狩猟小屋に飼われた青年

くろねこや

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不安の種を蒔いた男 〜アルト視点(後編)

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翌日の早朝。

僕はウルスの先導に従って、暗い崖の下に来ていた。



『…アルト? どこ行くの?』

窓の外が薄らと明るくなってきた時間。

毎朝の習慣でなるべく音を立てないよう懐中時計のゼンマイを回し、身支度を整えたのだが…。

部屋のドアを開こうとした時、寝ぼけたようなヴェダの声が僕を呼び止めた。

いつもならまだ深い眠りの中。僕の体温が離れたことで起こしてしまったようだ。


『剣の鍛錬をしてくるよ』

安心させるように微笑んで、彼の瞼に口付ける。僕が朝の鍛錬に出るのは、そう珍しいことじゃない。

『…そう。…けが、しないで』

夢現ゆめうつつながら心配してくれるのが嬉しくて、そっと頬を撫でた。

幸せそうにふにゃりと微笑むヴェダの、柔らかな寝息を指に感じたところで、後ろ髪を引かれながら外に出てきた。



毛皮や肉を保管している洞窟の裏に、この崖があることは知っていたけれど、崖の底へ下りるための獣道があることは知らなかった。


あぁ。やっぱり“お墓”だ。


下草や小さな木々が生い茂った藪の中に、その場所はあった。

大小さまざまな石が積まれた小山。

その上に何の言葉も刻まれていない岩が1つ。


「名前はデザレ。僕たち同様、他所よそから来た男だよ」

この小屋へヴェダとウルスたちが暮らすようになった翌年の春、その男は現れたのだという。

「こいつは僕が世界一嫌いな男と似た臭いがしたんだ」

ウルスは積まれた小さな石を1つ蹴り飛ばした。

常に落ち着いており、上品な仕草をする彼には珍しい、酷く乱暴な行動。

彼が言う“世界一嫌いな男”とは誰なのだろう。だが、碌な人物でないことはその低く平坦な声から伝わってくる。



「ある日突然、ヴェダがおかしなことを言い始めた。…確かあの子が6歳になった頃だ」

6歳…小さい頃のヴェダ…。間違いなく天使…!

だが不穏な言葉にどきりとする。

“おかしなことを言い始めた”…なんて。


『…僕だけ、お仕事なんにもしてない』

そうヴェダは言うようになったらしい。


その頃あった変化といえば、この男…デザレが足を怪我し、狩りを休んでいたことだけ。

ヴェダに身の回りの世話をさせ、一緒に小屋で留守番していた時期があったそうだ。


もちろん子どもが大人と同じ仕事をしたがるのは珍しいことではないのかもしれない。

『一人前として認められたい』、そんな気持ちで。


「僕が湯浴みをしていたらね、小さなヴェダが来て言ったんだよ。『ウルス、僕にお仕事ちょうだい?』って」

まだ6歳なのに『お仕事』って…。

健気けなげすぎない?!

その頃のヴェダに会ってみたかったなぁ…。

って、その頃の僕はまだ5歳かぁ…。

『本当は侍女のマーサが母様なんじゃないか』って本気で疑ってた時期だな。夜に部屋で1人寂しく泣いてると、気まぐれのように隣の部屋から3番目の兄がやって来て抱っこしてくれたのを覚えてる。『お前がうるさいと眠れないからな』なんて、今思えばツンデレな発言をして。


「身体を洗っている途中だったから、背中を流してくれるのかと思ってお願いすることにしたんだ」

“甘えたがり”だった僕と違ってヴェダは、もう6歳の頃には『お仕事』をしてたのか。

小さな手で背中をゴシゴシしてくれる可愛い天使様…。羨ましい!


「そうしたら、ヴェダは何をしたと思う?」

「…え?」

ウルスの声は冷たく強張り、上擦る。

「椅子に座った僕の前にしゃがみ込んだんだよ。そして…」

口淫を始めた…のだという。

え…?


「…ヴェダは…ひどく慣れていたんだ。驚いて…驚きすぎて、動けなくなっているうちに…僕は…」

ウルスは懺悔ざんげするように両手を組む。俯いた顔を隠すように。



は? 

6歳のヴェダが、慣れていた?

何に?

口淫?



男を慰めるその行為を、誰に教わったのか訊ねたら、

『デザレが教えてくれたんだー』

嬉しそうに笑ったそうだ。


『気持ちよかった?』

『お仕事ちゃんとできてた?』

『僕もみんなの役に立ってる?』


「そんなふうに、ヴェダが…天使みたいに、無垢な表情で、訊くんだ。…あの時、僕は何と答えるのが、正解だったのだろうね?」

ウルスは苦しそうに息を吐くと、積まれていた小さな石をまた1つ蹴った。そのままふらりと揺れて、崩れ落ちるように膝をついた。



頭の中が真っ白だ。

意味が分からない。



「アルトは大量に焚いた蚊遣の煙がどんな効果を生み出すか、もう知っているだろう?」

「……は?……あぁ、…うん」

頭が働いてくれない。


ええと?

蚊遣の煙?

効果…?

催淫効果…?


「まさか…、それで、13歳のヴェダを囲んだ?」

ウルスはこくりと頷いた。

「グードゥヤの記憶はたぶん曖昧だろう。煙を近くで吸い過ぎたのか朦朧としていたから。…だが、あのミザールでさえ、おかしくなってしまったんだ。…あんなに、ヴェダのことを大切にしていた優しい人が…」

僕もあの煙を吸ったから分かる。

頭がぼんやりして、

初めてだったのに、

男たちを悦んで受け入れていた。

涙と涎を垂れ流しながら、自ら腰を振って。


「その時、蚊遣を焚いたのは…」

おそらくプロキオではないだろう。

初めて会った日の彼は、屋外で蚊遣を使わずヴェダとしようとしていたのだから。

「…この男、なんだね?」

こんなに低い声が僕の喉から出たことに驚く。

「あぁ。…この男は…こいつは、その効果を知っていた筈だ。理性をなくしていく僕たちを見て、嘲笑わらっていたのだから」


ドガッ、

足の裏に痛みが走る。


僕の足が勝手に岩を蹴ったからだ。


ゴトリと向こう側へ落ちていく岩を見ていたら、頭が静かに冷えていった。

おかしいな、感情を抑制する方法は家で学んだ筈なのに。


「どうして“13歳”だったの?」

ヴェダはその時が初めてだったと言っていた。6歳の彼に口淫を教えた男が、7年もそれ以上の行為をしなかったのは何故なのか。

“獣”にも“人として最低限の倫理観”が存在した?


「おそらくヴェダが…精通…したから…だと思う。こいつは達するヴェダを見て、穢らわしい顔で…、」

『待ってた甲斐があった』と舌舐めずりして笑ったそうだ。


僕の足は、石を遠くへ蹴り上げていた。


こんなに抑えられない“怒りの感情”というものが自分の中にあったことに驚く。

ドロリと重くて、燃えそうに熱くて、同時に酷く冷たい。


「…アルト、頼む。僕のことも、蹴り飛ばしてくれないか。剣で刺しても、斬り捨ててくれても構わない」

ウルスの言葉に、僕は頷くことが出来なかった。

彼の姿は、顔は、王都の広場で見た『首を斬り落とされる瞬間を待つ罪人』を思い出させたからだ。

己の罪を認め、心の底から悔いているのだろうその男は、泣きも喚きもせず、ただ断罪の時を待っていた。

「…嫌だ。……この男。僕が憎いのはこいつだけだよ。悪いのはウルスじゃないだろ?」


「…あれから僕は、最初に口淫をしてもらわないと達することができなくなった。…この意味が分かるかい?」

そういえばウルスは、後ろでする前に必ず口に入れさせたがる。

湯浴み場で経験した、ヴェダによるその行為がウルスの心に焼き付いてしまった、ということか?


「私は…おかしい。…異常なんだ」

ずっと悩んでいたんだろう。


「あんな、小さな子に、私は、」

苦しくて、でも誰にも言えなくて。


ウルス。

“僕”が“私”になってるの、気付いてる?


僕は座り込んだウルスの前に跪くと、震えている身体をそっと包み込んだ。


「ねぇウルス。…ウルスは僕が口淫するより、その頃の小さなヴェダを思い出した方が興奮するの? …あ、今のヴェダと比べてもいいけど」

「いや、私はアルトの方がいい」

…え、即答?

でもそれなら間違いない。

「だったら大丈夫だよ。ウルスは“子ども”が好きなわけじゃない」

「……そう、なんだろうか」

「“最初に口でしてほしい”ってだけだろう? 僕がいつでも叶えるよ」

昨日みたいな“意地悪”はやめてほしいけど。


一方で、大人の口でも苦しくて顎が外れそうになるあの行為を、6歳のヴェダが“慣れるほど”させられていた、ということに怒りを覚える。

それと同時に、

「僕はヴェダを尊敬してる。小さい頃からみんなの役に立とうと頑張ってた彼を」

「…あぁ。私も、心からそう思っている」



「この男はどんなふうに死んだの?」

僕の声に、ウルスの背が大きく震えた。

「…あの崖から転落して死んだ…のだと思う」

彼の視線は、先ほど下ってきた獣道の始まりへ。そこから足元の石積みへと落ちてゆく。

「自分1人で落ちたのか、誰かに落とされたのか、その真相は誰にも分からない。発見した時、既にこの場所で死んでいたんだ。…ただ、ヴェダとグードゥヤにはこのことを知らせていない。『旅に出た』とギーウスが話したから」

『獣に襲われた形跡もなく、ただ転落しただけに見える遺体だった』、とウルスは石の山を見つめながら淡々と言葉を口にする。

「蚊遣の効果は切れていた筈だ。酒に酔っていたとはいえ、この狡猾な男に限って『うっかり』はありえないと思う。……そして同時に、その日から狩人を辞め、小屋へ来なくなった男がいる」

僕の喉はゴクリと音を立てた。

「…みんな蚊遣でおかしくなった時、もう1人いたんだ。奥さんと子どもを愛している、力が強くて優しい人だった。彼は正気に戻ると、酷く取り乱して…泣いていた。…おそらく、その人が…この男を」

崖から突き落とした?


「私たちは彼を…真相を追わなかった。…こうしてこの男が死んでいなければ、たぶん耐えきれなくなった私がこいつの背中を押したかもしれないね」


この男はどれだけの人に傷を残したのだろう。


「それなのに私…僕は、その後もヴェダを抱き、君のことも同じように蚊遣の煙で酔わせて抱いてしまった」

あぁそうか。あの日、僕にしたことも悔やんでいたんだ。


「どうしてウルスは、プロキオが蚊遣を大量に使うことを止めなかったの?」

「……ミザールが亡くなってから、絶望に沈んでいた僕たちのところへ、君が来てくれた。君が僕たちに光をくれたんだ」

“光をくれた”だなんて、僕はそんな良いものじゃない。

「僕たちは、ヴェダと同じように、君のことをこの小屋に縛りつけようとした。なんとしても、ここに残って欲しかったんだ…」

でも、“僕がここにいることを望んでくれた”その気持ちは、ずしりと重く冷たくなっていた僕の胸を温めてくれる。


「僕のことは気にしなくていいよ。この身体は快楽に弱いことが分かったし、」

「あれは蚊遣のせいだ」

「…始まりはね。でも、僕はみんなと抱き合っていると、心に空いた穴のようなものを忘れられる気がするんだ」

「…穴…か。僕も同じだ。君と抱き合う時、僕は…」


ウルスは自身の過去を話さない。でも、おそらく高位貴族の筈なのに家を出て、この小屋で暮らしていることから事情は察せられる。

その事情には、“世界一嫌いな男”が関わっているのだろうことも。

木組み細工の“鍵箱”を開いたあの夜から、彼は“貴族的な笑み”ではなく、心からと思われる明るい笑みを見せてくれるようになってきた。

それなのに、


「…不快な話を聞かせてすまない。君の恋人たちには永遠に言えない…そんな酷い話を」

僕の腕の中で、ぼんやりと呟く様は、いつものウルスと違い過ぎて恐ろしい気持ちに襲われる。

その何も映さないような昏い瞳にゾクリと背中が震えた。


「僕は…ここを去ろうと思う」

ギュッと力を込め直し、抱きしめた身体は冷たくて、その声は驚くほど平坦だった。

「それはダメだ…」

「…どうしてだい?」


ここからいなくなったら、彼は命を絶ってしまう。そんな気がした。


「ウルス、僕を見て」

包み込んでいた身体をゆっくりと離し、彼の顔を上げさせる。

色を失った頰。その瞳は潤んで不安そうに揺れていた。


「昨日ウルスが言ったんじゃないか。『ヴェダにとって、この小屋に暮らす皆は家族だ』って」

「…っ」

「“家族を失う恐怖”でヴェダを悲しませるつもり?」

「……」

「離れちゃだめだよ、ウルス。僕がヴェダとグードゥヤを連れて旅立つ日まで、辛くて重い秘密を抱えたまま、これまでと変わらずにここで暮らすんだ」

「……それは、とても重い罰だね」

「僕がウルスに辛い話をさせたんだ。一緒に秘密を背負って生きるよ」

おそらく僕が問わなければ、1人で抱え込んだまま口に出すことはなかった筈だ。


「……すまない」

「僕には謝られる理由がないよ。むしろ、謝らなければならないのは僕の方だ」


『ヴェダの不安を取り除きたい。そのために、不安の根源を知りたい』。

それしか考えず、みんなの過去を暴いて、ウルスの辛い記憶を思い起こさせた。


「ごめんね、ウルス」

頭を下げた僕を見て、驚いたように息を呑む気配がした。

「謝らないで、アルト。……ありがとう。僕の話を聴いてくれて」

顔を上げればその言葉通り、彼の表情はこの場所に来た時より少しだけ明るいものに見えた。

目は赤く、擦ったのか瞼が少し腫れてしまってはいたけれど。


ウルスの身体を支えて立ち上がらせる。朝露に濡れた土で汚れてしまった2人の膝を手で払うが、ベッタリ付いて落ちない。

でも、洗えば大丈夫。

綺麗に落ちるよ。

もしも汚れが残ってしまったら、更に濃い色で染め直せば問題ない。




「このまま“この石積み”は草や木に埋もれてしまえばいい」

蹴り飛ばした岩だけは元の場所へ積み直した。男が2度とこの世へ戻って来ないよう祈りを込めて。


空はすっかり明るくなっていた。

だがこの場所に光が差すことはない。

生い茂った藪の中。

寂しく冷たいこの崖下で、誰にも思い出されることなく、そのまま1人で朽ち果てていけ。


「…そうだね。未来永劫、この男の名を言葉にすることはない。この場所に全て捨てていこう」







「アルト、頬に土が付いてるよ」

『井戸で顔を冷やして戻る』というウルスの背中を軽く手のひらで叩き、1人で小屋に戻るとヴェダが朝食の準備を始めてくれていた。

「あぁ、剣が弾き飛んで草むらに入っちゃったんだ」


『剣の鍛錬をする』とヴェダに言って小屋を出た。だからあの後、無心になるほどウルスと共に剣を振り、刃を潰した練習用の剣で打ち合ってきた。

いつも獣を相手にしているから、『対人戦も忘れないようにしよう』と2人の意見が一致したのだ。


「え…。怪我…してない?」

「大丈夫。どこにも怪我はないよ」

そう答えたのに、ヴェダは食事作りの手を止めてまで心配そうに僕へ近づくと、頬の汚れを濡らした布で拭い、頭から足まで触れながら診てくれた。

最後に汚れた膝を撫でてくれる優しい手。

罪悪感の後、胸がじわりと温かくなる。


「ありがとう、ヴェダ。朝食の支度もありがとう。汗を流して、着替えてくるね」

自然に溢れた気持ちのまま、いつものように笑めば、ヴェダも安心したように微笑んでくれた。




お前が蒔いた“不安の種”は、全て僕が消し去ろう。

僕たちの“家族”じゃない、お前のことなど二度と思い出せなくなるほどに、ヴェダの記憶を染め替えてみせる。


そして、お前のような男を2度とヴェダには近づけさせない。
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