されるわ、飛び方がふらついて危うく木の幹に激突しそうになったりとひどい有り様であった。その証拠に、木の枝に衣を引っ掻けてしまい、袖が裂けている。師匠は私を立ち上がらせると、妖力で土埃を落としてくださった。
「初日で我のように飛べるとは思うなよ青二才。練習で翼を折るものなどよくいるのだから、折らなかっただけでもマシだと思え」
言葉は荒く罵倒に近い正論だが、声音は優しい。厳しくもこんなに優しい貴方を守れるようになりたいと思えど、それが何年かかるのか分からない。もうすぐ、貴方が戦いに出る日が迫っているかもしれないのに。
月夜は唇をぎゅっと結ぶと、風琴をまっすぐ見据えた。
「師匠、明日も御指南よろしくお願いします」
「分かっておる。ただ、明日からはもっと厳しくするからな」
「はい!」
月夜の威勢の良い返事に、風琴は口元を緩めた。
その夜、風琴が月夜に少量血を与えてから寝むろうとしていると、里の天狗が呼び出しに来た。
どうやら、長が話があると来たらしい。こんな遅くに何を話そうというのか。風琴はすぐに着替えると、長に会いに向かう。泰重と紅月も呼び出されたようで、庭に十二天将が控えている。3名に軽く会釈をしてから客間に入ると案の定、長と人間の2人が既に部屋にいた。
「こんなに集まっているということは、同盟の話が決まったのか」
「その通りです、ご隠居」
思ったより早かったな。だがあまり早すぎては月夜の力がつかぬまま、危険に晒してしまうのではないか。風琴はそれが心配でならなかった。
「それで、実際に戦うのはいつになる」
「準備などございますから最短で1ヶ月後になるかと」
泰重の言葉に風琴は頭を抱える。天狗にとって1ヶ月後となると瞬きひとつと対して変わらぬ。そんな短時間で準備をせよというのか。
「中々に酷なことを言ってくれるな。それだけ時間がないのか」
「はい……」
風琴が静かに問うと、泰重は顔を青ざめさせながらもまっすぐな目で頷いた。正直な所、断ると言いたいところであるが長老どもだけでなく里の者総意となると断るわけにはいかぬ。風琴は面の下で唇を噛んだ。
「そうなると我には断る権限もないな。ただ、そうなると事情が詳しいものに居てもらって、戦略や対策を綿密に練る必要がある。そこで、天将と退魔師を1名ずつ置いていってもらいたいがどうかね」
「な……!?」
泰重は驚いているようだが、紅月はさして驚いていない。すぐに某が残りましょうと申し出た。
「紅月殿、そんなことして大丈夫なのですか!? 貴方の里は!?」
「里についてはご安心ください。うちの桔梗と念話で里のことを逐一報告してもらって、里への命令の伝達などしておりますので」
それにと我の方を見て紅月は笑う。
「風琴との約束もございますから、果たすには残りませんと。では天将は誰にします?」
特に、音漏れ防止の結界も張ってないから聞こえていたからだろう。障子が開くと、六合殿が我のことを、曇り無き萌葱の瞳で見据えていた、
「騰蛇や勾陳がこれ以上不在だと戦況がまずくなるでしょうから、俺が残ります」
確かに一刻を争う状況下で騰蛇殿や勾陳殿を留め置くのは陰陽師どもから不興を買うだろうな。それに六合殿は長の側近との手合わせで勝利している。長もこの意見に同意したのか首を縦に振った。
「ではそのお二人には残ってもらいましょう。里で戦略を考えても良いですが、余計な雑音が混じるといけませんし、今後も此方の部屋を借りてもよろしいでしょうか」
「あ……ああ。なるべく汚さないなら自由に使え」
それにしても里の長老殿や長の実母のことを雑音と呼ぶのか。優男かと思いきや、長も中々に怖くなったなと風琴は苦笑いをした。
その後の話はこれからのことについて少し話す。話し合いが終わり、人間達が出ていったので我も出ていこうとすると、長に呼び止められた。
「御隠居、お弟子さんのことについてですが、御隠居が出陣している間はお弟子さんをお預かりいたしましょうか」
本当は天狗に成り立ての月夜の為には、そうしてもらった方が有り難いのだろう。だが、義母とその取り巻きが月夜を敵視する可能性が十分ある。
「いや……まだ里に親しい者もいない月夜を置くわけにはいかぬ」
「そうですか……。ですが、いつでもお預かりする所存ではございますので、必要な場合はお声掛けくださいね」
「お心遣い感謝いたす」
風琴は軽く頭を下げると、寝床に戻った。
月夜を起こさないように部屋に入ったが、既に月夜は起き上がっていた。察しの良い月夜のことだから、既に勘づいているのだろうか。美しく穏やかな顔が険しくなっている。
「師匠、もしやもう戦いに出られる日が決まったのですか」
「ああ。……1ヶ月後にはな。明日の鍛練については、約束通りするが明後日はもうする暇も無いであろうな。紅月は残るので、代わりに稽古をつけてもらえ」
奴も約束を反故しないようにと残ることを決めたのだろう。その辺りは紅月の腕前からするに心配はないが……。我でも未経験な人との共闘する戦場には連れてはいけない。
「着いていくとは言うなよ。此処ではお前を守れるが、戦場とならばお前を守れる余裕など無い。何せ、我は天狗の筆頭として戦わなくてはならないらしいからな」
「そんな……」
事の重大さを理解した月夜の瞳が凍りつく。ああ、そんな顔などさせたくなかったんだがな。胸が痛むが、嘘をつく方が酷であろうから仕方ない。しばし顔を伏せて唇を噛んでいたが、顔をゆっくりと上げた。
「師匠、もし紅月殿に勝てたら傍に置いてくださることを考えてくださいませんか」
「流石に最前線は無理だが……紅月にか……。まあ……下界に連れていくのは考えてやらなくもない」
たった1ヶ月で紅月の殺意に克服し勝てるとは思えない。だが頭ごなしに否定すれば、こやつのことだから無理にでもついていきそうだ。ならば無謀な条件を受け入れた方が月夜も諦めがつくだろう。風琴は悩みながらも無謀であろう月夜の提案を飲むことにした。
風琴が眠ってしまうと、月夜は障子越しの月を眺めていた。今の自分では戦場で師匠の傍にいるだけで足手まといになってしまう。いつも厳しい師匠がそれを言わなかったのは、私への配慮故であろう。
私は師匠を抱く側ではあるが、それは師匠が受け入れてくださったからである。本当に嫌だったら容易に師匠は私を殺すことが出来る。それだけ師匠は強いのだ。誰よりも強い貴方の足手まといにはなりたくない。
愛しい貴方から「足手まといだ」ともし言われたら、心が張り裂けてしまいそうだ。
……なのに、貴方を傍で守りたいという思いが込み上げて仕方がない。貴方の翼に届くほど私は高みへと至れないのに、届かない貴方に手を伸ばして腕の中に入れたいと思ってしまうのだ。私には欲求に届く程の実力が無いのに。月夜は拳を握り締める。
師匠は私が紅月殿に敵わないと思っているだろう。紅月殿は蛇神の化身で、人から好かれるような気性であるのに、躊躇いも無く闘う時は殺意を見せる。幼い頃に追われる身になって殺意を受けてきたが、あのような憎悪も欲望も無い殺意など初めて受けた。あの殺意に怯まず、手合わせで勝てる自信など無い。自分で言うのもなんだが、たった1ヶ月で紅月殿に勝とうなど無謀だ。最低でも半年は欲しかった。
それでも貴方を守るためなら、それだけの実力が必要だ。血反吐を吐いてもいい。手が豆だらけになっても構わない。貴方を守れる力が手に入るなら、これまで以上の努力は惜しまない。
月夜はそっと背を向けて眠る風琴を背後から抱きしめた。風琴は起きていないのか、少し呻いただけで寝息が絶えることはない。腕の中に収まるだけの肢体を月夜は辛そうに見下ろす。
強くてもこんなに線が細い貴方を、天狗達は最前線へと追いやろうとしている。東雲殿も行くらしいが、もし東雲殿が離れた場合、師匠が同胞から危害を加えられない保証がどこにある。最前線ならば敵の攻撃と装って、傷つけられる可能性がある。……師匠の同胞を疑ってしまうのはいけないと分かっている。それでも……
「私は……貴方を傷つける彼らが許せない……」
地を這う声で呟く月夜の瞳は雪よりも冷たかった。
その日の朝、月夜が目覚めると久方ぶりに性欲ではなく空腹を覚えた。この頃、水と血と腎水しか口にしてないから何か欲しい。
例えば塩気のあるものとか。月夜はのろのろと起き上がると、風琴の手の甲に口付けをしてから井戸に水を汲みに行った。少しずつ身体の中が変化しているのは分かるけれども、もうちょっと外見にも変化は出ないだろうか。瞳が師匠みたいな色になるとか。眠気を醒ますようにぱしゃぱしゃと顔を洗う。
「あれ!?」
そして桶に映る己の顔を見た途端、月夜は思わず声を上げた。
「どうした月夜。何かあったか」
月夜の声に目覚めたのか、風琴が寝巻き姿の風琴が障子を開ける。そんな風琴に月夜は震える指で己の目を指差した。その動作で風琴は察する。
「ようやく変わったようだな。瞳も綺麗な若葉色だ」
「はい! ありがとうございます」
月夜は嬉そうに頷くと、桶の中に映る己の顔に視線を戻した。瞳は今までの黒色と違って、鮮やかな若葉色へと変貌している。師匠に近づけたようで嬉しい。
「妖力もちゃんと定着したようだ。更に我の妖力に適応すると、我の瞳の色に似てくるだろうよ」
「本当ですか!? 早くそうなる日が楽しみですね」
やはり情交が必要なのか。だが、ここ何日も師匠に無理をさせてしまったので、しばらく情交は控えるべきであろう。焦ってしまっては愛する人にまで迷惑がかかってしまう。
「ところで師匠。どうすれば飛べるのですか。翼が生える気配がしないのですが」
「大丈夫だ。朝餉を済ませてから練習するとしよう。我が教えるから心配するな」
早速今日飛べるのかと、月夜は空を見上げる。日が昇るのが早くなったせいか、すでに胸がすく程の青い空。ああ、師匠の隣でこの空を飛べるのだと思うと、月夜の胸が弾んだ。
久しぶりに口にする食事は、白粥であっても美味い。涙が出そうになりかけながら堪能し、1刻後に練習をすることになった。
私はすぐにでも出たかったが、初めて飛ぶものは吐くことが多いから食後は少し時間を開ける必要があるということ。私が庭に出ると、すでに師匠は東雲殿と待っていた。久しぶりに見る2人の翼。東雲殿のも立派であるが、やはり師匠の翼の方が大きくて美しい。
天狗にとって翼も美醜の判断材料となるらしいので、そのような点からも師匠は美しいのだろう。月夜は風琴に駆け寄った。
「師匠、よろしくお願いいたします」
「うむ。では指南を始めるが、以前に言ったように妖力で翼を形成せねば飛べぬ。まずは我や東雲の翼を見て、己に翼が生えている姿を想像してみろ」
月夜はじっと風琴の翼を見つめる。師匠の翼は髪のように黒く艶やかで大きい。気品すら感じるあの翼を守れるような翼が生える翼。愛しい貴方を守れるような翼。月夜が意識する内に、背に熱さを覚えた。
「おお、これは中々」
東雲殿の声に誘われるように視界の端に目を向ける。そこには大きな翼があった。
「師匠、翼が生えましたよ!」
「ああ、見ておったぞ」
師匠に頭を撫でられて、月夜は子供のようにくるくると見て回りたくなる衝動が込み上げたが、自制心で我慢した。
「では飛ぶとしよう。まあこの辺りのコツは……習うより覚えろと言ったところだな。今から我の翼の動きを見ていろ」
師匠が私の手を取ると、反対の手を指を鳴らす。すると周囲に柔らかな風が流れ、師匠が地を蹴った。とたんにふわりと浮き上がる自分の身体。
どんどん木よりも高い位置まで飛んでいくにつれて、空気が少し冷たく感じる。どれだけ高く昇ったであろうか。ある程度の高さで師匠は上昇するのを止めた。
「月夜、我の翼の動きをしっかりと見ていたか」
「はい、この目でしかと見ておりました」
貴方から目を離すわけがありませぬと言うと、師匠は面を外した。いつもと違い、優しげに微笑んでいる。本当に美しいお顔だなと見とれていると、信じられない言葉が聞こえた。
「そうか。では手を離すぞ」
「へ……? ………うわああ__!?」
突然手を離されると、身体が一気に降下する。どうしよう。このままでは確実に死ぬではないか。月夜の顔から一気に血の気が引いた。
「月夜、翼を動かせ。我の翼の動きをしかと見たと言ったであろうが」
そう言われても、こんなに急にされても無理だ。身体に叩きつける強風や段々と近づいてくる地面に月夜は肝が縮んで目を瞑る。脳裏に蘇るは、悠々と羽ばたく師匠の翼。それだけではない。温かい腕の中から見た頼りがいのある大きな翼の羽ばたきを鮮明に思い出した。すると背中がかっと熱くなり、翼の感覚が手足のように如実に伝わる。
これを動かせばいいのか。月夜が翼に力を込めると、今まで痛い程当たっていた強風が嘘のように穏やかになった。月夜は恐る恐る目を開ける。視界に広がっていた筈の地面はなく、見えるのは山々の木々。自分が飛んでいることが信じられずにいると、横から師匠の気配がした。
「ちゃんと出来るではないか。よし一旦降りよう」
「はい」
師匠と翼が当たらぬように向かい合わせに手を繋いでゆっくりと降下する。一度翼を動かすことが出来れば、後は自然と師匠の周りの風の動きが手に取るように分かり、師匠の早さに合わせて降下出来る。
地に足をつけた途端、今までの緊張がどっと出て月夜はふらついた。風琴は月夜を受け止めると、その頭を撫でる。
「少し荒療治だとは思ったがよくやった」
「これは少しなのですか……師匠」
下手をしたら死んでいたのではないか。月夜が恨めしげに言うと、風琴は何を言っているのやらと呆れた様子で言った。
「少しだとも。まず我の妖力で地面に叩きつけられても軽傷で済むだろうし、万が一の為に地上では東雲が待機しておったからな」
「そうそう、生まれた時から天狗の俺達もガキの頃に受けた通過儀礼だ。安全には十分考慮しているさ」
師匠も東雲殿もこれを経験しているのか。私などよりも怖かったに違いないな。もう身体も十分大きい私が怖がっている場合ではないなと気を引き締めた。
「月夜、飛ぶコツも掴めたであろうから、一度四半刻ばかり休憩してから練習を再開しようか」
「いいえ、不要です。一刻も早く一人前の天狗になりたいのですから」
「そうか……。なら来い」
師匠は目を細めると、私の手を掴んで空に戻った。
その後は妖力が底を尽きて飛べなくなるまで散々鍛えられた。空を自在に駆け回れるだけの飛び方や、強風に耐えるだけの体幹を鍛え、急降下しても着地の衝撃を抑える方法。気がつけば夕方になっており、私は地べたに倒れ込んだ。
「よし明日は多少剣の手合わせをしても問題なかろう」
師匠は俯せで転がっている私の隣に着地すると、翼を畳んで私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ですが師匠……私はあまり上手く飛べてない気が……」
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「はい!」
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思ったより早かったな。だがあまり早すぎては月夜の力がつかぬまま、危険に晒してしまうのではないか。風琴はそれが心配でならなかった。
「それで、実際に戦うのはいつになる」
「準備などございますから最短で1ヶ月後になるかと」
泰重の言葉に風琴は頭を抱える。天狗にとって1ヶ月後となると瞬きひとつと対して変わらぬ。そんな短時間で準備をせよというのか。
「中々に酷なことを言ってくれるな。それだけ時間がないのか」
「はい……」
風琴が静かに問うと、泰重は顔を青ざめさせながらもまっすぐな目で頷いた。正直な所、断ると言いたいところであるが長老どもだけでなく里の者総意となると断るわけにはいかぬ。風琴は面の下で唇を噛んだ。
「そうなると我には断る権限もないな。ただ、そうなると事情が詳しいものに居てもらって、戦略や対策を綿密に練る必要がある。そこで、天将と退魔師を1名ずつ置いていってもらいたいがどうかね」
「な……!?」
泰重は驚いているようだが、紅月はさして驚いていない。すぐに某が残りましょうと申し出た。
「紅月殿、そんなことして大丈夫なのですか!? 貴方の里は!?」
「里についてはご安心ください。うちの桔梗と念話で里のことを逐一報告してもらって、里への命令の伝達などしておりますので」
それにと我の方を見て紅月は笑う。
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「あ……ああ。なるべく汚さないなら自由に使え」
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「御隠居、お弟子さんのことについてですが、御隠居が出陣している間はお弟子さんをお預かりいたしましょうか」
本当は天狗に成り立ての月夜の為には、そうしてもらった方が有り難いのだろう。だが、義母とその取り巻きが月夜を敵視する可能性が十分ある。
「いや……まだ里に親しい者もいない月夜を置くわけにはいかぬ」
「そうですか……。ですが、いつでもお預かりする所存ではございますので、必要な場合はお声掛けくださいね」
「お心遣い感謝いたす」
風琴は軽く頭を下げると、寝床に戻った。
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「師匠、もしやもう戦いに出られる日が決まったのですか」
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「そんな……」
事の重大さを理解した月夜の瞳が凍りつく。ああ、そんな顔などさせたくなかったんだがな。胸が痛むが、嘘をつく方が酷であろうから仕方ない。しばし顔を伏せて唇を噛んでいたが、顔をゆっくりと上げた。
「師匠、もし紅月殿に勝てたら傍に置いてくださることを考えてくださいませんか」
「流石に最前線は無理だが……紅月にか……。まあ……下界に連れていくのは考えてやらなくもない」
たった1ヶ月で紅月の殺意に克服し勝てるとは思えない。だが頭ごなしに否定すれば、こやつのことだから無理にでもついていきそうだ。ならば無謀な条件を受け入れた方が月夜も諦めがつくだろう。風琴は悩みながらも無謀であろう月夜の提案を飲むことにした。
風琴が眠ってしまうと、月夜は障子越しの月を眺めていた。今の自分では戦場で師匠の傍にいるだけで足手まといになってしまう。いつも厳しい師匠がそれを言わなかったのは、私への配慮故であろう。
私は師匠を抱く側ではあるが、それは師匠が受け入れてくださったからである。本当に嫌だったら容易に師匠は私を殺すことが出来る。それだけ師匠は強いのだ。誰よりも強い貴方の足手まといにはなりたくない。
愛しい貴方から「足手まといだ」ともし言われたら、心が張り裂けてしまいそうだ。
……なのに、貴方を傍で守りたいという思いが込み上げて仕方がない。貴方の翼に届くほど私は高みへと至れないのに、届かない貴方に手を伸ばして腕の中に入れたいと思ってしまうのだ。私には欲求に届く程の実力が無いのに。月夜は拳を握り締める。
師匠は私が紅月殿に敵わないと思っているだろう。紅月殿は蛇神の化身で、人から好かれるような気性であるのに、躊躇いも無く闘う時は殺意を見せる。幼い頃に追われる身になって殺意を受けてきたが、あのような憎悪も欲望も無い殺意など初めて受けた。あの殺意に怯まず、手合わせで勝てる自信など無い。自分で言うのもなんだが、たった1ヶ月で紅月殿に勝とうなど無謀だ。最低でも半年は欲しかった。
それでも貴方を守るためなら、それだけの実力が必要だ。血反吐を吐いてもいい。手が豆だらけになっても構わない。貴方を守れる力が手に入るなら、これまで以上の努力は惜しまない。
月夜はそっと背を向けて眠る風琴を背後から抱きしめた。風琴は起きていないのか、少し呻いただけで寝息が絶えることはない。腕の中に収まるだけの肢体を月夜は辛そうに見下ろす。
強くてもこんなに線が細い貴方を、天狗達は最前線へと追いやろうとしている。東雲殿も行くらしいが、もし東雲殿が離れた場合、師匠が同胞から危害を加えられない保証がどこにある。最前線ならば敵の攻撃と装って、傷つけられる可能性がある。……師匠の同胞を疑ってしまうのはいけないと分かっている。それでも……
「私は……貴方を傷つける彼らが許せない……」
地を這う声で呟く月夜の瞳は雪よりも冷たかった。
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看護師
ベテラン山添さん
準主人公 成海真幌 腸疾患・排泄障害・てんかん
木島 尚久 真幌の恋人同棲中
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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