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★リベットの生涯
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リベット・ルクセンは元々は小作人の息子で名前しかなかった。
14歳の時に、突然始まった戦に武器も持たない使い捨ての兵士として従軍をした。
敵兵の攻撃も防げそうな立派な甲冑を身に着け、風をも切って走れそうな馬に跨った貴族たちは豆粒かと思うほど遠く小高い場で【兎に角斬り込め】の指示を出した後は戦況を眺めているだけだった。
貧しい村の中でもリベットの家はさらに貧しく、食べられそうな草や木の実が主食で川で魚が獲れたりすればご馳走だったし、力尽きた鹿や兎などを見つけた時は捌いて数日乾燥させた後は近くの街に売りに行った。
そのまま売れば肉には税金が課せられてしまうので、干し肉にして嵩を減らし卸の商人に買い取ってもらうのだ。兎一羽で1万メチルほどだが税金は3000メチル。
干し肉にすれば嵩が減るし、手間はかかるが8000メチルになった。鹿ならその5、6倍だ。もし見つかっても役人に2、3切れを渡すと見逃してくれた。
売れた金で鍋や小麦などを買い、それでも余れば母や姉の服を買った。
服はとても高価で着ている服の素材だけで裕福な者か貴族だと認識される。
母や姉のシェーンズは丁寧にならされた麻の新品で1枚5000メチル。状態の良い古着を探すのに父と市場を何往復もする事もあった。
リベットの衣類を買う金などなく、擦り切れて捨てられている麻の古着を蔦などで肩口などを繋ぎ合わせたものを着ていると言うよりは被っていた。靴なども履いた事はなくほとんど素足で従軍すれば服も靴も食料さえ支給されると聞いてリベットは従軍を決めたのだ。
しかし、聞いていた話と違って全てが自給自足だった。
いや【突撃】の指示だけは与えられていたので全てではなかったか。
剣も槍もなく落ちている石や木切れなどが武器だが、相手も似たり寄ったり。
硬い樫の木のそれなりに太い枝を見つけた時は小躍りするほどだった。
1つの戦が終わればそこはもう修羅場だった。我先にと誰もが追い剥ぎになり弔うふりをしながら亡骸となった兵士から色んなものを奪っていった。
14歳の少年がそんな場で3年も過ごせば正常な判断など出来なくなる。
リベットは17歳になった時には、少しきつめだったが甲冑を身に纏い、刃こぼれはしているが鞘付きで剣も手にしていた。
宝飾品の付いた剣などは金になる物を取り外し、換金すると酒場で宴会をするか娼館で遊んだ。体力もありそこそこの武具を手に入れたリベットは有頂天になっていた。
所詮は井の中の蛙大海を知らずであるが、その場では一番戦利品の多いリベットを誰もが持て囃した。
時期的に最後の戦場となった場でリベットは九死に一生を得た。
しかし、毒の塗られた鏃が利き腕の自由を奪った。治療には高価な薬が必要だと聞き、リベットは完治せぬまま次の戦の為に利き腕ではない手で敵を仕留める方法を模索した。
だが、全てが突然終わりを告げる。国同士が協定を結び戦が終わったのだ。
始まりも突然であれば、終わりも突然だった。
リベットは行き場を失い、金も失った。それまで散々リベットの戦利品を売った金で酒、女、博打を共有してきた者達は手のひらを返すようにリベットに冷たくなった。動かせない事はないが、飾りの方がまだ仕事をする利き腕を持つリベットに世間は世知辛かった。
自暴自棄になり、犯罪を犯そうとするリベットに手を差し出したのは先代ツィセンス伯爵だった。行くところが無ければ伯爵家に来ればいいと先ずは下働きとして雇ってくれた上に、相部屋ではあるが住処と、給料から僅かばかりを天引きされるが食事も与えてくれた。
先代ツィセンス伯爵はリベットのような元々は貧しい農夫で戦が終わった後は行き場のない者を多く雇い入れていて、そこで文字の読み書きや算術も【何時かは役に立つだろうから】と教えてくれた。
29歳になった時に、先代ツィセンス伯爵は引退し息子が当主となった。リベットは自分よりも若い当主に仕えた。2年後長女フリライム、そのさらに2年後二女エマが誕生した。
先代ツィセンス伯爵は孫の誕生を喜んだが、数年病臥しており78歳で生涯を閉じた。
『頼まれてはくれまいか』
苦悩するツィセンス伯爵は出会った頃の先代ツィセンス伯爵によく似ていた。
リベットは30以上も年下の若い令嬢エマの唯一の使用人、そして護衛として王都から遠く離れた伯爵領に行くことを頼まれたのだ。
若い頃に稼ぐためだと腹に子を持つ娼婦にあたった事があるが、エマの悪阻は彼女らよりも酷く水すら飲めず、黄色い体液までえずいて吐く始末だった。
過去の記憶を呼び起こし、出来るだけ馬車はゆっくりと走らせて畑を見つければトマトやキュウリを農夫から安く譲ってもらいエマに食べさせた。
『見ていませんよ。私は空を見ていますので』
貴族令嬢としてトマトを丸齧りするなど出来ないのだろう。戸惑うエマにリベットは大袈裟に顔を窓に向けた。後ろでまだ熟れかけても青い部分の多いトマトを齧る音が聞こえた。
妊娠中は好みが片寄るというが、エマは青くてカジカジとしたトマトなら少し食べる事が出来たのが判っただけでも収穫だった。
水も行く先々で清水を汲み、煮沸して冷ましたものをエマに飲ませた。
吐瀉しそうになった時にはサッと上着を脱ぎ、エマのワンピースが汚れないように受け止めた。通常10日で到着する予定が3週間になってしまったが、その3週間があったからこそエマはリベットに心を開いてくれたのかも知れない。
伯爵領での生活はゆっくりとした時間が流れていった。
使用人が通いの料理人と掃除夫しかいない事に戸惑ったが、なんとかエマの着替えと湯あみを手伝ってくれる村娘を雇う事も出来た。
気を付けたつもりでも、長期間の移動はエマの体力を削っており一般的にはもう落ち着いているという悪阻もピーク時よりは軽減した程度で続いていて大きくなる腹とは逆にエマは痩せ細っていった。
献身的に支えるリベットにだけは心を開き、身を預けてくれるエマ。
主従の関係である上に年齢差があると自分を戒めてきたが、生まれてくる子供が怖いと1人で泣くエマを放っては置けなかった。
ただ、抱きしめて髪を撫でて夜を明かす日が続く。
体を繋げることはなくても2人の心が深く繋がり、愛し合う気持ちを言葉で伝えあった。
エマは伯爵家の庭にあった白い紫陽花が大好きだと言った。
『ピンク色の髪をしているのに変でしょう?だけど雨粒が光に当たるとお姉様の髪の色のように見えるの』
『フリライム様の‥‥でも私はエマ、君の可愛いピンク色の髪の方が好きだ』
『リベットだけよ。そんな事を言ってくれるのは。おべっかでも嬉しいわ』
『私は本当の事しか言わないよ』
『うふふ。そうしておくわ』
『信じていない子にはお仕置きだな』
エマの痩せて蒼白になった頬も唇もリベットの優しいキスにピンク色に色付いていく。『信じますっ』とエマが音を上げる頃には指先までピンクにほんのり色付いていた。
リベットは川沿いにある紫陽花の株を幾つか庭に植えた。今は時期ではないがエマと子供と3人で色とりどりの紫陽花を見る日を願って一株、一株丁寧にエマの部屋からも見えるように。
体形が変わっていく事が怖いのではなく、子供の存在が怖いという違和感の正体がわかったのはエマの口から腹の子の父親の名を聞いた時だった。
戦の最中に恐怖や目の前の現実から逃げ出すために薬に手を出すものは少なくなかった。使用回数と依存度は比例していて、薬で気分が飛んでいる時だけが幸せだと言う者もいた。
自らの行為を悔いるエマだが、屈強な男でも陥落するのだ。
間もなく臨月であってもまだ産む事に怯えるエマにリベットは優しく囁いた。
『この子は私の子だ。生まれたら、もっと幸せになれる』
しかし、エマは旅立ってしまった。リベットの胸にはエフローレが抱かれたまま眠っている。我が子として育てると決めたリベットは手紙を書いた。待ちかねた手紙が3カ月以上経ってやっと届いたが、リベットはツィセンス伯爵からの返事を暖炉にくべると翌週には屋敷を出た。
生まれ故郷の貧しい村に生後4か月のエフローレを連れての旅は決して生易しいものではなかった。途中立ち寄った村で男手が欲しいという自分の両親ほどの老夫婦の家に厄介になった。
そこでエフローレを10歳まで育てた。
不自由な利き手を庇い老いた体に鞭を打って働いたが、かの日利き腕の自由を奪った鏃の毒は長い年月をかけてリベットの体を蝕んでおり、もう起き上がる事も出来なかった。
『お父様…今日は山菜を採ってきました。帰り道で隣の奥さんと会ったので菜っ葉の根っこと交換もしてもらったんです。それでね小川沿いにもうすぐ紫陽花が咲きそうです。蕾が出来てました』
エマに似たころころと鈴が鳴るような可愛い声は食事の支度を始めたエフローレ。
リベットはその声を聞きながら瞼を閉じ、60年の生涯を閉じたのだった。
14歳の時に、突然始まった戦に武器も持たない使い捨ての兵士として従軍をした。
敵兵の攻撃も防げそうな立派な甲冑を身に着け、風をも切って走れそうな馬に跨った貴族たちは豆粒かと思うほど遠く小高い場で【兎に角斬り込め】の指示を出した後は戦況を眺めているだけだった。
貧しい村の中でもリベットの家はさらに貧しく、食べられそうな草や木の実が主食で川で魚が獲れたりすればご馳走だったし、力尽きた鹿や兎などを見つけた時は捌いて数日乾燥させた後は近くの街に売りに行った。
そのまま売れば肉には税金が課せられてしまうので、干し肉にして嵩を減らし卸の商人に買い取ってもらうのだ。兎一羽で1万メチルほどだが税金は3000メチル。
干し肉にすれば嵩が減るし、手間はかかるが8000メチルになった。鹿ならその5、6倍だ。もし見つかっても役人に2、3切れを渡すと見逃してくれた。
売れた金で鍋や小麦などを買い、それでも余れば母や姉の服を買った。
服はとても高価で着ている服の素材だけで裕福な者か貴族だと認識される。
母や姉のシェーンズは丁寧にならされた麻の新品で1枚5000メチル。状態の良い古着を探すのに父と市場を何往復もする事もあった。
リベットの衣類を買う金などなく、擦り切れて捨てられている麻の古着を蔦などで肩口などを繋ぎ合わせたものを着ていると言うよりは被っていた。靴なども履いた事はなくほとんど素足で従軍すれば服も靴も食料さえ支給されると聞いてリベットは従軍を決めたのだ。
しかし、聞いていた話と違って全てが自給自足だった。
いや【突撃】の指示だけは与えられていたので全てではなかったか。
剣も槍もなく落ちている石や木切れなどが武器だが、相手も似たり寄ったり。
硬い樫の木のそれなりに太い枝を見つけた時は小躍りするほどだった。
1つの戦が終わればそこはもう修羅場だった。我先にと誰もが追い剥ぎになり弔うふりをしながら亡骸となった兵士から色んなものを奪っていった。
14歳の少年がそんな場で3年も過ごせば正常な判断など出来なくなる。
リベットは17歳になった時には、少しきつめだったが甲冑を身に纏い、刃こぼれはしているが鞘付きで剣も手にしていた。
宝飾品の付いた剣などは金になる物を取り外し、換金すると酒場で宴会をするか娼館で遊んだ。体力もありそこそこの武具を手に入れたリベットは有頂天になっていた。
所詮は井の中の蛙大海を知らずであるが、その場では一番戦利品の多いリベットを誰もが持て囃した。
時期的に最後の戦場となった場でリベットは九死に一生を得た。
しかし、毒の塗られた鏃が利き腕の自由を奪った。治療には高価な薬が必要だと聞き、リベットは完治せぬまま次の戦の為に利き腕ではない手で敵を仕留める方法を模索した。
だが、全てが突然終わりを告げる。国同士が協定を結び戦が終わったのだ。
始まりも突然であれば、終わりも突然だった。
リベットは行き場を失い、金も失った。それまで散々リベットの戦利品を売った金で酒、女、博打を共有してきた者達は手のひらを返すようにリベットに冷たくなった。動かせない事はないが、飾りの方がまだ仕事をする利き腕を持つリベットに世間は世知辛かった。
自暴自棄になり、犯罪を犯そうとするリベットに手を差し出したのは先代ツィセンス伯爵だった。行くところが無ければ伯爵家に来ればいいと先ずは下働きとして雇ってくれた上に、相部屋ではあるが住処と、給料から僅かばかりを天引きされるが食事も与えてくれた。
先代ツィセンス伯爵はリベットのような元々は貧しい農夫で戦が終わった後は行き場のない者を多く雇い入れていて、そこで文字の読み書きや算術も【何時かは役に立つだろうから】と教えてくれた。
29歳になった時に、先代ツィセンス伯爵は引退し息子が当主となった。リベットは自分よりも若い当主に仕えた。2年後長女フリライム、そのさらに2年後二女エマが誕生した。
先代ツィセンス伯爵は孫の誕生を喜んだが、数年病臥しており78歳で生涯を閉じた。
『頼まれてはくれまいか』
苦悩するツィセンス伯爵は出会った頃の先代ツィセンス伯爵によく似ていた。
リベットは30以上も年下の若い令嬢エマの唯一の使用人、そして護衛として王都から遠く離れた伯爵領に行くことを頼まれたのだ。
若い頃に稼ぐためだと腹に子を持つ娼婦にあたった事があるが、エマの悪阻は彼女らよりも酷く水すら飲めず、黄色い体液までえずいて吐く始末だった。
過去の記憶を呼び起こし、出来るだけ馬車はゆっくりと走らせて畑を見つければトマトやキュウリを農夫から安く譲ってもらいエマに食べさせた。
『見ていませんよ。私は空を見ていますので』
貴族令嬢としてトマトを丸齧りするなど出来ないのだろう。戸惑うエマにリベットは大袈裟に顔を窓に向けた。後ろでまだ熟れかけても青い部分の多いトマトを齧る音が聞こえた。
妊娠中は好みが片寄るというが、エマは青くてカジカジとしたトマトなら少し食べる事が出来たのが判っただけでも収穫だった。
水も行く先々で清水を汲み、煮沸して冷ましたものをエマに飲ませた。
吐瀉しそうになった時にはサッと上着を脱ぎ、エマのワンピースが汚れないように受け止めた。通常10日で到着する予定が3週間になってしまったが、その3週間があったからこそエマはリベットに心を開いてくれたのかも知れない。
伯爵領での生活はゆっくりとした時間が流れていった。
使用人が通いの料理人と掃除夫しかいない事に戸惑ったが、なんとかエマの着替えと湯あみを手伝ってくれる村娘を雇う事も出来た。
気を付けたつもりでも、長期間の移動はエマの体力を削っており一般的にはもう落ち着いているという悪阻もピーク時よりは軽減した程度で続いていて大きくなる腹とは逆にエマは痩せ細っていった。
献身的に支えるリベットにだけは心を開き、身を預けてくれるエマ。
主従の関係である上に年齢差があると自分を戒めてきたが、生まれてくる子供が怖いと1人で泣くエマを放っては置けなかった。
ただ、抱きしめて髪を撫でて夜を明かす日が続く。
体を繋げることはなくても2人の心が深く繋がり、愛し合う気持ちを言葉で伝えあった。
エマは伯爵家の庭にあった白い紫陽花が大好きだと言った。
『ピンク色の髪をしているのに変でしょう?だけど雨粒が光に当たるとお姉様の髪の色のように見えるの』
『フリライム様の‥‥でも私はエマ、君の可愛いピンク色の髪の方が好きだ』
『リベットだけよ。そんな事を言ってくれるのは。おべっかでも嬉しいわ』
『私は本当の事しか言わないよ』
『うふふ。そうしておくわ』
『信じていない子にはお仕置きだな』
エマの痩せて蒼白になった頬も唇もリベットの優しいキスにピンク色に色付いていく。『信じますっ』とエマが音を上げる頃には指先までピンクにほんのり色付いていた。
リベットは川沿いにある紫陽花の株を幾つか庭に植えた。今は時期ではないがエマと子供と3人で色とりどりの紫陽花を見る日を願って一株、一株丁寧にエマの部屋からも見えるように。
体形が変わっていく事が怖いのではなく、子供の存在が怖いという違和感の正体がわかったのはエマの口から腹の子の父親の名を聞いた時だった。
戦の最中に恐怖や目の前の現実から逃げ出すために薬に手を出すものは少なくなかった。使用回数と依存度は比例していて、薬で気分が飛んでいる時だけが幸せだと言う者もいた。
自らの行為を悔いるエマだが、屈強な男でも陥落するのだ。
間もなく臨月であってもまだ産む事に怯えるエマにリベットは優しく囁いた。
『この子は私の子だ。生まれたら、もっと幸せになれる』
しかし、エマは旅立ってしまった。リベットの胸にはエフローレが抱かれたまま眠っている。我が子として育てると決めたリベットは手紙を書いた。待ちかねた手紙が3カ月以上経ってやっと届いたが、リベットはツィセンス伯爵からの返事を暖炉にくべると翌週には屋敷を出た。
生まれ故郷の貧しい村に生後4か月のエフローレを連れての旅は決して生易しいものではなかった。途中立ち寄った村で男手が欲しいという自分の両親ほどの老夫婦の家に厄介になった。
そこでエフローレを10歳まで育てた。
不自由な利き手を庇い老いた体に鞭を打って働いたが、かの日利き腕の自由を奪った鏃の毒は長い年月をかけてリベットの体を蝕んでおり、もう起き上がる事も出来なかった。
『お父様…今日は山菜を採ってきました。帰り道で隣の奥さんと会ったので菜っ葉の根っこと交換もしてもらったんです。それでね小川沿いにもうすぐ紫陽花が咲きそうです。蕾が出来てました』
エマに似たころころと鈴が鳴るような可愛い声は食事の支度を始めたエフローレ。
リベットはその声を聞きながら瞼を閉じ、60年の生涯を閉じたのだった。
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