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友との別れ
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一時的な別れだというのに、こうも胸が苦しくなるのは何故だろう
紅原の元へ帰還した天狗達は、口々に先程の光景について話していた。ただ、あからさまな悪口を言わないのは自分が二の舞になりたくないからである。
そんな同胞を残して、風琴は紅月の部屋に向かった。部屋には騰蛇が控えており、紅月は苦しげな表情を浮かべて眠っていた。やはりかと風琴は溜め息をつく。
「騰蛇殿、紅月は大丈夫なのか」
「大丈夫……ではないな。こいつがやったのは己の器を触媒として、大蛇神の写し身を現世に形作る術。術を行使した途端、血を何度も吐いて苦痛の中気絶した」
騰蛇は重々しい表情で紅月を見下ろす。本当に先程まで血を吐いていたのか、口端に微かに黒くなった血の汚れがあった。
「多少の無理どころではないな。鬼祓いは何人もいるであろう。どうしてこのような真似をした」
「鬼祓いを犠牲にしたくないんだと。それに、これで容易に戦況に片がつくからと。……だからと言って、俺は納得できぬ」
血を吐くように騰蛇は呟やく。それは同意だ。あのような手段を取れば、自分の身体ももたぬし、味方からも敬遠されてしまう。それはとても寂しいのではないか。風琴は舌打ちをした。
「天命までもたぬことがあれば迷惑。ある程度の負荷を癒しましょう」
「何!? いや、貴方は戦場で疲弊しているだろう。そのようなことは」
「だからこやつの天命が歪むと迷惑だと申しているでしょうが。それに、我は友を見捨てる真似はしたくない」
神気で傷ついた身体を修復するとなれば、此方も負荷は避けられない。妖気もそれほど残っておらぬ。ギリギリであるがやってみるしかない。
風琴は紅月の霊力に波長をゆっくり合わせると、術を唱え始めた。
未だに紅月を苛む神気の負荷を此方に流しつつ、妖気で身体を癒していく。
「っ……」
苦痛までは此方に流れぬかと思いきや、これは中々に痛い。だが、閨の快楽のように声を上げる程でもない。
それでもよっぽどの苦痛なのか、風琴の首筋に脂汗が流れる。やがて紅月の表情が僅かに和らぐと、風琴はふらりと傾いだ。
「風琴殿!? おい、風琴殿!」
騰蛇が呼び掛けても、風琴はぐったりと意識を失ったまま。騰蛇は急いで桔梗を呼びに部屋を出た。
「ん……う……」
風琴が目を覚ますと、与えられた部屋にいた。どうして自分は寝ていたんだっけ。内側から針で貫かれるような痛みが苛む中考えていると、視界に月夜の顔が入った。
「師匠……またご無理をなされたようですね」
月夜がむっとした表情で我を睨んでいる。これはまずい。逃げ出したかったが、倦怠感が凄まじくて褥から出られない。
「無理ではない。妖力を使い果たしただけだ。命に別状などない」
「それでも……っ……私は師匠が心配で……。せめて一言くらい言ってくだされば」
月夜は今にも泣きそうな顔になる。しばらく心配させたくなかったのだが、またやってしまったか。紅月を助けたことに後悔はないが、愛しい弟子に辛い思いをさせてしまったことに罪悪感が生じる。
「すまなかったな。お前の言う通り、一言断りを入れておくべきだった」
こやつは絶対反対するだろう。それを振り払って紅月を助けたほうが、多少は月夜の心を痛めることはなかったろうに。そっと月夜の手に触れようとすると、月夜が我の指と己の指を絡めてきた。すると我を苛む痛みが和らぐ。
「次は私にも相談してください」
「……なるべく善処する。ただ、もし相談しなかったらどうする」
月夜は腕を組んでうーんと唸る。そして何か思いついたのか、閨で見せる悪そうな表情で笑った。
「その時は、身勝手な師匠に閨でお仕置きいたします。この間のよりもずっときついのを」
あれよりもきついのをだと!? 風琴はこの間の情交を思い出して、背筋が寒くなる。あれ以上など我には無理だ。絶対に泣いてしまう。そして、月夜に情けない表情を見せてしまうだろう。考えたくもない。
「分かった。ちゃんと相談か報告ぐらいはしよう。月夜、そういえば凩から戦況報告の文はあるか」
「はい預かっております。どうぞ」
月夜は懐から文を出して渡す。それを受け取ると、風琴は目を通した。
「向こうの戦況も苦戦しているようだな。どれ、此方も文を」
「文くらい代筆させな。天狗のご隠居さん」
そう言って桔梗が部屋に入ってくる。彼女が抱える丸盆に載った物から、何やら不味そうな薬の臭いが漂ってきた。思わず「げっ」と声を上げると、月夜と桔梗がふふっと笑った。
臭いの正体は湯飲みの中の薬湯。明らかに味覚が拒否反応を起こしそうな色をしている。
「簡単に言えば、沈痛の作用と滋養強壮、そして妖力の活性化を促す作用がある。あんたのところの薬師と急いで調合した貴重な物だから、一滴も残さず飲むといい」
有り難い薬なのは分かっている。だが、我は苦いものはそれほど好きではない。こういった薬のようなものは苦手だ。風琴は飲むことにしばし躊躇っていたが、桔梗と月夜の痛い程の視線に負けて、面の口元を外す。そして一気に飲み干した。
「うぐっ……まず……い……」
形容し難き不味さに風琴は呻く。とろみを帯びた液体が、舌に苦味を行き渡らせる。不味すぎて目尻から涙まで溢れそうだ。風琴は水の入った湯飲みを月夜から受け取ると、これまた一気に飲み込んだ。
「ところで、紅月はどうなった」
起きてから気になっていたことを桔梗に問うてみる。桔梗は軽く目を見開くと、笑みを浮かべた。
「あんたのお陰で、身体の負荷はかなり取り除かれた。あとは10日くらい様子見というところかね。あんな不味いものを飲ませておいて、こんなことを言うのも何だが……ありがとう」
「ならば次は、もう少し美味い薬を飲ませろ」
不味いという自覚があるならば、多少は改善してほしいものだ。すると、月夜が風琴の肩に手を置いて首を横に振った。
「師匠、私が幼い頃に仰ったではございませぬか。良薬口に苦しと。そんな無茶を言っては駄目ですよ」
風琴は月夜に窘められて、返す言葉もない。むむと呻く風琴の横で、桔梗がきょとんとした表情になった。
「いや、考えなしや相談もしない奴に灸を据えるために、あえてかなーり不味く調合しているだけだけど」
「………」
あえてこんなに不味いのか。つまり桔梗から見て我はそんなに灸を据えたくなる存在なのか。思わず月夜の顔を見ると、月夜は当然ですよと頷いた。
「ちなみに紅月にもこんなに不味い薬を飲ませるのか」
「当然だ。いやむしろこれより苦いかも」
それだけ式神から慕われているということか。だが慕われる証が不味くて堪らない薬というのは少し哀れだな。そう言ってしまえば、桔梗と月夜に説教されかねないので、黙って苦笑するしかなかった。
普通の食事で良いのに、雑炊と漬け物だけであった。
「酒が欲しいのだが、駄目か」
「駄目ですよ。師匠も桔梗殿から安静にと言われたではございませんか。師匠が酔っぱらうことはあまりないでしょうけど、念のためです」
せっかく多少は頑張ったのに酒も無しか。風琴はため息を吐いた。
「まあ、お前の雑炊が食えるだけ良しとしよう。月夜、味付けを変えたようだが、桔梗に言われたか」
「ええ、滋養に良く美味しい野菜や肉などを頂いたので、使わせてもらいました。如何ですか」
如何と言われても、月夜の作るものは何でも美味いのだが。そういう返答もつまらないので、別の言い方を考えた。
「良くできている。ありがとう」
月夜は良かったと安堵の笑みを浮かべる。その笑みを眺めていると、酒が無いことへの不満が薄れていった。
「ところで師匠。次はどちらに向かわれるのです」
「一旦土御門に相談してから決める。もしかすると大宰府くんだりまで足を伸ばさねばならぬかもしれぬし、関ヶ原の外法師や妖どもを叩いて終わりということだって考えられる」
いずれにせよ、怪我をした同胞も多いので、半月後になるやもしれぬな。風琴は外に目を遣る。夜は少し冷えるようになり、木々も徐々に赤や黄に染まりつつある。
「もうすぐ秋か。……正月には帰りたいな」
「そうですね。のんびり餅でも食べたり、鍋を食べたいです」
今年はそうしていたが、来年はどうなるだろうか。暖を取りたいと称して閨で抱かれはしまいかなどと考えてしまう。
「月夜、酒を飲まぬ代わりに口づけくらいさせろ」
「師匠ったらいきなり何を仰るのですか! ……仕方ないですね」
月夜は少し頬を紅潮させると、我を引き寄せて口づけを施す。安静にと言われたので情交は出来ない。情交に踏み出したい欲求を耐えつつ、互いに深く舌を絡める。指まで絡めて、しばし互いの温もりを貪ることにした。
数日して部屋を出るのが許されたが、少しだけ気だるさもある。紅月の見舞いを軽くした後に土御門の元に行こうか。風琴が紅月の部屋に近づくと、何やら女が怒る声が聞こえた。
「貴方って人は、どうしてそう無理をなさるのですか!天狗の方が親切になさっていなかったら、どうなっていたことか!」
「そうは仰いますが、これは犠牲を最小限に済ませるには最適だったのです。某はこのようなことには慣れておりますので」
すると、パシンと高らかに何かを打つ音が聞こえた。少し後に紅月の呻き声が聞こえる。
「大丈夫な訳ないでしょう! どうして貴方は強がるのですか!」
女は怒鳴った後、嗚咽を溢し始めた。まあ、悪いのは紅月だ。きっとこの女に言っていなかったのだろう。痴話喧嘩に巻き込まれても困るので、風琴はそっと部屋から離れようとした。
「風琴殿、わざわざいらっしゃってくださったのに、お戻りにならないでくださいな。某は寂しくて泣いてしまいまする」
痴話喧嘩に我を無理矢理巻き込む気か。風琴は内心舌打ちしつつ、紅月の部屋の障子に手をかけた。
そこにいたのは褥から半身だけ起き上がっている紅月と、すっと背を伸ばした美しく気の強そうな女。
女の目元は赤くなっており、今まで泣いていたことが良く分かる。一方紅月は笑ってはいるが、片方の頬を打たれたせいか、赤く腫れていた。
「天狗殿ですか? 申し訳ございません、お見苦しいところをお見せしてしまいました」
「構わぬ。ところで、おぬしは例の……」
すると女の代わりに紅月が頷いた。
「そうですよ。某の許嫁の千代殿です」
千代とな。こんなことを思うのは何だが、紅月よりも遥かに長生きしそうな名前だなと思ってしまう。
「千代というのか。紅月には勿体ない程の良い許嫁ではないか」
「そうですよ。羨ましいでしょう」
紅月は千代を見て穏やかに微笑む。我と紅月の言葉に、照れたのだろう。千代の顔が赤く染まった。
「ごほん、私のことはよいのです。天狗殿、此度は我が許嫁を助けてくださり、有り難うございます」
千代は我に向かって三つ指をついて、優雅に頭を下げた。そこまでのことをされる覚えなどないのだが。風琴は千代に顔を上げるように言った。
「我も少し前に紅月に助けられたのだ。一々礼など言わなくてよい」
「そうは仰いますが貴方は我が許嫁の恩人です。何かお礼ぐらいはさせてください」
本当に何も要らないのだが。風琴は困惑する。他人の女に興味はないし、物欲もない。そんな風琴の様子を見かねたのか、紅月が口を開いた。
「そうだ。千代殿、あれをお作りすることが出来ますでしょう? 風琴殿は甘味が好きだから気に入りますよ」
「ああ、あれですね! あれでしたらお気に召されると思います」
あれとは何だろうか。風琴が首を傾げる。紅月はにっこりと笑いながら、口許に人差し指を立てた。
「風琴殿、今日は土御門の元に行かれるのでしょう。帰ってからのお楽しみですよ」
益々気になる。2人の話からすれば、甘い何かなのだろう。それくらいだったら受け取ってやらぬこともない。
「分かった。帰ってからの楽しみに辛抱するとしよう。紅月、土御門に言伝てはないか」
「うーん。特にお伝えすることはございませんが……いや、一刻も早く騰蛇との正式な契約を結びたいと申していたとだけお伝えください」
そんなに騰蛇との契約を結びたいか。紅月の思惑は読めぬが、悪いことではあるまい。
「承知した。では行ってくる。……千代とやら。こやつが悪いが、頬を冷やしてやれ。頭領たるもの、引っ叩かれた跡があっては威厳がなかろう」
「そうですね。有り難うございます」
頭を下げる二人を背にして、風琴は部屋から出た。
東雲に同胞を任せ、月夜と涼太を供として土御門邸に向かう。術師や我らの頑張りが功を奏したのだろうか。道中は何ともなく、無事に着くことが出来た。
「天狗の方々よくぞお越しくださいました。さあ中にどうぞ」
戸を開いて優雅に一礼したのは、一人の女であった。大陸の衣を纏い、結い上げた空色の髪を風に靡かせている。水気からして、玄武か天后といったところか。
「ああ、よろしく頼む」
女は微笑を浮かべて会釈すると、久脩の部屋に通した。久しぶりに見た久脩の顔は……まあ哀れな程疲れている様子である。顔色は悪く、目に隈が出来ている。
「風琴殿にはご足労おかけしてすみませぬ」
「いや、それはよいのだが。貴様は大丈夫なのか。死相こそ無いが、今にも死にそうな顔をしているぞ」
「大丈夫ですよ。ただ……助力頂いている者達に指示を出したり、あちらこちらに赴いているだけですから」
大丈夫と言っておきながら、表情に説得力がない。風琴は懐から、酒と丸薬を取り出した。
「桔梗という妖狐がお前に渡してくれと言っておった。恐らくは滋養の薬であろうな」
「なんと……有難うございます。桔梗殿にも感謝の意をお伝えしてくだされば幸いです」
妖狐を見下すものと思っていたが、逆に感激しているようである。一体どのような関係なのか。気になったが、本題から話題が逸れそうなので止めておこう。久脩が横にそれらを置いたのを確認して口を開く。
「伊賀と玻璃野は終わったが、次は何処へ行けば良い? 大宰府までだと面倒だが」
「その心配はございません。風琴殿達が助力されていると聞いて、英彦山の天狗が彼方の術師達と共に戦ってくださっています」
そう言えば、彼方にも天狗はおったな。我らの戦いによって他の天狗も奮い立ってくれているのは嬉しい。風琴は少し照れ臭くなった。
「ではどうするのだ。関ヶ原に向かうか?」
「関ヶ原に向かわれるのは20日後がよろしいかと。大勢の術師で敵陣を囲んでいる間に、上空から攻めて頂きたいと思っております」
20日後か。思った以上に先だな。だが、慎重に準備をする必要があるのだろう。仕方ないと風琴は腕を組んだ。
「承知したが、我々はその間何をすれば良い?」
「紅原が無理をしたと聞き及んでいますので、玻璃野の周辺を飛んで頂けると幸いです。あの者が動けないのは、まずい状況ですので」
久脩が苦い顔をして答える。ほら、久脩にもこう言われているぞと紅月に言ってやりたくなるが、それは帰ってからにしよう。
「ところで、紅月が一刻も早く正式な契約を結びたいと言っておったが、何か準備でもあるのか」
すると久脩は首を縦に振った。
「土御門の血を引く者が承認する必要があるかと。ただ、それをするには契約を結ぶ術師と天将も同席する必要がございます。ですので……さっさと身体を治してから来いとお伝えください。我々は忙しいので、彼方に赴くのがいつになるかは分かりませぬ故」
久脩が苦い表情を浮かべている。もし紅月が目の前にいたら説教のひとつくらいはしていたであろう。紅月の行動は後先を考えなさすぎるし、そもそも周りを心配させているのだ。
「伝えておこう。では失礼した」
早く帰ってゆっくりしたい。風琴が立ち上がろうとすると、久脩が慌てて止めた。
「風琴殿、ひとつお聞きしたいのですが、幼少期に人間に遭遇したことはございますか」
一瞬、我が呪詛で倒れた話を盛らされたかと思ったが、表情から察するに違うようだ。風琴はほっと胸を撫で下ろす。
「会ったことはあるかもしれぬが、我の記憶にはない。どうした」
「いいえ。何でもございません。有り難うございました」
風琴は怪訝に思いつつも、大したことなどないと判断する。風琴が邸を出ると、久脩の傍に青年が現れた。憂いを帯びた桔梗色の瞳は、風琴の後を追うように遠くを見ている。
「恐らくあの者だろうな。あやつが最後に救ったのは」
「可能性は低くないでしょうね」
青年に同情するように、久脩は青年を見上げていた。
風琴は皆の労いに酒と菓子を買ってから紅月の元に戻る。
月夜達に菓子を皆に分け与えるように指示をしてから、風琴は紅月の部屋に向かう。酒は宴会の席で振る舞うようにするつもりだが、今回の功労者である紅月は宴に出られぬであろう。皆とは別に一本坂瓶を買ったが、飲めるだろうか。風琴が障子を開く。部屋では紅月は書物を読みながら、横になっていた。
「お帰りなさいませ。土御門殿はどうでしたか」
「疲れているのか顔色が悪かったな。桔梗殿から丸薬を持たされて正解だった」
「あの人は某以上に疲れておりますものね。貴族だからってふんぞり返らず、懸命に奔走する姿には頭が上がりませんよ」
紅月は苦笑する。人の世俗には疎いが、紅月の言う通り、権力に胡座をかかず、頑張る姿は褒めてやっても良いだろうとは思う。
「あやつもお前も頑張るのは良いが無理はするなよ。見ているこっちが胆を冷やされる」
「その言葉をそっくりそのまま返させて頂きますよ風琴殿」
紅月の言葉に風琴は思わずむっとした。だが、数日前に月夜を泣かせてしまったのは事実。反論も出来ずに睨むしかない。
「すみませぬ。言い過ぎましたね。丁度あれも出来ておりますし、それで機嫌を直してくださいな」
だかれあれとは何だ。風琴が言いかけた時、鼻腔に甘い匂いが届いた。何だこれは。嗅いだことのない匂いに首を傾げていると、千代が障子を開いた。千代が持ってきた盆の上には、皿に載った茶色と黄色の菓子のような物と茶碗がある。
「ちょっと焦げちゃいましたけど何とか上手くいきました」
確かに焦げているが、そのようなことは甘い匂いに比べて気にならない。
「焦げなど気にはせぬ。それよりこれは何だ」
「かすていら……を見よう見まねで作ったものです。我が許嫁は気に入ってくれましたが、天狗……いえ風琴殿のお口に合えばよろしいのですが……」
珍妙な名称からして海の外の国から持ち込まれたものか。それにしても旨そうな……。風琴は思わず菓子を凝視してしまった。
「はい、どうぞ召し上がれ」
比較的、焦げの少ない綺麗な部分を切り分けて渡される。風琴は受け取って面の口元を外すと、恐る恐る口にした。
「……どうですか?」
「風琴殿、南蛮の菓子なのですが、お口に合いますか?」
紅月と千代は、何も言わず無言で食べる風琴に問う。風琴は茶で菓子を流し込むと、口を開いた。
「確かに美味い。正直、このように甘い物を食べたのは初めてだ。何を使っているんだ」
「小麦粉、砂糖、それに玉子ですね」
砂糖と玉子は確か、かなり高価ではなかったか。いまいち紅原の金銭事情が分からぬ故、無理な気遣いをさせてしまったのではと考えてしまう。
「大丈夫なのか。こんなに高価な物を用意して」
「大丈夫ですよ。こんなご時世ですので、護符を売り捌いたり、国を守ったことで上からたんまりと銭はいただいておりますので」
大蛇の分御霊の護符などすぐに無くなってしまうほど売れているのであろうな。心配して少し損をしたと思ってしまう。
「好意は有り難いが、残りの半分はお前達が食え。滋養の薬にもなるのだろう」
「よくお分かりになられましたね。滋養の薬とも言われておりますよ。では有り難く頂きます。千代殿、風琴殿の分を紙に包んでください」
千代は頷くと、手際よく残りの半分を紙に包む。風琴はそれを眺めながら、早く月夜に食べさせてやりたいと思った。
「日持ちするか怪しいので、なるべく今日中に召し上がられてください」
「分かった。千代殿のかすていらを有り難く頂こう」
そう言うと、風琴はかすていら片手に部屋を出ようとする。だがひとつ伝言を頼まれたのを思い出した。
「お前の騰蛇との契約の件についてだが、身体を治してから出向けだと。」
「そうですか……。京に出向けるように、早く身体を治さねばなりませんね」
「当たり前だ。早う元気な姿を見せてやれ。お前には床は似合わん」
風琴はそう言い残すと、部屋を出た。それを見送った千代は口を開く。
「風琴殿に気に入られているようですね」
「そうですね。まあ、あの方のお弟子さんには遠く及びませぬが。ですが光栄なことですよ」
紅月の口元は知らず知らずの内に緩んでいた。
風琴が部屋に戻ると、月夜が控えていた。もう菓子は配り終えたのか。思ったよりは早かったが、少し疲れている様子である。
「月夜、疲れたか」
「はい……皆さん、よっぽど甘いものが欲しかったようです。一気に大勢で来られたので少し疲れてしまいました」
「戦に間隔があるとはいえ、日々の鍛練などに励んで娯楽や甘味などに乏しいからな。仕方あるまいよ」
予想通りであったがそこまでとは。ただ、此処は人間どもの目がある。菓子にがっつくといった、天狗として情けない姿など止めてほしいのだが。後で説教でもするか。そのようなことを考えながら、手の中にある包み紙を開く。
「先程、紅月の許嫁が焼いたものを貰ったがいるか」
「かすていらですか! 懐かしいですね。頂いてもよろしいのですか!?」
なんだ知っていたのか。驚かせようと思ったので、少し残念だ。だが、月夜の出自としては知っていてもおかしくないのかもしれない。詳しいことはまだ打ち明けてもらっていないが。
「当たり前だ。美味かったから分け合いたいと思ったのだ」
月夜は目を輝かせながら、我とかすていらを交互に見る。そこまで感激しなくても良いだろうに。こやつは変わらぬなあ。思わず、にやけそうになる。
「せっかくなのでお茶を貰ってきますね。少しお待ちください」
月夜は立ち上がると、早足で茶を取りに行った。その間に小刀で切り分ける。我は先程食べたので月夜には多めに切るか。ふわふわした食い物を切り分けるのはあまりないので、慎重に切り分ける。そこに月夜が戻ってきた。
「戻ってきたか。はい、お前の分だ」
大きい方を月夜にやったが、何故か月夜はむっとしている。どうしてなのだろう。我が首を傾げていると、月夜は首を横に振った。
「弟子の身分でありながら、師匠より大きいのはおかしいと思います。師匠は甘味がお好きなのですから、大きい方をお食べください」
「我はさっき食べたのだ。お前こそ遠慮するな」
それから譲り合いが繰り返される。どちらも譲る気は無かったが、やがて月夜が折れた。
「分かりました。ですが、これは多すぎます。師匠、もう少しだけ受け取ってください」
「仕方無い。少しだけもらうぞ。ってなんだその手は」
月夜は己のかすていらの一部を切り分けると、菓子切りで刺して我の口元に近づける。月夜は頬を赤くしながら口を開いた。
「たまには恋人のように『あーん』などをしたくて」
「お前……ああ、もう。今回だけだぞ」
閨では獣のくせに、こういうところは初な青年だ。可愛らしくて仕方がない。風琴も頬を紅潮させながら、口を開く。月夜の手で食べさせてもらうのは恥ずかしかったが、紅月の部屋で食べた時よりも甘く感じた。
10日程経つが、今のところは大きな事変など無い。ただ、少数ではあるがちらほらと沸きつつある。紅月に話すと、彼は溜め息をついた。
「沸き所というのは、異界への道です。封印や潰しを行ったとは言え、一度開かれた道は中々完全に閉鎖しようがないのが問題なんですよねえ」
「つまり、しらみ潰しになると言うのか」
「はい。一気に全部閉じてしまうと、別の場所に皺寄せが来る。人を殺める妖なんぞは、平安の頃にも大量にいたわけですから、沈静化するには、まあ100年単位はかかるでしょう」
土御門が言うには、今回のことで霊脈も穢れて使えなくなったのが日ノ本で多数あるという。天から落ちた雫が地に染みて湧き水になるのに長い年月がかかる。それ以上にかかるかもしれぬな。まあ、それは我らの専門外だが。
「そんなことは未来の世代に任せましょう。将来のことは分かりませぬが」
「そこは我が見に来るから心配するな。まあ女は紹介してやれぬがな」
すると紅月はいやいやと手を振る。
「某の子孫ですよ。許嫁に困ることは無いでしょう。もしかすると土御門の血を引くものを伴侶としたり、大名の血筋の者を娶るやもしれません」
大きく出たことを言っておるな。人間は身分関係には厳しいのだから、難しいだろうが。思わず呆れてしまう。だが、無くはないかもしれないと何故か思ってしまった。
「そういえば、風琴殿は子はいらぬのですか」
「既に我の傍に大きな子がおるであろう。もう子などいらぬ」
腹違いの弟と争わぬためにも、子は成さないと決めた。それに、我が寝る間も惜しんで看病し、手塩にかけて育てたのは、月夜以外にいない。これからも月夜以外に現れることなどないだろう。
「そうでしたね。戦は十日切りましたし、今に内にそのお子さんを甘やかしてあげてくださいな」
「言われなくてもそうする」
互いに無事でありたいとは思うが、そうはならないのが戦だ。今の内に月夜に精一杯愛情を注いでやろうと心に決めた。
だが、戦の前と言えば戦略を練ることだ。土御門や紅月と話し合っている間に、気づけばあと5日になっていた。明後日の昼には出立して、関ヶ原付近の陣に行かなければならない。おい我よ、一体何をやっているのだ。風琴は自分で自分を叱る。いや、それよりも甘やかすとは何をすれば良いのか。「あーん」というやつか。……我は恥ずかしくて、そのようなことは出来ぬぞ。なれば、情交か。まあ情交は今夜辺りにもやって良いが、それはいつも通りだしなあ。そんなことを考えていると、凩の元から月夜と涼太が戻ってきた
「師匠、ただいま戻りました。こちら、凩殿からの文です」
「ああ、2人とも有り難う。涼太は下がって休むと良い」
「はっ。ではご隠居、失礼いたしました」
涼太は一礼して部屋から出る。足音が聞こえなくなったのを確認すると、そっと月夜に目を遣った。
「なあ、月夜」
「何ですか、師匠」
思わず声をかけたが、何をすればいいか思い浮かばぬ。悩んでいたが、あることがちらりと頭に過った。
「その……膝枕……してやろうか……?」
月夜と目を合わせないまま、聞いてみる。流石にこのようなことを目を合わせて言えるわけが無かろう。月夜の返答を待っていたが、静かなままだ。どうしたのだろうかとちらりと見る。月夜は固まったまま、此方を凝視していた。
「月夜、大丈夫か……?」
「あっ……いえ……大丈夫です。膝枕とは……その……よろしいのですか……?」
今は面を被っているから分かりづらいが、きっと顔は真っ赤になっているのだろう。風琴は己の面を取って頷いた。
「2度も言わせるな。良いに決まっておろうが」
膝を叩いて寝るように促す。月夜は恐る恐る近づくと、我の膝にゆっくりと頭を乗せた。月夜の面を外してやると、予想通り赤くなっている。
「どうだ。……その、この位置だと股間に当たりかねんな」
「私としてはその方が……いえ、大丈夫ですよ」
月夜は笑うと我の顔を見上げた。
「えへへ。やっぱり少し固いですけど、幸せです」
「女のようにしなやかではないからな。まあお前が幸せなら良い」
こやつの声が変わる前は、よく縁側で膝枕をしたものだ。月夜の頭を撫でてやるうちに、月夜がすやすや寝息を立てる。こうやって寝顔を見るのも良いものだな。風琴は東雲が部屋に来るまでの間、月夜の寝顔を眺め続けていた。
時間が経つのは早いもので、気がつけば出立の日となっていた。紅月達は先陣を切るわけではないので、我達が出立してから出るらしい。騰蛇殿や桔梗殿などに挨拶を済ませてから、紅月に別れを告げる。
「では風琴殿、お元気で」
「ああ、お前もな」
紅月はええと笑みを浮かべる。あれから紅月は起き上がれるようにはなったものの、本調子ではないという。そんな奴を戦場に立たせて良いものか。
そう思ったが、どうやら鬼祓い達も考えは同じようで、今回は指揮を取るのみ以外の仕事を禁止されたらしい。鬼祓い達が、頭にのみ重責を任せてのうのうと生きている連中でなかったことに安堵した。
「風琴殿、不吉な相が濃くなっておりますので、ご注意をば」
そのようなことを耳打ちしてくる。以前言われたのは、溺れる前だったのでとっくに終わったかと思いきや違うとは。へらへらしているが、我を気遣ってくれるのには感謝しかない。
「胆に命じておこう。さらば、我が友」
同じように小声で言う。紅月は両目を見開いて、口をぽかんと開けていたが、やがていつもの怪しい笑みに戻った。
「天狗様方、ご武運を」
紅月の言葉に背を押されるように、地を蹴って空をかける。まるで渡り鳥のように見える程小さくなったのを紅月は見守る。
「友か……ふふっ……直接言われると嬉しいものだな。今度は花見をしながら酒を飲みたい」
紅月の本音を紡ぐ声はあまりに小さく、隣にいる騰蛇にしか届かない。騰蛇は目を細めると、紅月の肩に手を置いた。
我が振り返ると、紅月の姿は砂粒程度にしか見えぬ程遠ざかっていた。何、一時の別れだ。また遠くないうちに会える。そんな筈なのに、何故か胸が苦しい。今生の別れでもないだろうに、我はどうしたのだ。
「風琴どうした」
我の様子を感じ取った東雲が心配そうに問う。我は何でもないと答えた。
「それにしても、もうそろそろ秋だなあ」
「栗でも飯に混ぜて食いたいな」
「我に作れと言うのか」
「お前の作る栗ご飯美味いだろ。あと鍋も食いたいなあ」
欲張りめと風琴が東雲の肩を叩くと、東雲は笑い声を上げる。他の天狗達も風琴や東雲のようにくだらない話をしながら、術師達の陣を目指して飛ぶのだった。
紅原の元へ帰還した天狗達は、口々に先程の光景について話していた。ただ、あからさまな悪口を言わないのは自分が二の舞になりたくないからである。
そんな同胞を残して、風琴は紅月の部屋に向かった。部屋には騰蛇が控えており、紅月は苦しげな表情を浮かべて眠っていた。やはりかと風琴は溜め息をつく。
「騰蛇殿、紅月は大丈夫なのか」
「大丈夫……ではないな。こいつがやったのは己の器を触媒として、大蛇神の写し身を現世に形作る術。術を行使した途端、血を何度も吐いて苦痛の中気絶した」
騰蛇は重々しい表情で紅月を見下ろす。本当に先程まで血を吐いていたのか、口端に微かに黒くなった血の汚れがあった。
「多少の無理どころではないな。鬼祓いは何人もいるであろう。どうしてこのような真似をした」
「鬼祓いを犠牲にしたくないんだと。それに、これで容易に戦況に片がつくからと。……だからと言って、俺は納得できぬ」
血を吐くように騰蛇は呟やく。それは同意だ。あのような手段を取れば、自分の身体ももたぬし、味方からも敬遠されてしまう。それはとても寂しいのではないか。風琴は舌打ちをした。
「天命までもたぬことがあれば迷惑。ある程度の負荷を癒しましょう」
「何!? いや、貴方は戦場で疲弊しているだろう。そのようなことは」
「だからこやつの天命が歪むと迷惑だと申しているでしょうが。それに、我は友を見捨てる真似はしたくない」
神気で傷ついた身体を修復するとなれば、此方も負荷は避けられない。妖気もそれほど残っておらぬ。ギリギリであるがやってみるしかない。
風琴は紅月の霊力に波長をゆっくり合わせると、術を唱え始めた。
未だに紅月を苛む神気の負荷を此方に流しつつ、妖気で身体を癒していく。
「っ……」
苦痛までは此方に流れぬかと思いきや、これは中々に痛い。だが、閨の快楽のように声を上げる程でもない。
それでもよっぽどの苦痛なのか、風琴の首筋に脂汗が流れる。やがて紅月の表情が僅かに和らぐと、風琴はふらりと傾いだ。
「風琴殿!? おい、風琴殿!」
騰蛇が呼び掛けても、風琴はぐったりと意識を失ったまま。騰蛇は急いで桔梗を呼びに部屋を出た。
「ん……う……」
風琴が目を覚ますと、与えられた部屋にいた。どうして自分は寝ていたんだっけ。内側から針で貫かれるような痛みが苛む中考えていると、視界に月夜の顔が入った。
「師匠……またご無理をなされたようですね」
月夜がむっとした表情で我を睨んでいる。これはまずい。逃げ出したかったが、倦怠感が凄まじくて褥から出られない。
「無理ではない。妖力を使い果たしただけだ。命に別状などない」
「それでも……っ……私は師匠が心配で……。せめて一言くらい言ってくだされば」
月夜は今にも泣きそうな顔になる。しばらく心配させたくなかったのだが、またやってしまったか。紅月を助けたことに後悔はないが、愛しい弟子に辛い思いをさせてしまったことに罪悪感が生じる。
「すまなかったな。お前の言う通り、一言断りを入れておくべきだった」
こやつは絶対反対するだろう。それを振り払って紅月を助けたほうが、多少は月夜の心を痛めることはなかったろうに。そっと月夜の手に触れようとすると、月夜が我の指と己の指を絡めてきた。すると我を苛む痛みが和らぐ。
「次は私にも相談してください」
「……なるべく善処する。ただ、もし相談しなかったらどうする」
月夜は腕を組んでうーんと唸る。そして何か思いついたのか、閨で見せる悪そうな表情で笑った。
「その時は、身勝手な師匠に閨でお仕置きいたします。この間のよりもずっときついのを」
あれよりもきついのをだと!? 風琴はこの間の情交を思い出して、背筋が寒くなる。あれ以上など我には無理だ。絶対に泣いてしまう。そして、月夜に情けない表情を見せてしまうだろう。考えたくもない。
「分かった。ちゃんと相談か報告ぐらいはしよう。月夜、そういえば凩から戦況報告の文はあるか」
「はい預かっております。どうぞ」
月夜は懐から文を出して渡す。それを受け取ると、風琴は目を通した。
「向こうの戦況も苦戦しているようだな。どれ、此方も文を」
「文くらい代筆させな。天狗のご隠居さん」
そう言って桔梗が部屋に入ってくる。彼女が抱える丸盆に載った物から、何やら不味そうな薬の臭いが漂ってきた。思わず「げっ」と声を上げると、月夜と桔梗がふふっと笑った。
臭いの正体は湯飲みの中の薬湯。明らかに味覚が拒否反応を起こしそうな色をしている。
「簡単に言えば、沈痛の作用と滋養強壮、そして妖力の活性化を促す作用がある。あんたのところの薬師と急いで調合した貴重な物だから、一滴も残さず飲むといい」
有り難い薬なのは分かっている。だが、我は苦いものはそれほど好きではない。こういった薬のようなものは苦手だ。風琴は飲むことにしばし躊躇っていたが、桔梗と月夜の痛い程の視線に負けて、面の口元を外す。そして一気に飲み干した。
「うぐっ……まず……い……」
形容し難き不味さに風琴は呻く。とろみを帯びた液体が、舌に苦味を行き渡らせる。不味すぎて目尻から涙まで溢れそうだ。風琴は水の入った湯飲みを月夜から受け取ると、これまた一気に飲み込んだ。
「ところで、紅月はどうなった」
起きてから気になっていたことを桔梗に問うてみる。桔梗は軽く目を見開くと、笑みを浮かべた。
「あんたのお陰で、身体の負荷はかなり取り除かれた。あとは10日くらい様子見というところかね。あんな不味いものを飲ませておいて、こんなことを言うのも何だが……ありがとう」
「ならば次は、もう少し美味い薬を飲ませろ」
不味いという自覚があるならば、多少は改善してほしいものだ。すると、月夜が風琴の肩に手を置いて首を横に振った。
「師匠、私が幼い頃に仰ったではございませぬか。良薬口に苦しと。そんな無茶を言っては駄目ですよ」
風琴は月夜に窘められて、返す言葉もない。むむと呻く風琴の横で、桔梗がきょとんとした表情になった。
「いや、考えなしや相談もしない奴に灸を据えるために、あえてかなーり不味く調合しているだけだけど」
「………」
あえてこんなに不味いのか。つまり桔梗から見て我はそんなに灸を据えたくなる存在なのか。思わず月夜の顔を見ると、月夜は当然ですよと頷いた。
「ちなみに紅月にもこんなに不味い薬を飲ませるのか」
「当然だ。いやむしろこれより苦いかも」
それだけ式神から慕われているということか。だが慕われる証が不味くて堪らない薬というのは少し哀れだな。そう言ってしまえば、桔梗と月夜に説教されかねないので、黙って苦笑するしかなかった。
普通の食事で良いのに、雑炊と漬け物だけであった。
「酒が欲しいのだが、駄目か」
「駄目ですよ。師匠も桔梗殿から安静にと言われたではございませんか。師匠が酔っぱらうことはあまりないでしょうけど、念のためです」
せっかく多少は頑張ったのに酒も無しか。風琴はため息を吐いた。
「まあ、お前の雑炊が食えるだけ良しとしよう。月夜、味付けを変えたようだが、桔梗に言われたか」
「ええ、滋養に良く美味しい野菜や肉などを頂いたので、使わせてもらいました。如何ですか」
如何と言われても、月夜の作るものは何でも美味いのだが。そういう返答もつまらないので、別の言い方を考えた。
「良くできている。ありがとう」
月夜は良かったと安堵の笑みを浮かべる。その笑みを眺めていると、酒が無いことへの不満が薄れていった。
「ところで師匠。次はどちらに向かわれるのです」
「一旦土御門に相談してから決める。もしかすると大宰府くんだりまで足を伸ばさねばならぬかもしれぬし、関ヶ原の外法師や妖どもを叩いて終わりということだって考えられる」
いずれにせよ、怪我をした同胞も多いので、半月後になるやもしれぬな。風琴は外に目を遣る。夜は少し冷えるようになり、木々も徐々に赤や黄に染まりつつある。
「もうすぐ秋か。……正月には帰りたいな」
「そうですね。のんびり餅でも食べたり、鍋を食べたいです」
今年はそうしていたが、来年はどうなるだろうか。暖を取りたいと称して閨で抱かれはしまいかなどと考えてしまう。
「月夜、酒を飲まぬ代わりに口づけくらいさせろ」
「師匠ったらいきなり何を仰るのですか! ……仕方ないですね」
月夜は少し頬を紅潮させると、我を引き寄せて口づけを施す。安静にと言われたので情交は出来ない。情交に踏み出したい欲求を耐えつつ、互いに深く舌を絡める。指まで絡めて、しばし互いの温もりを貪ることにした。
数日して部屋を出るのが許されたが、少しだけ気だるさもある。紅月の見舞いを軽くした後に土御門の元に行こうか。風琴が紅月の部屋に近づくと、何やら女が怒る声が聞こえた。
「貴方って人は、どうしてそう無理をなさるのですか!天狗の方が親切になさっていなかったら、どうなっていたことか!」
「そうは仰いますが、これは犠牲を最小限に済ませるには最適だったのです。某はこのようなことには慣れておりますので」
すると、パシンと高らかに何かを打つ音が聞こえた。少し後に紅月の呻き声が聞こえる。
「大丈夫な訳ないでしょう! どうして貴方は強がるのですか!」
女は怒鳴った後、嗚咽を溢し始めた。まあ、悪いのは紅月だ。きっとこの女に言っていなかったのだろう。痴話喧嘩に巻き込まれても困るので、風琴はそっと部屋から離れようとした。
「風琴殿、わざわざいらっしゃってくださったのに、お戻りにならないでくださいな。某は寂しくて泣いてしまいまする」
痴話喧嘩に我を無理矢理巻き込む気か。風琴は内心舌打ちしつつ、紅月の部屋の障子に手をかけた。
そこにいたのは褥から半身だけ起き上がっている紅月と、すっと背を伸ばした美しく気の強そうな女。
女の目元は赤くなっており、今まで泣いていたことが良く分かる。一方紅月は笑ってはいるが、片方の頬を打たれたせいか、赤く腫れていた。
「天狗殿ですか? 申し訳ございません、お見苦しいところをお見せしてしまいました」
「構わぬ。ところで、おぬしは例の……」
すると女の代わりに紅月が頷いた。
「そうですよ。某の許嫁の千代殿です」
千代とな。こんなことを思うのは何だが、紅月よりも遥かに長生きしそうな名前だなと思ってしまう。
「千代というのか。紅月には勿体ない程の良い許嫁ではないか」
「そうですよ。羨ましいでしょう」
紅月は千代を見て穏やかに微笑む。我と紅月の言葉に、照れたのだろう。千代の顔が赤く染まった。
「ごほん、私のことはよいのです。天狗殿、此度は我が許嫁を助けてくださり、有り難うございます」
千代は我に向かって三つ指をついて、優雅に頭を下げた。そこまでのことをされる覚えなどないのだが。風琴は千代に顔を上げるように言った。
「我も少し前に紅月に助けられたのだ。一々礼など言わなくてよい」
「そうは仰いますが貴方は我が許嫁の恩人です。何かお礼ぐらいはさせてください」
本当に何も要らないのだが。風琴は困惑する。他人の女に興味はないし、物欲もない。そんな風琴の様子を見かねたのか、紅月が口を開いた。
「そうだ。千代殿、あれをお作りすることが出来ますでしょう? 風琴殿は甘味が好きだから気に入りますよ」
「ああ、あれですね! あれでしたらお気に召されると思います」
あれとは何だろうか。風琴が首を傾げる。紅月はにっこりと笑いながら、口許に人差し指を立てた。
「風琴殿、今日は土御門の元に行かれるのでしょう。帰ってからのお楽しみですよ」
益々気になる。2人の話からすれば、甘い何かなのだろう。それくらいだったら受け取ってやらぬこともない。
「分かった。帰ってからの楽しみに辛抱するとしよう。紅月、土御門に言伝てはないか」
「うーん。特にお伝えすることはございませんが……いや、一刻も早く騰蛇との正式な契約を結びたいと申していたとだけお伝えください」
そんなに騰蛇との契約を結びたいか。紅月の思惑は読めぬが、悪いことではあるまい。
「承知した。では行ってくる。……千代とやら。こやつが悪いが、頬を冷やしてやれ。頭領たるもの、引っ叩かれた跡があっては威厳がなかろう」
「そうですね。有り難うございます」
頭を下げる二人を背にして、風琴は部屋から出た。
東雲に同胞を任せ、月夜と涼太を供として土御門邸に向かう。術師や我らの頑張りが功を奏したのだろうか。道中は何ともなく、無事に着くことが出来た。
「天狗の方々よくぞお越しくださいました。さあ中にどうぞ」
戸を開いて優雅に一礼したのは、一人の女であった。大陸の衣を纏い、結い上げた空色の髪を風に靡かせている。水気からして、玄武か天后といったところか。
「ああ、よろしく頼む」
女は微笑を浮かべて会釈すると、久脩の部屋に通した。久しぶりに見た久脩の顔は……まあ哀れな程疲れている様子である。顔色は悪く、目に隈が出来ている。
「風琴殿にはご足労おかけしてすみませぬ」
「いや、それはよいのだが。貴様は大丈夫なのか。死相こそ無いが、今にも死にそうな顔をしているぞ」
「大丈夫ですよ。ただ……助力頂いている者達に指示を出したり、あちらこちらに赴いているだけですから」
大丈夫と言っておきながら、表情に説得力がない。風琴は懐から、酒と丸薬を取り出した。
「桔梗という妖狐がお前に渡してくれと言っておった。恐らくは滋養の薬であろうな」
「なんと……有難うございます。桔梗殿にも感謝の意をお伝えしてくだされば幸いです」
妖狐を見下すものと思っていたが、逆に感激しているようである。一体どのような関係なのか。気になったが、本題から話題が逸れそうなので止めておこう。久脩が横にそれらを置いたのを確認して口を開く。
「伊賀と玻璃野は終わったが、次は何処へ行けば良い? 大宰府までだと面倒だが」
「その心配はございません。風琴殿達が助力されていると聞いて、英彦山の天狗が彼方の術師達と共に戦ってくださっています」
そう言えば、彼方にも天狗はおったな。我らの戦いによって他の天狗も奮い立ってくれているのは嬉しい。風琴は少し照れ臭くなった。
「ではどうするのだ。関ヶ原に向かうか?」
「関ヶ原に向かわれるのは20日後がよろしいかと。大勢の術師で敵陣を囲んでいる間に、上空から攻めて頂きたいと思っております」
20日後か。思った以上に先だな。だが、慎重に準備をする必要があるのだろう。仕方ないと風琴は腕を組んだ。
「承知したが、我々はその間何をすれば良い?」
「紅原が無理をしたと聞き及んでいますので、玻璃野の周辺を飛んで頂けると幸いです。あの者が動けないのは、まずい状況ですので」
久脩が苦い顔をして答える。ほら、久脩にもこう言われているぞと紅月に言ってやりたくなるが、それは帰ってからにしよう。
「ところで、紅月が一刻も早く正式な契約を結びたいと言っておったが、何か準備でもあるのか」
すると久脩は首を縦に振った。
「土御門の血を引く者が承認する必要があるかと。ただ、それをするには契約を結ぶ術師と天将も同席する必要がございます。ですので……さっさと身体を治してから来いとお伝えください。我々は忙しいので、彼方に赴くのがいつになるかは分かりませぬ故」
久脩が苦い表情を浮かべている。もし紅月が目の前にいたら説教のひとつくらいはしていたであろう。紅月の行動は後先を考えなさすぎるし、そもそも周りを心配させているのだ。
「伝えておこう。では失礼した」
早く帰ってゆっくりしたい。風琴が立ち上がろうとすると、久脩が慌てて止めた。
「風琴殿、ひとつお聞きしたいのですが、幼少期に人間に遭遇したことはございますか」
一瞬、我が呪詛で倒れた話を盛らされたかと思ったが、表情から察するに違うようだ。風琴はほっと胸を撫で下ろす。
「会ったことはあるかもしれぬが、我の記憶にはない。どうした」
「いいえ。何でもございません。有り難うございました」
風琴は怪訝に思いつつも、大したことなどないと判断する。風琴が邸を出ると、久脩の傍に青年が現れた。憂いを帯びた桔梗色の瞳は、風琴の後を追うように遠くを見ている。
「恐らくあの者だろうな。あやつが最後に救ったのは」
「可能性は低くないでしょうね」
青年に同情するように、久脩は青年を見上げていた。
風琴は皆の労いに酒と菓子を買ってから紅月の元に戻る。
月夜達に菓子を皆に分け与えるように指示をしてから、風琴は紅月の部屋に向かう。酒は宴会の席で振る舞うようにするつもりだが、今回の功労者である紅月は宴に出られぬであろう。皆とは別に一本坂瓶を買ったが、飲めるだろうか。風琴が障子を開く。部屋では紅月は書物を読みながら、横になっていた。
「お帰りなさいませ。土御門殿はどうでしたか」
「疲れているのか顔色が悪かったな。桔梗殿から丸薬を持たされて正解だった」
「あの人は某以上に疲れておりますものね。貴族だからってふんぞり返らず、懸命に奔走する姿には頭が上がりませんよ」
紅月は苦笑する。人の世俗には疎いが、紅月の言う通り、権力に胡座をかかず、頑張る姿は褒めてやっても良いだろうとは思う。
「あやつもお前も頑張るのは良いが無理はするなよ。見ているこっちが胆を冷やされる」
「その言葉をそっくりそのまま返させて頂きますよ風琴殿」
紅月の言葉に風琴は思わずむっとした。だが、数日前に月夜を泣かせてしまったのは事実。反論も出来ずに睨むしかない。
「すみませぬ。言い過ぎましたね。丁度あれも出来ておりますし、それで機嫌を直してくださいな」
だかれあれとは何だ。風琴が言いかけた時、鼻腔に甘い匂いが届いた。何だこれは。嗅いだことのない匂いに首を傾げていると、千代が障子を開いた。千代が持ってきた盆の上には、皿に載った茶色と黄色の菓子のような物と茶碗がある。
「ちょっと焦げちゃいましたけど何とか上手くいきました」
確かに焦げているが、そのようなことは甘い匂いに比べて気にならない。
「焦げなど気にはせぬ。それよりこれは何だ」
「かすていら……を見よう見まねで作ったものです。我が許嫁は気に入ってくれましたが、天狗……いえ風琴殿のお口に合えばよろしいのですが……」
珍妙な名称からして海の外の国から持ち込まれたものか。それにしても旨そうな……。風琴は思わず菓子を凝視してしまった。
「はい、どうぞ召し上がれ」
比較的、焦げの少ない綺麗な部分を切り分けて渡される。風琴は受け取って面の口元を外すと、恐る恐る口にした。
「……どうですか?」
「風琴殿、南蛮の菓子なのですが、お口に合いますか?」
紅月と千代は、何も言わず無言で食べる風琴に問う。風琴は茶で菓子を流し込むと、口を開いた。
「確かに美味い。正直、このように甘い物を食べたのは初めてだ。何を使っているんだ」
「小麦粉、砂糖、それに玉子ですね」
砂糖と玉子は確か、かなり高価ではなかったか。いまいち紅原の金銭事情が分からぬ故、無理な気遣いをさせてしまったのではと考えてしまう。
「大丈夫なのか。こんなに高価な物を用意して」
「大丈夫ですよ。こんなご時世ですので、護符を売り捌いたり、国を守ったことで上からたんまりと銭はいただいておりますので」
大蛇の分御霊の護符などすぐに無くなってしまうほど売れているのであろうな。心配して少し損をしたと思ってしまう。
「好意は有り難いが、残りの半分はお前達が食え。滋養の薬にもなるのだろう」
「よくお分かりになられましたね。滋養の薬とも言われておりますよ。では有り難く頂きます。千代殿、風琴殿の分を紙に包んでください」
千代は頷くと、手際よく残りの半分を紙に包む。風琴はそれを眺めながら、早く月夜に食べさせてやりたいと思った。
「日持ちするか怪しいので、なるべく今日中に召し上がられてください」
「分かった。千代殿のかすていらを有り難く頂こう」
そう言うと、風琴はかすていら片手に部屋を出ようとする。だがひとつ伝言を頼まれたのを思い出した。
「お前の騰蛇との契約の件についてだが、身体を治してから出向けだと。」
「そうですか……。京に出向けるように、早く身体を治さねばなりませんね」
「当たり前だ。早う元気な姿を見せてやれ。お前には床は似合わん」
風琴はそう言い残すと、部屋を出た。それを見送った千代は口を開く。
「風琴殿に気に入られているようですね」
「そうですね。まあ、あの方のお弟子さんには遠く及びませぬが。ですが光栄なことですよ」
紅月の口元は知らず知らずの内に緩んでいた。
風琴が部屋に戻ると、月夜が控えていた。もう菓子は配り終えたのか。思ったよりは早かったが、少し疲れている様子である。
「月夜、疲れたか」
「はい……皆さん、よっぽど甘いものが欲しかったようです。一気に大勢で来られたので少し疲れてしまいました」
「戦に間隔があるとはいえ、日々の鍛練などに励んで娯楽や甘味などに乏しいからな。仕方あるまいよ」
予想通りであったがそこまでとは。ただ、此処は人間どもの目がある。菓子にがっつくといった、天狗として情けない姿など止めてほしいのだが。後で説教でもするか。そのようなことを考えながら、手の中にある包み紙を開く。
「先程、紅月の許嫁が焼いたものを貰ったがいるか」
「かすていらですか! 懐かしいですね。頂いてもよろしいのですか!?」
なんだ知っていたのか。驚かせようと思ったので、少し残念だ。だが、月夜の出自としては知っていてもおかしくないのかもしれない。詳しいことはまだ打ち明けてもらっていないが。
「当たり前だ。美味かったから分け合いたいと思ったのだ」
月夜は目を輝かせながら、我とかすていらを交互に見る。そこまで感激しなくても良いだろうに。こやつは変わらぬなあ。思わず、にやけそうになる。
「せっかくなのでお茶を貰ってきますね。少しお待ちください」
月夜は立ち上がると、早足で茶を取りに行った。その間に小刀で切り分ける。我は先程食べたので月夜には多めに切るか。ふわふわした食い物を切り分けるのはあまりないので、慎重に切り分ける。そこに月夜が戻ってきた。
「戻ってきたか。はい、お前の分だ」
大きい方を月夜にやったが、何故か月夜はむっとしている。どうしてなのだろう。我が首を傾げていると、月夜は首を横に振った。
「弟子の身分でありながら、師匠より大きいのはおかしいと思います。師匠は甘味がお好きなのですから、大きい方をお食べください」
「我はさっき食べたのだ。お前こそ遠慮するな」
それから譲り合いが繰り返される。どちらも譲る気は無かったが、やがて月夜が折れた。
「分かりました。ですが、これは多すぎます。師匠、もう少しだけ受け取ってください」
「仕方無い。少しだけもらうぞ。ってなんだその手は」
月夜は己のかすていらの一部を切り分けると、菓子切りで刺して我の口元に近づける。月夜は頬を赤くしながら口を開いた。
「たまには恋人のように『あーん』などをしたくて」
「お前……ああ、もう。今回だけだぞ」
閨では獣のくせに、こういうところは初な青年だ。可愛らしくて仕方がない。風琴も頬を紅潮させながら、口を開く。月夜の手で食べさせてもらうのは恥ずかしかったが、紅月の部屋で食べた時よりも甘く感じた。
10日程経つが、今のところは大きな事変など無い。ただ、少数ではあるがちらほらと沸きつつある。紅月に話すと、彼は溜め息をついた。
「沸き所というのは、異界への道です。封印や潰しを行ったとは言え、一度開かれた道は中々完全に閉鎖しようがないのが問題なんですよねえ」
「つまり、しらみ潰しになると言うのか」
「はい。一気に全部閉じてしまうと、別の場所に皺寄せが来る。人を殺める妖なんぞは、平安の頃にも大量にいたわけですから、沈静化するには、まあ100年単位はかかるでしょう」
土御門が言うには、今回のことで霊脈も穢れて使えなくなったのが日ノ本で多数あるという。天から落ちた雫が地に染みて湧き水になるのに長い年月がかかる。それ以上にかかるかもしれぬな。まあ、それは我らの専門外だが。
「そんなことは未来の世代に任せましょう。将来のことは分かりませぬが」
「そこは我が見に来るから心配するな。まあ女は紹介してやれぬがな」
すると紅月はいやいやと手を振る。
「某の子孫ですよ。許嫁に困ることは無いでしょう。もしかすると土御門の血を引くものを伴侶としたり、大名の血筋の者を娶るやもしれません」
大きく出たことを言っておるな。人間は身分関係には厳しいのだから、難しいだろうが。思わず呆れてしまう。だが、無くはないかもしれないと何故か思ってしまった。
「そういえば、風琴殿は子はいらぬのですか」
「既に我の傍に大きな子がおるであろう。もう子などいらぬ」
腹違いの弟と争わぬためにも、子は成さないと決めた。それに、我が寝る間も惜しんで看病し、手塩にかけて育てたのは、月夜以外にいない。これからも月夜以外に現れることなどないだろう。
「そうでしたね。戦は十日切りましたし、今に内にそのお子さんを甘やかしてあげてくださいな」
「言われなくてもそうする」
互いに無事でありたいとは思うが、そうはならないのが戦だ。今の内に月夜に精一杯愛情を注いでやろうと心に決めた。
だが、戦の前と言えば戦略を練ることだ。土御門や紅月と話し合っている間に、気づけばあと5日になっていた。明後日の昼には出立して、関ヶ原付近の陣に行かなければならない。おい我よ、一体何をやっているのだ。風琴は自分で自分を叱る。いや、それよりも甘やかすとは何をすれば良いのか。「あーん」というやつか。……我は恥ずかしくて、そのようなことは出来ぬぞ。なれば、情交か。まあ情交は今夜辺りにもやって良いが、それはいつも通りだしなあ。そんなことを考えていると、凩の元から月夜と涼太が戻ってきた
「師匠、ただいま戻りました。こちら、凩殿からの文です」
「ああ、2人とも有り難う。涼太は下がって休むと良い」
「はっ。ではご隠居、失礼いたしました」
涼太は一礼して部屋から出る。足音が聞こえなくなったのを確認すると、そっと月夜に目を遣った。
「なあ、月夜」
「何ですか、師匠」
思わず声をかけたが、何をすればいいか思い浮かばぬ。悩んでいたが、あることがちらりと頭に過った。
「その……膝枕……してやろうか……?」
月夜と目を合わせないまま、聞いてみる。流石にこのようなことを目を合わせて言えるわけが無かろう。月夜の返答を待っていたが、静かなままだ。どうしたのだろうかとちらりと見る。月夜は固まったまま、此方を凝視していた。
「月夜、大丈夫か……?」
「あっ……いえ……大丈夫です。膝枕とは……その……よろしいのですか……?」
今は面を被っているから分かりづらいが、きっと顔は真っ赤になっているのだろう。風琴は己の面を取って頷いた。
「2度も言わせるな。良いに決まっておろうが」
膝を叩いて寝るように促す。月夜は恐る恐る近づくと、我の膝にゆっくりと頭を乗せた。月夜の面を外してやると、予想通り赤くなっている。
「どうだ。……その、この位置だと股間に当たりかねんな」
「私としてはその方が……いえ、大丈夫ですよ」
月夜は笑うと我の顔を見上げた。
「えへへ。やっぱり少し固いですけど、幸せです」
「女のようにしなやかではないからな。まあお前が幸せなら良い」
こやつの声が変わる前は、よく縁側で膝枕をしたものだ。月夜の頭を撫でてやるうちに、月夜がすやすや寝息を立てる。こうやって寝顔を見るのも良いものだな。風琴は東雲が部屋に来るまでの間、月夜の寝顔を眺め続けていた。
時間が経つのは早いもので、気がつけば出立の日となっていた。紅月達は先陣を切るわけではないので、我達が出立してから出るらしい。騰蛇殿や桔梗殿などに挨拶を済ませてから、紅月に別れを告げる。
「では風琴殿、お元気で」
「ああ、お前もな」
紅月はええと笑みを浮かべる。あれから紅月は起き上がれるようにはなったものの、本調子ではないという。そんな奴を戦場に立たせて良いものか。
そう思ったが、どうやら鬼祓い達も考えは同じようで、今回は指揮を取るのみ以外の仕事を禁止されたらしい。鬼祓い達が、頭にのみ重責を任せてのうのうと生きている連中でなかったことに安堵した。
「風琴殿、不吉な相が濃くなっておりますので、ご注意をば」
そのようなことを耳打ちしてくる。以前言われたのは、溺れる前だったのでとっくに終わったかと思いきや違うとは。へらへらしているが、我を気遣ってくれるのには感謝しかない。
「胆に命じておこう。さらば、我が友」
同じように小声で言う。紅月は両目を見開いて、口をぽかんと開けていたが、やがていつもの怪しい笑みに戻った。
「天狗様方、ご武運を」
紅月の言葉に背を押されるように、地を蹴って空をかける。まるで渡り鳥のように見える程小さくなったのを紅月は見守る。
「友か……ふふっ……直接言われると嬉しいものだな。今度は花見をしながら酒を飲みたい」
紅月の本音を紡ぐ声はあまりに小さく、隣にいる騰蛇にしか届かない。騰蛇は目を細めると、紅月の肩に手を置いた。
我が振り返ると、紅月の姿は砂粒程度にしか見えぬ程遠ざかっていた。何、一時の別れだ。また遠くないうちに会える。そんな筈なのに、何故か胸が苦しい。今生の別れでもないだろうに、我はどうしたのだ。
「風琴どうした」
我の様子を感じ取った東雲が心配そうに問う。我は何でもないと答えた。
「それにしても、もうそろそろ秋だなあ」
「栗でも飯に混ぜて食いたいな」
「我に作れと言うのか」
「お前の作る栗ご飯美味いだろ。あと鍋も食いたいなあ」
欲張りめと風琴が東雲の肩を叩くと、東雲は笑い声を上げる。他の天狗達も風琴や東雲のようにくだらない話をしながら、術師達の陣を目指して飛ぶのだった。
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「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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