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VOL:16 リシェルの説得とハンカチのシミ

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アルミ伯爵がキジネ公爵家を後にすると、ミケネ侯爵とキジネ公爵はリシェルを呼んだ。


「リシェル。カスタード王国に行く気はないかい?」
「カスタード王国ですか?えぇっと…どなたかの侍女としてですか?」
「侍女としてではないよ。リシェルには事業の窓口として赴任して欲しいんだ」
「むっ無理です。私は経営の事なんか全然判りません」
「経営陣は他に編成するから大丈夫。今まで通りラカント殿下やカスタード王国のもう1人の王子パルス殿下との橋渡しをして欲しいんだ」

突拍子もない話にリシェルは困惑した。

「困るよね。うん。それは判る。でもね、おそらくリシェル以上にラカント殿下と踏み込んだところまで話が出来る者は誰もいないと思うんだ。新しく取引を始める際にはどうしても「警戒」という大きな壁がある。リシェルはラカント殿下のその壁を乗り越えている。その力を貸してほしいんだ。ラカント殿下はリシェルの女性としての視点には大いに着眼してるからね。褒めてたよ」

「わ、私はただ側付侍女としての話をしているだけで壁を超えているだなんて!」

キジネ公爵に「ちょっと黙れ」とミケネ侯爵はリシェルに向かって少し身を乗り出した。親代わりでもあるミケネ侯爵が話を一旦切ってくれた事にリシェルが安堵の表情を浮かべた。


「リシェルが嫌なら断っていいんだ。行くにしても修道院に行くような感覚ではなく物見遊山のような軽いつもりで良いし、リシェルはどんな時だって我がミケネ侯爵家の家族だ。物見遊山に飽きたら帰って来てまたみんなと仕事をすればいい。勿論、行かなくても全然問題はない。キジネコはミケネコが黙らせるよ。国を運営するのが公爵家なら国民を家族を守るのが侯爵家の役目だからね」

シッシとミケネ侯爵はキジネ公爵を手で追いやる仕草を加え、立ち上がるとリシェルの隣に座り直しキジネ公爵から庇うようにリシェルの前に腕を伸ばした。


「旦那様、私が行かない事で旦那様に不利益があるのではありませんか?」
「ないよ?うーん。狭い所も探してみてもいいけどないと思うな」


ミケネ侯爵は即答した。
キジネ公爵は顎が外れたように口をあんぐり開けたままになっている。


「でも、キジネ公爵様が…」
「気にしない、気にしない。あれは呼吸過多になってるから口も使って吐き出してるだけ。僕もね子供たちが里子に出ちゃうのは寂しいからさ」


にっこり笑うミケネ侯爵にリシェルは断ったとしてもミケネ侯爵なら守ってくれるだろうと感じた。リシェルだって知っている。僅かな給金を給料日に取り上げていた父親から引き離して、その後もなんら変わらずに接してくれていたミケネ侯爵を。

それ以来父親は給金を取りに来る事はなかった。勿論顔を見に来る事もなかったが。

セルジオと結婚すると言った時も実家には知らせただけだったが、ミケネ侯爵夫妻にはセルジオを合わせた。「リシェルが選んだ道なら応援する」と言いながらも「仕事だけは辞めてはいけない」とこの先子供を身籠っても辞める必要はないし、子供を連れて仕事に来てもいいと言ってくれた。

実際ミケネ侯爵家には使用人の子供たちを預かり、その子供たちに対して文字や算術を教える講師がやって来る。利用しょうがしまいが料金などかからない。
病気の時も家に置いてくるのは心配だろうと病児を預かってくれて医師も看護師もそのために呼んでくれる。

ミケネ侯爵夫妻にとって使用人は上っ面の軽い言葉ではなく、本当に家族なのだ。


――困らないとは言っても――

そう考えたリシェルの頬をキュッと軽く抓んだミケネ侯爵はまた微笑んだ。

「侯爵家が困るんじゃないか。そんな事を考えるのはナシ。リシェルの好きなようにするのが僕と妻の願いだよ」


――好きにしてもいいのなら――

リシェルはミケネ侯爵の笑顔に心がふっと軽くなった。
するとラカントと話をする度に感じていた思いが心の大半を埋めた。
キュッと手を握り、ミケネ侯爵にリシェル自身の言葉を返した。


「行きたいです。行ってみたいです。ただ窓口としての役目は果たせないかも知れません。でもカスタード王国に行って煤を噴き上げる火山や飼われている魚、動物じゃない乗り物…見てみたいです」

「本当に良いのかい?無理をしているのなら――」

「無理じゃないんです。ラカント様と話をしていて…本を読みました。挿絵を見ました。でもその先が知りたいって思ったけれど夢だって。叶えられるチャンスなのだとしたら叶えたいです」

「判った。ならばリシェルの夢を僕は後押しするだけだ。十分に楽しんだと思ったら帰っておいで。もし、もしだよ?リシェルがカスタード王国にずっといたいと思えばそれでもいい。その時はリシェルが面白いと感じた事を時折手紙で知らせてくれるともっと嬉しいかな」


ミケネ侯爵はグルーミングするようにリシェルの髪を撫でて「うんうん」頷いた。

出立するとすればラカントの帰国に合わせてになる。
義兄にはムっとするけれど、ミケネ侯爵夫人とそれまでの間、何度か訪問する事をリシェルに約束した。



「ラカント殿下、リシェルをよろしくお願いします。私には娘となんら変わりありません。殿下を信じ娘を預けます」

「堅苦しいなぁ。言っておくけどお嫁さんには出来ないよ?僕には心に決めた人がいるからね。兄上は…判らないけど。アハハ」

ミケネ侯爵はキジネ公爵と共にラカントに頭を下げ、リシェルを預けた。
出張所についての話も快諾はしてくれたが、当面の間はリシェルを来賓として迎え、先ずはカスタード王国を知ってもらう事から始めるとリシェルの負担も軽くすることも。

一介の男爵令嬢に対しては異例の扱いとなるが、どうしてもここでシュトーレン王国の王族が前を切ったり、事業を第一にしてしまえば友好的な関係も事務的になってしまうと、キジネ公爵もここは一歩引いた。

ラカントの帰国までの間にリシェルは書面上だけのアルミ伯爵家の令嬢となった。

どの国でも本音と建前は存在する。男爵令嬢のままであればそれだけで揶揄する者もいるし、窓口としてのリシェルを下に見ての物言いをする者もいる。公爵家、侯爵家のお墨付きだとしても「たかが男爵家」と蔑まれる。

だが伯爵家ともなれば扱いが変わるし、キジネ公爵がアルミ伯爵を選んだのはその家名の通り「アルミ」という金属を産出する鉱山を所有しアルミを経営の柱として売り出しているアルミ伯爵はカスタード王国でも一目置かれた取引相手。アルミ伯爵家の娘となれば無碍な扱いもされ難いし、心の中は判らずとも表面的には対等に話もしてくれる。


リシェルの実家であるマルセ男爵家はすんなりとリシェルの籍を抜いた。
両親はごねたが既に兄が当主となっていて「黙っていろ」と口出しをさせなかった。

口減らしのために妹のリシェルが売られるようにミケネ侯爵家に奉公にあがったのは知っていたしリシェルの僅かな給金すら取り上げていた事も知っていたが、当時はまだ当主は父親で口出しも出来なかった。

マルセ男爵家はまだお世辞にも裕福とは言えず、借金だらけでリシェルに餞別すら持たせる事は出来ない。ごねる両親の防波堤になることしか出来ないリシェルの兄は「今まですまなかったと。そして元気でやるようにと」言伝を残した。

その手にはもうリシェルも覚えてはいないであろう幼いリシェルが初めて兄に贈った刺繡入りのハンカチが握られていた。色褪せて何度も洗ったハンカチの刺繍はもう色も残していなかったが、ミケネ侯爵家の従者が帰った後、涙のシミを吸い込んだ。
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