ギリシャの風に吹かれて

あぐつ

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七話

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 船はアテネに着き、柔らかな風が律佳の頬を撫でていく。足元を見下ろせばクロスケは耳の後ろを足で掻いていた。
 リュックのポケットから手帳を取り出し、例のページを開くのだ。
 『約束の地 ここで』
 祖父の自筆で書かれたインクを手で撫でる。
 
(この意味が、やっとわかるのか)
 
 今日も晴天だ。アテネの地へ足を踏み出した。
 
 
 トコトコと先をいくクロスケの後を追っている。
 時折、すれ違う人は黒猫に視線を下ろして笑顔になっていた。その後ろをついて歩く律佳のことも不思議そうに二度見してはいるが、そんな周囲の視線は気にするところでなはい。
 着いてこいと言わんばかりに、ひたすらアスファルトの上を歩くクロスケを、見失わないよう追いかけるのが精一杯だったのだ。
 

 港からだいぶ離れた街中。大きな噴水を中心にした広場へ辿りつく。広い敷地内には背の高い青々とした木々がそびえ立つ。まるでオアシスのようだ。
 中心部の噴水から離れた石造りのベンチ。クロスケはその上に飛び上がり、律佳を見上げてくる。
 
「ここが、約束の地だ」
「……えっ、ここ?」
 
 周辺を見渡し、拍子抜けしてしまった。なにを期待したか。律佳はもっと特別を感じるような場所を勝手にイメージしていたのだ。
 人々の営みを感じさせる平凡な広場。そこが『約束の地』だったとは。

 ベンチへカメラを向け、シャッターを切る。ベンチに座る黒猫の写真がおさまった。
 ボタンを操作し、これまで撮った写真を見返す。たくさんの猫がこの一台のカメラに収められているのだ。ギリシャの美しい風景の中に溶け込むように写り込んだ猫。
 そして──テーブルに座る太々しい黒猫。祖父を待ち続けギリシャにとどまる黒猫は、まるで忠犬ハチ公のようだ。
 『約束の地 ここで』
 それは祖父にとってギリシャそのものだったのかもしれない。
 
「なあ、クロスケ──」
 
 カメラから顔をあげた律佳は息をのむ。周囲の音が一瞬にして遠のくのを感じた。
 ベンチからクロスケの姿が消えていたのだ。

 目の前の光景に放心し、カメラを持つ手が僅かに震えた。
 なにが起こったのか理解できない自分と、これが旅の終点なのだと直感した自分がいる。
 
「クロスケ!」
 
 地面に膝をついてベンチの下を覗いた。
 「にゃーん」と鳴くのは、茶色の毛をした猫だった。律佳と目が合うと去ってしまう。
 
「どこに行ったんだよ」
 
 心臓が激しく脈を打ち、手に汗が滲みはじめる。
 律佳はベンチを離れ、クロスケを探しに駆け出した。
 
 それからどれだけ探しただろう。思い当たる場所へ手当たり次第に行ったが、右足が白い黒猫は見つからなかった。
 
(戻ってくる、きっと……)
 
 また野良猫のように姿を現すだろう。そう願うように律佳は青空を見上げる。
 
  ◇
 
 アテネの小さなホテルにつき、狭くて埃っぽい部屋が律佳を待っていた。
 ベッドの上で眠っているんじゃないか──淡い期待をしながら部屋を開けたのだが、シングルベッドは綺麗にシーツがかけられているだけ。誰にも使われてない痕跡がハッキリとある。
 ギリシャで過ごす最後の夜だというのに、胸に抱くのは達成感ではなく虚しさだ。
 
 荷物を下ろし、ベッドの縁に腰掛ければ、重みでギシリと音が鳴る。空虚な静けさの中で手帳を開いた。
 クロスケは祖父と会った頃は『ただの猫』だったと言う。
 ならばクロスケとの再会の約束をしたのは祖父からだろう。だとしても、異国の地で会ったと再会できると本気で思っていたのか。
 結局、祖父はギリシャに訪れることもなかったというのに。クロスケとの写真は残していた。
 
 仰向けにベッドへ転がり、写真を掲げた。サングラスをつけ気取った青年と、凛々しい顔をした黒猫──色褪せた古い写真を見つめる。
 祖父の目にはこの頃のクロスケが『妖精』にでも見えていたのだろうか。懐いたクロスケとあの広場まで行って、再会を約束したのかもしれない。
 そうしてクロスケは待ち続け、律佳と出会った。それから多くは語らず姿を消した。
 
 日本では人間は未練があるとこの世に留まり続けるという。それが地縛霊とかいうやつだ。
 クロスケもまた、祖父との約束を果たされぬまま居座り続けた魂だったのか。それならば、律佳以外にも現地の人がクロスケを見えていた理由はなんだ?
 実態を持つ猫の霊? 妖精は猫だと目視できるのか?
 考えれば考えるほどに、思考の沼にハマっていく気がした。
 
(頭が痛い……)
 
 律佳は眠るのが怖くなった。今の意識は本当の律佳の意識の中かもしれない。
 目覚めたらギリシャ一日目──もしくは日本から旅立ってさえいないかもしれない。これが全て夢で、自分の妄想で。『不思議の国のアリス』のように、目が覚めるときがくるとしたら。正気を保てる自身はないだろう。
 
 いや……それよりも、目が覚めてクロスケの姿がなかった時の方が恐ろしい。
 静かな朝を迎えるのを律佳は認めたくなかった。電気も消さず、夜が明けるのをじっと待つ。
 深い深い夜にアテネは包まれ、静寂が狭い部屋を覆う。
 惰性で動画を見ながら、スマホの明かりに顔が照らされる。目が痛むのも構わず画面を凝視し、カーテンの外が薄ら明るくなっていくのを、視界の端で感じとっていた。
 
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