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八話
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カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋は電気を付けなくとも明るい。
律佳の目には薄いクマができており、眼球が痛い。疲れが取れていないと体の節々が悲鳴を上げている。
静かな部屋は猫の鳴き声ひとつもしなかった。心に穴が開いたような虚無に襲われている。
スマホの時刻は確かに日付を跨いでいた。
おぼつかない足取りで洗面所に向かい、顔を洗う。鏡に映る自分を見つめれば、酷い顔だ。寝不足だと書いてある。
仮眠を取りたいが時間は止まってくれない。空港に行かなければならないのだ。
「……クロスケ」
返事はない。冷えた空気に律佳の溜息が溶けてゆく。
シャワーを浴び、淡々と出掛ける準備を進める。律佳が過ごした痕跡だけを残して部屋を出ていった。
◇
空港へ行く前に、律佳はカフェテラスを覗いた。
そこは最初にクロスケと出会った場所だ。現地と観光客が入り混じり、食事をしている様子が見れる。
あたりを見渡すも右足の白い黒猫の姿はない。唇を噛み締め、逃げるようにテラスから離れていった。
ひょっこりと目の前に姿を現すのではないか、まだ淡い期待をしていた。
「よう、小僧」となに食わぬ顔で声をかけてくるのではないか。
「どこに行ってたんだよ、クロスケ」と抱きしめて、嫌がってもあいつの後頭部に顔を擦り付けてやるのだと、律佳は決めていた。
空港へと近づくたびに足取りは重くなる。
タクシーを使うことも頭によぎったが、クロスケと会える可能性が薄まる気がして、歩くほか選択肢を取りたくない。
青空の下、アテネの街を歩く。黄色いタクシーに追い越されながら空港へと向かう。
律佳の心に反して天候が良く、半袖シャツでもいいくらいに暖かだ。歩いていれば少し汗ばむほど暑い。
穏やかな景色とギリシャの空気が居心地が悪い。
前方に見えてくる大きく白い建物。アテネの空港があり、青空を飛ぶ飛行機が見えている。
(帰りたくない……でも、帰らないと……)
タイムリミットだ。
ギリシャから切り離され、他国の人々が入り混じる空港の中へ辿り着いてしまう。
ゆっくりと息を吸い、深く吐いた。
帰ろう、日本へ。
律佳は真っ白なフローリングの床に足を踏み出した。
◇
飛行機の窓際の席に座り、真下の地中海を見下ろす。
太陽に照らされ緩やかに波打ち、真っ青な美しい海が広がっている。
下ろしたテーブルには、コーヒーが入った紙コップがひとつ。それから祖父の手帳が置いてある。
海を眺めながら、律佳の瞼は閉じかけていた。意識が遠のき、うつらうつらと船を漕ぎ始める。
瞼が伏せられると、そのまま夢の中へと落ちていくのだった。
──強い陽射し、うるさい蝉の声。どこか遠くから聞こえてくる風鈴の音。
いつものように秘密基地で遊んでいた。
父から貰った新品の恐竜図鑑を広げ読み耽る。その側には昆虫や動物図鑑も置いてあり、虫カゴ、虫取り網も常備していた。
『律佳』
声に顔をあげれば、祖父が秘密基地の入り口から覗き込んでいたのだ。
『じいちゃん!』
律佳は秘密基地から出ると祖父に飛びついた。抱き止めてくれた祖父は、深く皺が入った手で頭を撫でてくれる。
『ほら、見てみろ律佳。クロスケがいるぞ』
祖父が指差す先に、クロスケがこちらをじっと見つめていた。
『クロスケ!おいで!』
手招きするが動こうとしない。じっとこちらを見つめたままだ。
『クロスケ!』
手を叩き、呼び寄せてみる。が、やはり動かない。
律佳は仕方なく祖父から離れ、クロスケへ歩み寄った。
鮮やかなグリーンの瞳は、駆け寄る少年を捉えている。
そこで目が覚めた。時刻を確認すれば、フライトから六時間しか経っていない。まだ日本には程遠かった。
おもむろに手帳へ手を伸ばし、祖父の旅行日記を読み返す。心の空白を埋めるように。
ギリシャから日本へのフライトは、とても長い時間だった。
律佳の目には薄いクマができており、眼球が痛い。疲れが取れていないと体の節々が悲鳴を上げている。
静かな部屋は猫の鳴き声ひとつもしなかった。心に穴が開いたような虚無に襲われている。
スマホの時刻は確かに日付を跨いでいた。
おぼつかない足取りで洗面所に向かい、顔を洗う。鏡に映る自分を見つめれば、酷い顔だ。寝不足だと書いてある。
仮眠を取りたいが時間は止まってくれない。空港に行かなければならないのだ。
「……クロスケ」
返事はない。冷えた空気に律佳の溜息が溶けてゆく。
シャワーを浴び、淡々と出掛ける準備を進める。律佳が過ごした痕跡だけを残して部屋を出ていった。
◇
空港へ行く前に、律佳はカフェテラスを覗いた。
そこは最初にクロスケと出会った場所だ。現地と観光客が入り混じり、食事をしている様子が見れる。
あたりを見渡すも右足の白い黒猫の姿はない。唇を噛み締め、逃げるようにテラスから離れていった。
ひょっこりと目の前に姿を現すのではないか、まだ淡い期待をしていた。
「よう、小僧」となに食わぬ顔で声をかけてくるのではないか。
「どこに行ってたんだよ、クロスケ」と抱きしめて、嫌がってもあいつの後頭部に顔を擦り付けてやるのだと、律佳は決めていた。
空港へと近づくたびに足取りは重くなる。
タクシーを使うことも頭によぎったが、クロスケと会える可能性が薄まる気がして、歩くほか選択肢を取りたくない。
青空の下、アテネの街を歩く。黄色いタクシーに追い越されながら空港へと向かう。
律佳の心に反して天候が良く、半袖シャツでもいいくらいに暖かだ。歩いていれば少し汗ばむほど暑い。
穏やかな景色とギリシャの空気が居心地が悪い。
前方に見えてくる大きく白い建物。アテネの空港があり、青空を飛ぶ飛行機が見えている。
(帰りたくない……でも、帰らないと……)
タイムリミットだ。
ギリシャから切り離され、他国の人々が入り混じる空港の中へ辿り着いてしまう。
ゆっくりと息を吸い、深く吐いた。
帰ろう、日本へ。
律佳は真っ白なフローリングの床に足を踏み出した。
◇
飛行機の窓際の席に座り、真下の地中海を見下ろす。
太陽に照らされ緩やかに波打ち、真っ青な美しい海が広がっている。
下ろしたテーブルには、コーヒーが入った紙コップがひとつ。それから祖父の手帳が置いてある。
海を眺めながら、律佳の瞼は閉じかけていた。意識が遠のき、うつらうつらと船を漕ぎ始める。
瞼が伏せられると、そのまま夢の中へと落ちていくのだった。
──強い陽射し、うるさい蝉の声。どこか遠くから聞こえてくる風鈴の音。
いつものように秘密基地で遊んでいた。
父から貰った新品の恐竜図鑑を広げ読み耽る。その側には昆虫や動物図鑑も置いてあり、虫カゴ、虫取り網も常備していた。
『律佳』
声に顔をあげれば、祖父が秘密基地の入り口から覗き込んでいたのだ。
『じいちゃん!』
律佳は秘密基地から出ると祖父に飛びついた。抱き止めてくれた祖父は、深く皺が入った手で頭を撫でてくれる。
『ほら、見てみろ律佳。クロスケがいるぞ』
祖父が指差す先に、クロスケがこちらをじっと見つめていた。
『クロスケ!おいで!』
手招きするが動こうとしない。じっとこちらを見つめたままだ。
『クロスケ!』
手を叩き、呼び寄せてみる。が、やはり動かない。
律佳は仕方なく祖父から離れ、クロスケへ歩み寄った。
鮮やかなグリーンの瞳は、駆け寄る少年を捉えている。
そこで目が覚めた。時刻を確認すれば、フライトから六時間しか経っていない。まだ日本には程遠かった。
おもむろに手帳へ手を伸ばし、祖父の旅行日記を読み返す。心の空白を埋めるように。
ギリシャから日本へのフライトは、とても長い時間だった。
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