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本編

18・湯殿最終決戦

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ティグリスは体を洗うのが好きではない。
以前はそうでもなかったが、辺境での8年間で体が覚えてしまったのだ。
感覚が鈍るような気もするし、肌まで水や湯が浸透するまで時間がかかる。
時間と水の無駄。それがティグリスの湯あみに対する感覚である。


その上、人は環境に適応するかの如くティグリスは所謂「モフモフ」となった。
脱毛が主流の昨今、頭皮以外は不要とされるのに体毛が多い上に、濃い。
ティグリスは「おしゃれ」には興味がない。これは「防寒」と言い張るのだ。

髪の毛の色と同じなので全裸で光を浴びるとミラーボールほどではないが、キラキラと輝く。決して特異体質ではない。

どうぞと通された湯殿。
桶の湯を頭から被ってみるのだが・・・。

「うーん…水を弾くなぁ。面倒だからいいや」

そのまま湯船にザバンと浸かるとあっという間に湯の色が変わる。
布一枚隔てた向こう側にいる使用人達は顔色を失った。


「何?この臭い…誰か入浴剤を入れたの?」
「その前に!この水の色は何?どうして黒いの?!」
「きゃぁ!この水…何かいっぱい浮いてます!」

湯殿に充満する硫黄の香りならぬ「得も言われぬ香り」に咳き込む者が多発した。

雨と雪、そして川での行水がティグリスの「湯あみ」だったのだ。
王都に来る時は吹雪の中、突き進んで来たのでかなり濡れた。
ティグリス的には「湯あみ済」と同義でどこが汚れているか判らない。

どれほどに汚れているかは女官長クラスなら想定内。
若い頃は「度胸試し」として騎士団の使用する湯殿の掃除が女官最初の試練だった。それを乗り越えているからこそ、湯あみをする習慣は世界共通ではないと理解し文化や慣習の異なる国の来賓たちを「おもてなし」出来るのだ。


しかし今はそんな「試練」は行われていない。
若いメイドや侍女達は「本物の汚れ」を見た事がないので間違いなく想定の範囲外いや、斜め上、次元の違う現実を直視せねばならない。


「湯を入れ替えます。桶の用意を」
「ど、どうするのです?」
「濯ぐのです。ごっそり入れ替えていては時間の無駄。湯船へ桶に汲んだ湯をジャンジャン流し込みなさい」

女官長はチョイチョイと男性の使用人を手招きする。
女性使用人には、「ほどほど」に洗い上がるまでは目の毒いや、気の毒だからである。

「あの、お手伝い致しますが…」
「あなたは今、この布の向こうにいる生物の実態を知らないのです。想像してごらんなさい。今の状態は毛刈りが嫌いで逃げ回って10年の羊が捕まる直前にドブに落ちヘドロまみれと大差ないのです」
「うわ…汚い…」

「4,5回すすぎを繰り返せば、毛玉取りを忘れた野良の長毛猫くらいにはなるでしょう」
「そんなに?!」
「ですが、忘れてはなりません。それは毛玉ではなく体毛。そこからが勝負です。蓄積された埃、ゴミ、垢が湯にふけ剥がれやすくなっているので、今度は湯の色はそこそこなのに沈殿物、浮遊物が多くなります」

「うぅっ…女官長…想像しただけで気分が…ウェェッ」
「大丈夫。湯に浸して敵の体力を奪うのよ」
「はい…長い戦いになりそうですね」

部屋の中なのに使用人の心の中に寒風が吹き抜けていく。


「行くわよ!」女官長の号令に男性従者が仕切りの布を捲り上げる

バサッ!!!

「桶の湯を!早く湯船に!」

「うわっ!なんだ?なんだぁ??」

立ち上がったティグリスに男性使用人は息を飲んだ。
すぐさま女官長が一喝する。

「ティグリス殿下!隠す部分が異なりますッ!」

立ち上がったティグリスは鍛え上げた大胸筋の先端にある2つの双璧をそれぞれ手のひらで隠し、大事な部分は全開だった。

「隠す時はミ●のヴィーナス!空いた手で股間を防御!」
「え?いつから?聞いた事ねぇよ!」

しかし、問題が起きてしまった。

「女官長!水にへんなトロミが付いて排水できません!」
「クッ!トロミとは!そう攻めてきましたか。仕方ありません!不浄用ラバーカップを持って来なさい!」
「はいっ!!」

ティグリスは少しだけ嵩が減った水を足でバシャバシャする。

「ヌルヌルは入浴剤じゃないかったのか?」
「入浴剤?そんなものはこの段階で使えません!そのヌメリ、トロミは外皮を覆っていたもので御座います」

「そうなのか…てっきり入浴剤「藻の香り」が発売されたのかと思った」
「藻では御座いません。それは体毛の揺らぎで御座います!」

「あと、馬用ブラシがあるぞ?清掃係の忘れ物だ」
「それはティグリス殿下の体毛を解きほぐすためのマストアイテムです」
「そうなのか?なら使えば良かったな」
「今はダメです!余計に排水溝を詰まらせてしまいますッ」

布の向こう側で全く怯まない女官長の言葉に女性使用人であるメイドや侍女は涙ぐむ。
こんな一つ順番を間違うだけで大惨事になるような湯あみの手伝いは初めてだし、入浴中に濯ぐ事も、ラバーカップが必要な事も、馬用ブラシがマストアイテムとなる事も人生初経験である。

だが、足元にさざ波のように押して引く水を見た侍女が悲鳴をあげた。

「蚤っ!蚤がいるわ!」
「きゃぁぁぁ!!こっちには蜘蛛の足みたいなのがあるぅぅ」
「ギヤァァ!!」

「それは蜘蛛じゃねぇ!ゲジゲジだっ!」

バタバタと今度は何かが床に倒れるような音がする。
野山を駆けまわり適当に肩や胸元の埃をはたくだけのティグリス。
髪の毛などに絡みついたかつての昆虫の残骸は王都生まれ、王都育ちの女性使用人にはきつ過ぎた。


バシャバシャと男性使用人達に洗われていくティグリス。
女官長の号令が飛び交うそこは戦場だった。

「洗い」と「濯ぎ」が終わる。

この段階で動けるのは体力のある男性使用人の途中交代をした者である。

ここからアディショナルタイムに突入する。
ティグリスを拭きあげて着替えをさせるのだ。

頭をヘッドバンキングしたり、体をブルブルさせて水気を切るティグリスをじっとさせておくだけでもかなりの重労働である。

髭を剃り、無造作に伸びた髪も切り揃えるとちゃんと王族になるのが不思議である。


「王妃殿下、お待たせを致しました」

従者がティグリスを案内する。
エカテリニは従者たちの「やりきった感」に目を細め、賞与を出す事を決めた。


大騒動の「湯殿最終決戦」が終わると、女官長は部屋の隅に置かれた椅子に腰を下ろし燃え尽きた。
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