雨に染まれば

cyaru

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★フリライムの涙・クリアラの溜息

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多くの貴族たちの乗った馬車が連なりアプローチが大混雑する中で真っ先に王宮の控室で時を待つルデビット公爵家当主ホルムーアは恍惚とした表情に虚ろな目で愛しい妻の名を呼びながらソファのひじ掛けに頬ずりをする男に近づいた。

頬ずりをしているのはテーパー侯爵家当主スクラープだ。



妻のフリライムはスクラープがどんなに禁断症状に苦しもうが、耐えさせて薬絶ちをさせるのは判っていた。しかしスクラープに与えた薬はホルムーアが思った以上にスクラープをとりこにしていた。

ホルムーア自身もスクラープの仕上がりには驚いたが、それゆえに屋敷内では手に負えない日はそう遠くない未来にやってくると粘り強くテーパー侯爵家を見張らせ、遂にスクラープが移送された知らせに小躍りした。移送先からスクラープを拉致するのは計画通りだったが、夜会までの日数がなかったのが唯一の誤算だ。

夜中は警備をする護衛も気が張っているが、明け方は空が白み始めると人間は安堵するものだ。その時を狙い医院を襲撃させてスクラープを連れ出した。

クリアラの配下である破落戸を使い、自身の手を汚さないのも貴族の矜持とばかりにスクラープを手に入れた。マニュアが役に立たなかったのも想定内。早々に見限った。
マニュアも同じ穴のむじなである。口を割れば例え牢獄に繋がれようと制裁を受ける事は言われずとも知っている。ホルムーアとクリアラとの関係は誰にも喋らず墓まで持っていくだろう。


禁断症状の激しかったスクラープを、に着替えさせたホルムーアはスクラープが満足するまで薬を嗅がせた。廃人のようになっていたスクラープはパイプを見せるなり飛びついて無我夢中で空想の世界の住人となった。


ホルムーアはお楽しみ中のスクラープの耳元で囁いた。

「お前の妻に離縁を唆した男が今日、夜会に参加する。お前の妻を何度も辱め、手に入れるために離縁を唆した男がやって来る」

「ライムが…騙された…ライムが…」


薬は天国にだけ導くとは限らない。その時の精神状態によっては地獄よりも深く落ちる事もある。スクラープは耳元の囁きに地獄の使者の声を聞いた。

テーブルにゴトリと音がする。ドクガエルの体液を塗り込んだ剣は鈍く光っていた。


「妻を寝取る男の心臓を貫け。そうすれば妻はまた髪を撫でてくれる。あの指で髪をすいてくれる時間がお前を待っているのだ」

「ライム‥‥ライムが…あぁ‥何処にも行かないで…」

「泣き声が聞こえないか?鞭で打たれ、白魚の様な指が血で染まる。それでいいのか?」

「嫌だ…ライムは…ライムは…僕の唯一‥」

「そう。お前の唯一を取り戻せ。姪を隠れ蓑にお前の唯一を辱めるフォーズド公爵令息に天誅を」



虚ろな目で口を動かすたびに白い煙を薄く吐き出すスクラープは呪詛のように妻の名を呟く。次第にその目に憎悪が宿るとホルムーアは壁際に立つクリアラの腰を抱いた。


「上手く行くんでしょうね。失敗したら目も当てられないわよ」

「ドクガエルの体液を塗っている。刺す事が出来れば万々歳だが、切り傷でもつけられれば動けなくなるだろう。動けば動くほどに毒は体内に浸潤する。図体のデカいクソガキだ。動きを止められればそれでいい」

「動き?ドクガエルで?直ぐに毒が回って神の足にキスしてるわよ。でもアイツどうするの?暴れ出したら厄介よ」

「放っておいてもヤツはもう壊れている。壊れた玩具に用はない」

「その壊れた玩具を無理やり動かすのに?だけどダンスなんかの前に騒ぎになったら大変じゃない?」

「それでいいんだ。おそらくゲージは貴族たちの前で舞台の幕が上がると考えている。しかし俺も馬鹿ではない。そんな事をすればバカな王子2人が騒ぎ出す。騒然となった中でこの娘が継承者だと言ったところで、殺傷騒ぎのほうに注意が向いてそれどころじゃない。場が続けられなくなったところで、王家の皆様にご紹介と言う訳だ。ゲージんところのガキは始末されてるだろうし、ゲージとその奥方だけなら連れてきた兵士だけで押さえられる。お姫様だけ取り残されると言う訳だ」

「裏の裏だなんて。ふふっ…悪い男ね。大好きよ」


ホルムーアとクリアラの唇が激しく重なり、息遣いが荒くなっていく。

ホルムーアは情事に気を取られ気が付かなかった。スクラープの息遣いも荒くなり、テーブルの上に置かれたナイフを手にしたスクラープは交尾を始めた2人には目もくれず扉を開けて出て行ったことに。






続々と貴族たちが入場を始めた会場をふらつきながら歩くスクラープを誰も気にも留めない。薄汚れた服装でもなく、既にウェルカムドリンクに続いてグラスを手にする者たちの中には、下戸で酔っ払ってしまった者もいるため、ふらつくスクラープも多くの者の目にはただの酔っ払いにしか映らない。

入場の呼び出しをされずとも、先に王宮に入っていたスクラープは難なく会場を彷徨い歩いた。そして愛しい女性を見つけ、真っ直ぐに向かって歩いたが背を向ける隣の男を視界に入れると歩みを止めた。

「‥‥イム…ライム…ライムゥゥ!!!ウガァァッ!!」

スクラープは飛び掛かるようにして剣を振り下ろした。





「あまり飲み過ぎないで。直ぐに帰らねばならないのだから」

「判ってる。飲んだ振りもしなければ怪しまれる。母上も同じようにしてください」

順序でいえば3公爵の次に侯爵家の挨拶の周りになる。家格から言えば侯爵家の中では4番目。3公爵を入れて7番目に国王への挨拶を済ませて、そっと会場を抜け出そうとフリライムと長男は考えていた。

そしてフリライムはもう会場入りはしたのだろうかとエフローレとスティルレインの姿を探した。頭一つ背の高いスティルレインなら見つけやすいだろうと思ったが、見回した中にはいないようだった。

見回す中で、ここにいる筈のない男性ひとの姿が視界に入った。
同時に唸るような叫び声が聞こえた。

「‥‥イム…ライム…ライムゥゥ!!!ウガァァッ!!」



一瞬の事だった。見開いた目で飛び掛かって来る夫はナイフを振りかざしている。フリライムは咄嗟に隣にいた長男を突き飛ばした。

ザシュッ!!

「キャァァァ!!」

どこかの令嬢だろうか。金切り声が響く中、振り下ろされたスクラープのナイフは長男を突き飛ばした事で庇う形になったフリライムの背を切り裂いた。

氷の刃かと見紛うような痛みと衝撃に倒れそうになりながらもフリライムは突き飛ばしたことで倒れた長男を庇おうとスクラープの動きを止めるべく細腕でナイフを持つ手を掴んだ。

「母上っ!!」

背後で聞こえる長男の言葉に【逃げなさい!】叫ぶと同時にその刃を手で握った。
ポトトと滴る赤い液体に、フリライムは全身の痺れを感じながらも渾身の力でスクラープの頬を空いた手で張った。

パチン!!

音なのか、それともその目に映った姿なのかスクラープの目が泳いだ。スクラープは驚いたようにナイフから手を離すと尻もちをついて自分の両手の手のひらを見てわなないた。

フリライムは目の前で怯え始める夫に、刃を握ったナイフを手のひらを広げて床に落とすと歩み寄ろうとした。が‥‥その場に膝から崩れ落ちた。

体が動かないのだ。力も入らない上に息が出来ない。
息を吸い込もうとするのだが上手く吸い込めない。

全身も痛くて、体を丸めようとするのだが全く動かない。
目の前が白く濁りはじめ、ヒュッヒュッっと辛うじて息をする自分の音だけが聞こえる。

そして訪れた静寂。誰かが「母上」と呼んでいるような気がする。息子は無事だろうか。そう思う意識が水が流れるように薄れていく中、痛みも和らいだ気がした。


――あぁ…死ぬのだわ――


そう感じた時、幼い頃の息子たちが自分を覗き込んでくる丸い顔が浮かんだ。
成長の過程が走馬灯のように目の前に次々と流れていく。


そして甘く鈴が転がるような声が聞こえた。

『お姉様、髪が上手く結えませんの。手伝ってくださいませ』

幼いエマがピンク色の髪を必死で櫛ですき、上手く結べないと口を尖らせていた。


『お姉様、今日からお姉様とお揃いの学園生ですわ』

満面の笑みで教科書を胸に抱いて、早く一緒に行こうと馬車まで腕を引かれた。


『お姉様のような銀髪が良かったなぁ…』

散策に行った湖の水面が光を反射して輝くのを髪にたとえ羨ましがっていた。


『お姉様、大好き』

口を尖らせたり、頬を膨らませたりと百面相に忙しくても最後は甘える笑顔だったエマ。次々に記憶の中のエマがフリライムに語り掛けてくる。

――ごめんね。せめてエフローレは立派に送り出したかったのに、お姉様、何も出来なかったの。ごめんね。ごめんね。エマ――



阿鼻叫喚の場と化した会場で長男がその身を掻き抱きかきいだき、母をこの世に留めようと声を限りに叫ぶがフリライムの心臓はその拍動を止めた。

フリライムの頬に涙がつたって落ちていった。
フリライムは39年の生涯を閉じた。




情事を終えたホルムーアはスクラープの姿が見えない事に慌てた。
従者と共に姿を探すが部屋の中には見当たらない。そうこうしているうちに会場の方から幾つかの家の貴族たちが不満と怯えを口にしながら各々の控室に戻ってきた事から騒ぎを知った。

騒ぎの真相を知り、壁に思い切り拳を叩きこんだ。

「何をやってるんだ!」

大きな誤算だった。
部屋を抜け出したスクラープはフリライムの隣にいる男を狙ってしまったのだ。
夜会が中止になる事だけが計画通りで、その他は全てイレギュラーな出来事で取り返しがつかない。

寄りにもよって、エマの子供だと証言をしてもらわねばならないフリライムの死は痛手だ。そんなホルムーアを見てクリアラは冷めた溜息を吐くと「お別れよ」と言い残し出ていった。

立場が立場なら王女であったクリアラは14歳を前に家出をしてからは裏家業で生きてきた女である。沈む船に縋って良い事など万に一つもない事を経験で知っている。
火の粉が飛んで来る前に泥船からは退船して、王女は一時の夢だったと今まで通りの生活をしたほうが余程健康的だとホルムーアに別れを告げたのだった。
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