では、こちらに署名を。☆伯爵夫人はもう騙されない☆

cyaru

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最終章☆それぞれの立ち位置(22話)

はじめてのマル

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架空、創作の話です。現実世界と混同しないようご注意ください。

この章は最終章となりますので第一章から第四章のインシュアの保険販売とは読んだ時の受け取り方(感じ方)が変わるかも知れません。

中間にあるライアル伯爵家日記に近いと思って頂いて構いません。

架空、創作の話です。現実世界と混同しないようご注意ください。




◇~◇~◇

署名捺印をしてもらい、6日後離れの権利がインシュアになった事を示す通知書が届いた。発送された2日前に譲渡が完了したその通知である。インシュアの元に来た時には開封済みであった。大変失礼な話だがインシュアは気にしない。

この離れの土地と家屋についての権利譲渡についてはライアル伯爵もベンジャーも納得済みなのだ。開封して間違いがないから現にライアル伯爵もベンジャーも離れに押しかけて来ていない。

そろそろ通知が届く頃だと思っていたインシュアは早めの帰宅で通知書を確認すると、また出かける準備を始めた。

「あの‥‥どちらへ?」

「仕事の用事を思い出したのよ。何かあるの?」

「いえ…お客様が…お客様と言いますか…」

ルーナが言いよどむという事は、やってきた人物の特定は顔を見るまでもない。ヨハンだ。

本宅では【坊ちゃま】【ヨハン様】と呼ばれているが、ルーナはインシュアの立場を理解している。ヨハンはインシュアの子供ではない。そしてインシュアは当主となったベンジャーの妻なのだ。
爵位譲渡の事は数日前にライアル伯爵がベンジャーに譲ったと使用人全員の前で告げた。
王宮から正式な通知書が来るのはもう数日後になるだろうが、送られてくるのは書状である。
書状に書かれた日付は申請を出した日と同じで不備があれば一両日中に直接王宮から役人が来るので使用人に伝えたという事は爵位は譲られたという事である。

ヨハンはまだ養子縁組もされておらず立場は平民。
坊ちゃまと呼べば、インシュアの妻としての立場を否定する事になり、様を付けて呼べば身分社会を否定する事になる。

「そう、通して差し上げて」

「かしこまりました」

ペコリと頭を下げてルーナが玄関に向かうとまだたどり着いていないだろうにバタバタと走る音が近づいてきた。ヨハンは廊下を走っているのだろう。

「おばさん、来た!」

「はぁぁ~。あのねヨハン。玄関から挨拶まで。全てダメです」

「どうして?」

「まず、学院で言われた事はありませんか?廊下は走らないと」

「言われた‥‥いつも言われる‥‥」

「どうしてダメだと言われるのかが判りますか?」

「廊下は走るところじゃないから」

「それは結果です」

「結果?」

「走る事で加速が付きます。だから目的地まで歩くより早くたどり着ける。判りますね?」

「わかる。そんなの当たり前だ」

「走る事で人間は視野、つまり目で見える範囲が狭くなります。実際に見えているのは歩く時とほぼ同じですが、走ると目的地までを意識しますのでグッと何かあった時に反応できる範囲が狭くなるのです。だから人にぶつかるのです」

「でも、それは途中の教室とかから出てくるヤツが悪い」

「違います。歩いていればぶつかりません。廊下を歩く者は教室から誰か出てくる事が判りますし、教室から出る人も廊下を歩いている人がいると判るんです。ですが、廊下を走っているといなかった人が突然目の前に現れるわけです。走っていれば前しか見ていないので横から出てこようとする人を見えているのに無視するのです」

「そっか…だからぶつかっちゃうんだ」

「そうです。確かにこの離れにはわたくしとルーナしかおりません。ですがだからと言って廊下を走って良いかと言えば違います。走ってはダメなのは学院の廊下だけではなく全ての廊下です」

「わかった。次はちゃんと歩く。走らない」

「よろしい。次に挨拶です。さきほど【おばさん、来た】と言いましたよね?」

「うん。言った。よく覚えてるね」

「ここに来る時は案内をする者の後ろを歩くのです。案内をする者が扉をノックしわたくしにヨハンをこの部屋に入れてもいいですかと聞きます。許可が出れば部屋にはいり、朝なら【おはようございます】昼なら【こんにちは】から始まって【ヨハンです】と名乗るのです」

「そっか‥‥そんな事誰も言わないから」

「いいえ。あちらの御屋敷でも執事さんや侍女さんはそうしている筈です。思い出して御覧なさい。食事です、湯殿の時間ですと呼びに来てくれる侍女さんたちを」

「えっと‥‥そう言えば‥‥うん…失礼しますって言って名前を言って食事ですって言う」

「これは使用人だからではありません。人だからです。判りますか?」

「わかる」

「よろしい。それで今日はどうしたのです?もう夕食の時間ではないですか?」

「そうなんだけど‥‥お爺様とお婆様が昨日から屋敷の荷物をいっぱいにしてて母様と食べなさいって言うんだけど…母様と2人だから嫌だなって思って…。母様お皿とか投げるしすぐ怒るしお酒飲むし…お父様を待つと眠くなるし…話しかけても五月蠅いっていうから。それは良いんだ。1人でも食べられるから!」


インシュアは絶句してしまった。これでは甘やかしていると言うよりも虐待ではないか。
しかし困った事がある。離れには簡単な給湯室はあっても調理室はないのだ。当然シェフもいない。
菓子などは購入して持ち込まねば、お茶を飲む程度にしか口にする物は用意できない。

それよりもこの子には食事などよりも愛情が必要なのだ。
だが、その愛情を注げるものはヨハンをどうにでも扱っている。
インシュアを離れに追いやり、養子縁組をする為の結婚までしたのにこの子への仕打ちはどういう事なんだろうか。理解に苦しむ。


「ヨハン、あなたは何歳になりましたか?」

「えっ?10歳だけど?‥‥違う、10歳です」

「もし…だけどお父様とお母様、離れて暮らす事になってもヨハンはちゃんと出来ますか?お勉強やマナーなどです」

「うーん…平気かな。お父様は滅多に見ないし、お母様は劇見たり宝石とか服を何度も着替えたりで2人とも僕が行くとすごく怒るし、叩くんだ」

「たっ叩くって‥‥」

「お父様は手だけど、お母様は棒で叩く。ここも叩かれた。お母様はお爺様も叩いてたよ」

そう言って腕まくりをするヨハン。その腕は赤い痣、紫の痣だけでなく黄色くなっている痣もある。つまりはなんらかの暴力が日常茶飯事だという事である。
何よりも最悪なのは、ヨハンがそれを「いけない事」だと認識しておらず、当たり前のことだとも考えている事である。善悪ではなく日が昇れば明るく、陽が沈めば暗くなると同じような考えなのだ。
なので、痣があるのも「親が良くない事をしている」という考えがないので、サッと他人に見せるのだ。

インシュアはヨハンの痛々しい腕を優しく撫でた。

「ヨハン‥‥これはね…凄くいけない事なのです」

「いけない事?」

「そう。いけない事。だってヨハンはさっきの廊下の事も、この前来た時に水を飲むときの事も口で言葉にして話をすればちゃんとわかったでしょう?」

「そりゃわかるよ。おばさんの話は判りやすいもの」


「ありがとう。だけどこれはいけないわ。ねぇヨハン。もう一度聞くわ。お父様とお母様、離れてもヨハンはちゃんと出来ますか?ずっと離れ離れではないの。ヨハンが会いたいと言えば会える。答えは色々あるのよ。

離れて暮らしてもいい、離れて暮らすけどたまには会いたい、一緒に居たい、一緒に居たいけどたまには離れたい。ヨハンが好きに選んでいいの。ただ選んだ答えにはヨハンの強い気持ちが必要よ。
とっても難しい事だから、ゆっくり考えていいの。慌てずにそうね‥‥あと2カ月もすれば学院が夏季休暇に入るからそれくらい長く考えても良いの。
今すぐにでもヨハンを安全な所に連れて行くのが一番なのだけど…どうする?」


「うーん‥‥学院もあるし‥‥ちょっとなら我慢できる」


「ヨハン、我慢はしなくていいの。してはダメ。いい?今度お父様やお母様に叩かれそうになったら、叩かれる理由は何でもいいから、叩かれる前に逃げてここに来なさい。玄関は開いてなくてもこのテラスのこの窓はヨハンの為に開けておくわ。ここに入ったら鍵を締めなさい。わたくしは夜遅くなるけど帰るから」

「うん。判った。それでね、今日はこれを見せに来たんだ」

そう言って学院での小テストだったのだろう。5問のうち1問目だけに赤いマルが付いていた。

「初めてわかったんだ。先生の話を聞いてたらこの問題が解けたんだ」

「凄いわね。よく頑張ったじゃない」

「今までマルは貰った事がなかったんだ。それでね!自分の名前に赤い字がないんだ!」


そう、ヨハンは自分の名前もスペルが間違っていたり抜かっていたのだ。
普通は自分の名前を間違わずに書けるのは当たり前なのだがヨハンにはそうではなかった。

問題を正解したのも初めてだったのだろう。
頬を紅潮させて満面の笑みのヨハンをインシュアはそっと抱きしめた。
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