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六話
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翌朝──律佳は腹部に重みに違和感を覚える。大きな重石が乗っているよな感覚。息苦しいけれど──なぜか温かい。
まだ眠っていたかったが、耐え兼ねて瞼を持ち上げた。
(……?)
目と鼻の先に黒い塊が見える。寝ぼけた意識が鮮明になってくれば、それがナニか輪郭がハッキリとしてくるのだ。
腹部の上で体を丸め鎮座するそれに、律佳は大きな溜息をつく。
「おい、降りろよクロスケ」
耳がピクリと動けば、瞼が開かれグリーンの瞳を覗かせる。その瞳と目が合い、律佳は上半身を起こす。クロスケはやっと体から降り、ベッド脇に座ればこちらを見上げてくるのだ。
律佳は携帯端末で時間を確認すればまだ早朝の五時前。
「なんだよ……もう少し寝かせてくれよ」
掛け布団を引っ張ると、再び布団へ潜り込んで目を閉じた。
「小僧の知りたいこと。教えてやろうと来てやったんだぞ」
偉そうな物言いだなと思いながら、聞かないふりをして目を閉じ続けた。
クロスケが動く様子もなく、静かな沈黙が漂う。
何分過ぎただろ。律佳にとっては十分以上も時間が経っていたように思えた。
「……テツロウは、元気か」
クロスケの口から名を聞いた瞬間に布団の中で目を見開いた。
起き上がってクロスケを見下ろす。
「やっぱり、お前がクロスケなんだ」
こちらを見つめるグリーンの瞳は微かに揺れる。
「まだ生きてるみてぇだな」
視線を逸らし、布団の上で拳を握った。
「今は老人ホームにいるんだ」
「老人の家……?」
猫にはわからないらしい。
「えっと……一緒に暮らしてないんだ。同じ年代の人たちが集まる施設で暮らしていて」
ちらとクロスケへ視線を向ければ、まんまるな目をして髭をヒクヒクと動かしている。
「ああ、わかったぞ。人間のジジやババが世話してもらってる宿だな」
おおむね正解だろう。律佳は否定せず頷く。
「あいつも歳を食ったか。孫がいるんだからな」
クロスケの声は柔らかい。目を細め、友人の安否に安堵しているように思える。
その瞳の奥に映るのは律佳ではなく、あの頃の祖父だろう。
「今日はどこへ行くんだ小僧」
「……アテネに戻る。そこで一泊して、翌朝に空港から日本に帰るよ」
クロスケを問い詰めないのは、もう聞くこともないと思ったから。
やはりクロスケは祖父と会っていた。あの写真に写る猫は目の前にいる猫と同じで、その頃と変わらない姿をしているのだ。
本来の猫の寿命を考えるとあり得ないことだが、人間の言葉を喋る時点でおかしいのだ。今更、何十年と生きていようが驚きやしない。
もう一度布団に潜り込んだ。船の出航までに時間はある。早朝に起こされたので二度寝したい。
ふいにベッドが軋み、掛け布団を四脚が踏みつけていく。こちらを呼ぶような鳴き声がするも、律佳は布団から顔を出さなかった。
「じいちゃんはクロスケのことも忘れてるよ。自分がギリシャに来たことも覚えてないんだ」
「……そうか」
腹の近くから布団がもぞもぞと動き、黒い頭が布団の中へ入ってくる。柔軟な体をするりと隙間から滑り込ませてきたのだ。そうして律佳の腕の中に収まるようにして頭を突っ込んでくる。
「オレも寝る」とクロスケは目を閉じた。
腕に重みを感じながら溜息をつく。けれどその重みが少しばかり心地よくて、柔らかな毛に顔を埋めるように律佳も目を閉じるのだった。
◇
律佳とクロスケはアテネ行きの船に揺られていた。
甲板にて、律佳はクロスケに問いかける。
「それで、約束の地ってどこなの」
椅子の上で体を丸めているクロスケは尻尾を振り、ゆっくりと瞬きした。
「行けばわかる」
またしてもクロスケは多くを語らない。なぜなのだろうか。祖父と縁があったことは確かで、普通の猫じゃないことも確かで。
ここまで判明しているというのに、肝心なことは口にしてくれなかった。
(もったいぶる猫だな)
律佳が焦って答えを求めても、この猫は欲しい答えを簡単には与え得てくれないことは十分に理解していた。
手にしているギロピタを齧る。
ギロピタとは、肉や野菜をピタパンで挟み包んだ食べ物だ。ケバブやトルティーヤに近い。律佳が食べているのは肉、トマト、玉ねぎなど野菜のほかにフライドポテトも挟んである。ザジキソースという爽やかなソースが具材とよく絡んで美味しい。
こうしてギロピタを食べながら地中海の景色を眺めるのは今日で最後になる。居心地の良い国だった。この地を離れるのが惜しいくらいに。
「テツロウと会ったのは、まだ猫だった頃でな」
クロスケが話し始め、律佳は眉を寄せる。
「今も猫だよね?」
どう見ても、隣の椅子に座る生き物は片足だけ白い黒猫だ。クロスケの髭はピクピクと動く。
「ただの猫だった。人間の言葉は聞けても、話はできない。鳴くだけのただの野良だ」
猫の語りに耳を傾けながら、コーラが入ったドリンクカップを飲む。
「また会う約束をして、それから何十年と待った。気付いた時には、こうなっちまったんだよな」
クロスケはそれ以上の話はしなかった。そのまま黙り込んでしまう。
潮風を浴びながらギロピタを齧る。眠る猫の静かな寝息を聞きながら、水平線に見えるアテネの地を眺めた。
まだ眠っていたかったが、耐え兼ねて瞼を持ち上げた。
(……?)
目と鼻の先に黒い塊が見える。寝ぼけた意識が鮮明になってくれば、それがナニか輪郭がハッキリとしてくるのだ。
腹部の上で体を丸め鎮座するそれに、律佳は大きな溜息をつく。
「おい、降りろよクロスケ」
耳がピクリと動けば、瞼が開かれグリーンの瞳を覗かせる。その瞳と目が合い、律佳は上半身を起こす。クロスケはやっと体から降り、ベッド脇に座ればこちらを見上げてくるのだ。
律佳は携帯端末で時間を確認すればまだ早朝の五時前。
「なんだよ……もう少し寝かせてくれよ」
掛け布団を引っ張ると、再び布団へ潜り込んで目を閉じた。
「小僧の知りたいこと。教えてやろうと来てやったんだぞ」
偉そうな物言いだなと思いながら、聞かないふりをして目を閉じ続けた。
クロスケが動く様子もなく、静かな沈黙が漂う。
何分過ぎただろ。律佳にとっては十分以上も時間が経っていたように思えた。
「……テツロウは、元気か」
クロスケの口から名を聞いた瞬間に布団の中で目を見開いた。
起き上がってクロスケを見下ろす。
「やっぱり、お前がクロスケなんだ」
こちらを見つめるグリーンの瞳は微かに揺れる。
「まだ生きてるみてぇだな」
視線を逸らし、布団の上で拳を握った。
「今は老人ホームにいるんだ」
「老人の家……?」
猫にはわからないらしい。
「えっと……一緒に暮らしてないんだ。同じ年代の人たちが集まる施設で暮らしていて」
ちらとクロスケへ視線を向ければ、まんまるな目をして髭をヒクヒクと動かしている。
「ああ、わかったぞ。人間のジジやババが世話してもらってる宿だな」
おおむね正解だろう。律佳は否定せず頷く。
「あいつも歳を食ったか。孫がいるんだからな」
クロスケの声は柔らかい。目を細め、友人の安否に安堵しているように思える。
その瞳の奥に映るのは律佳ではなく、あの頃の祖父だろう。
「今日はどこへ行くんだ小僧」
「……アテネに戻る。そこで一泊して、翌朝に空港から日本に帰るよ」
クロスケを問い詰めないのは、もう聞くこともないと思ったから。
やはりクロスケは祖父と会っていた。あの写真に写る猫は目の前にいる猫と同じで、その頃と変わらない姿をしているのだ。
本来の猫の寿命を考えるとあり得ないことだが、人間の言葉を喋る時点でおかしいのだ。今更、何十年と生きていようが驚きやしない。
もう一度布団に潜り込んだ。船の出航までに時間はある。早朝に起こされたので二度寝したい。
ふいにベッドが軋み、掛け布団を四脚が踏みつけていく。こちらを呼ぶような鳴き声がするも、律佳は布団から顔を出さなかった。
「じいちゃんはクロスケのことも忘れてるよ。自分がギリシャに来たことも覚えてないんだ」
「……そうか」
腹の近くから布団がもぞもぞと動き、黒い頭が布団の中へ入ってくる。柔軟な体をするりと隙間から滑り込ませてきたのだ。そうして律佳の腕の中に収まるようにして頭を突っ込んでくる。
「オレも寝る」とクロスケは目を閉じた。
腕に重みを感じながら溜息をつく。けれどその重みが少しばかり心地よくて、柔らかな毛に顔を埋めるように律佳も目を閉じるのだった。
◇
律佳とクロスケはアテネ行きの船に揺られていた。
甲板にて、律佳はクロスケに問いかける。
「それで、約束の地ってどこなの」
椅子の上で体を丸めているクロスケは尻尾を振り、ゆっくりと瞬きした。
「行けばわかる」
またしてもクロスケは多くを語らない。なぜなのだろうか。祖父と縁があったことは確かで、普通の猫じゃないことも確かで。
ここまで判明しているというのに、肝心なことは口にしてくれなかった。
(もったいぶる猫だな)
律佳が焦って答えを求めても、この猫は欲しい答えを簡単には与え得てくれないことは十分に理解していた。
手にしているギロピタを齧る。
ギロピタとは、肉や野菜をピタパンで挟み包んだ食べ物だ。ケバブやトルティーヤに近い。律佳が食べているのは肉、トマト、玉ねぎなど野菜のほかにフライドポテトも挟んである。ザジキソースという爽やかなソースが具材とよく絡んで美味しい。
こうしてギロピタを食べながら地中海の景色を眺めるのは今日で最後になる。居心地の良い国だった。この地を離れるのが惜しいくらいに。
「テツロウと会ったのは、まだ猫だった頃でな」
クロスケが話し始め、律佳は眉を寄せる。
「今も猫だよね?」
どう見ても、隣の椅子に座る生き物は片足だけ白い黒猫だ。クロスケの髭はピクピクと動く。
「ただの猫だった。人間の言葉は聞けても、話はできない。鳴くだけのただの野良だ」
猫の語りに耳を傾けながら、コーラが入ったドリンクカップを飲む。
「また会う約束をして、それから何十年と待った。気付いた時には、こうなっちまったんだよな」
クロスケはそれ以上の話はしなかった。そのまま黙り込んでしまう。
潮風を浴びながらギロピタを齧る。眠る猫の静かな寝息を聞きながら、水平線に見えるアテネの地を眺めた。
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