エリートドクターと再会したら、溺愛が始まりました

青花美来

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1巻

1-1

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 都心から電車で十五分ほど。高級住宅地と名高いその土地に、それはそれはきらびやかな建物が一棟ある。
 二階堂にかいどう総合病院。
 名前だけ聞けば、よくある普通の総合病院のように思えてしまうそこは、今とても話題になっている病院だ。おそらく、初めてここに足を踏み入れた人物は皆、口を揃えてこう言うだろう。
〝ここはホテルかお城か何かか?〟と。
 中が見えないようになっているおごそかな雰囲気の外観。そのエントランスの向こうには柔らかな光が差し込む広いロビー。さらにその向こうにあるレセプションにはきっちりと髪を束ねた容姿端麗な女性が二人。右には大きなエレベーターが三基。左には夜間面会用の通用口。そこにいる初老の男性は、どこぞのコンシェルジュのように穏やかな笑みを浮かべている。天井にはシャンデリアが輝き、どこからか静かなピアノのクラシックが流れていた。とても病院とは思えないほどきらびやかで上品な雰囲気が漂うここは、いわゆる〝VIP御用達〟の総合病院だ。政財界の重要人物や大物芸能人、さらには世界的に名の知れた大企業の重役などを主な顧客としており、そのVIPのプライバシーを守るべく、万全のセキュリティが敷かれているのが最大の強み。
 外来は基本的に予約制で、入院中もお見舞いに行けるのは事前に患者が許可した人か、近親者の中でも限られた人だけだと言うから驚きだ。
 そんなVIP御用達、いや、VIP専用と言ってもいいかもしれない病院の中を、私は恐る恐る突き進む。外は夏の日差しが肌を焼くようにジリジリと強く照りつけていたけれど、ここは程良く冷房が効いていて一気に汗が引いていった。思わずため息のような息を吐くけれど、私はここにお見舞いに来たわけでもないし、まして患者でもない。もちろんVIPなわけがない凡人の私は、この空間に存在していること自体が場違いなのは自分が一番良くわかっていた。

「本当、どこを見ても落ち着かない……」

 しかし、呼ばれてしまったのだから仕方ないじゃないか。
 きょろきょろと辺りを見回して、自分のスマホとロビーを見比べている私。

「もう……どこにいんのよ……まだかな……」

 おそらく周りからは大分怪しく見えているのだろう。レセプションから出てきた女性の一人が、怪訝そうに私の元へ歩いてきた。

「いかがなさいましたか? お見舞いですか? 患者様のお名前を伺っても?」

 凛とした綺麗な声と立居振る舞いに、凡人の私は圧倒される。

「い、いえ……。あの、お見舞いではないんです」
「……では、患者様でしょうか」
「いえ違くて。紛らわしくてすみません。脳外科医の百瀬傑ももせすぐるに会いたいんです……」

 萎縮しているのが丸わかりで情けないものの、馬鹿みたいに声が震えた。

「百瀬ですか? ……失礼ですが、どちら様でしょうか。本日百瀬宛てにお客様がいらっしゃるとは私共は伺っておりませんが、アポイントはお取りでしたか?」

 一気に私を疑うように目が鋭くなった女性に、肩が跳ねる。

「あ、……すみません、申し遅れました。私、百瀬傑の──」

 続きを言おうとしたところで、「──唯香ゆいか!」と、私を呼ぶ声が聞こえて振り向いた。

「百瀬先生!」

 女性が驚きの声をあげて一礼する中、私はその無駄に高い身長と奥二重の垂れ目を睨み付ける。

「……傑くん! 遅いよ!」
「ごめん唯香。オペが思ってたより長引いた」
「ロビーまで迎えに来てくれるって言うから来たのに。私ここ来たの初めてなんだから、ちゃんと待っててくれないと困るよ」

 なるべく目立たないように小声で文句を言う私をまぁまぁと窘めるこの男に、私は一つため息をこぼす。

「悪かったって。ほら、行くぞ」

 事態を飲み込めていないレセプションの女性に「あぁ、こいつ俺の身内だから。連絡してなくて悪かったよ。こいつに非は無いから責めないでやって」と言い残して去っていく傑くん。

「百瀬傑の従兄妹いとこ春風はるかぜと申します。お騒がせして申し訳ございませんでした。失礼します」

 私も慌てて深々と頭を下げてから、すでに数メートル先を歩いている傑くんの後ろを追いかけるように足を進めた。
 目の前を歩く医者は、百瀬傑。三十五歳。私、春風唯香の従兄妹いとこだ。私よりも十歳年上の彼は、この病院に勤める優秀な脳外科医だ。今もスクラブの上に白衣を身にまとい、すれ違う看護師に何か指示を出している。胸ポケットに入っているであろう端末は、オンコールの度に大きな音を鳴らすのだろう。傑くんが歩けば、看護師や関係者は皆揃って頭を下げたり端に避けたり、敬意を全面に表した態度を取る。この病院で百瀬傑と言えば、脳外科の中でも一、二を争うエリート医師なのだ。
 エレベーターに乗りこむと、傑くんは行き先のボタンを押してくれた。どうやら向かう先は十階らしい。この病院は一階と二階が吹き抜けのロビーとなっており、三階にはコンビニやレストラン、入院患者用の美容室やエステスペースまである。四階から上が病棟で、最上階である十二階は院長室とその他重役の部屋があり、カードキーを持っている限られた人物でなければエレベーターのボタンすら押せない仕組みになっているのだと傑くんに聞いたことがある。
 一切の揺れを感じないまま小さな音を奏でて到着を知らせたエレベーター。開いた扉から降りると、やはりそこはどこぞのホテルのフロアのようなきらびやかな空間で、とてもここが病院だとは思えない。

「すっご……」
「あぁ、これ? なんか院長の趣味らしいぞ」
「院長先生の……?」

 本当はホテルを営業したかったのでは? と思いたくなってしまう派手さに眉をひそめながらも、そのまま傑くんの後ろを少し歩いていく。すると奥にある大きな扉の前で足を止めた。そこはどうやら病室のようで、〝一〇〇五〟と部屋番号だけが記載されている。普通の病院ならその周辺に患者の名前が書いてありそうなものだけど、ここは違うらしい。
 そんなことを考えている間もなく、傑くんは部屋の扉を開いた。

「ちょっと傑くんっ、ノックくらいしなよっ」
「あ? 別に来ることわかってるからいいんだよ。……梨香子りかこ。唯香が来たぞ」
「……し、失礼します」

 ちょいちょいと手招きされて、私も恐る恐る病室に入る。中は十五畳ほどの広い部屋になっており、扉から向かって左に大きなクイーンサイズのベッドがある。その反対側にはソファとテーブル。大きなクローゼットと壁掛けの大画面の液晶テレビ。奥には簡易キッチンに冷蔵庫まであり、病院なのにそこらのアパートよりも綺麗で設備が整っていて驚いた。むしろ私の家よりも豪華だ。もはやここに住めそうな気さえしてしまう。
 そんな部屋のベッドには、私もよく知っている人物がいた。

「……梨香子さん」
「唯香ちゃん、いらっしゃい」

 柔らかな微笑みに、私も肩の力が抜けて口角を上げる。

「唯香ちゃん、ごめんね。こんなことお願いしちゃって」
「いえ、いいんです。些細なことですし、梨香子さんの頼みですから。私で良ければいくらでも使ってください」
「本当にありがとう。助かるわ」

 百瀬梨香子さん。ここまで案内してくれた傑くんの奥さんだ。梨香子さんは現在妊娠九ヶ月で、もうすぐ第一子が産まれる。ここ、二階堂総合病院の産婦人科で入院しているのだ。

「入院生活はどうですか?」
「うん、何もしないでって言われると逆に困っちゃって、ずっと本読んだりテレビ見たりしてるんだけどね。さすがに入院期間が長いと暇で暇で。それにずっとダラけちゃってるから、この子が産まれた後にちゃんと母親が務まるのかすごく不安なの」

 妊娠後期になって急に血圧が上がってしまった梨香子さんは【妊娠高血圧症候群】と診断され、お腹の中の赤ちゃんに危険が及ばないように大事をとって入院することになっていた。
 すでに一ヶ月ほどが経過しており、幸いにも今は安定しているため、もう少し経ったら予定帝王切開で出産する予定だ。
 そんな梨香子さんの元に、何故私が呼ばれたのか。

「本当にごめんなさいね。突然、着替え持って来て、だなんて。仕事で忙しいのにわざわざ届けてもらって申し訳ないわ」
「いえ、傑くんじゃ忙しくてそんな暇無いでしょうし、全然大丈夫ですよ。……むしろ私が勝手にクローゼット開けちゃって本当に良かったんですか?」
「うん。唯香ちゃんなら全然良いの。助かったわ。ありがとう」

 梨香子さんが入院前に用意していた、出産時やその後に使う予定の洋服や下着の数々。まさか出産まで入院することになるなど微塵も思っていなかった梨香子さんは、すぐに退院できると思っていた。そのためその荷物を持ってくるのをすっかり忘れていたらしい。ちょっと、いや大分抜けている人なのだ。最初は傑くんに持ってきてほしいと頼んだらしいものの、断られてしまったらしい。なんでも梨香子さんの産後に少し休暇を取るために今のうちにオペの予定をできる限り詰め込んでいて、家に帰っている暇が無いんだとか。
 そこで白羽の矢が立ったのが、私だった。
 この病院と二人の自宅マンションのちょうど間にある会社に勤務している私。今朝傑くんから電話があり、〝悪いんだけど、梨香子の着替え持って来て欲しいんだよね。今日の十二時半くらいでいいか? 病院のロビーに来てくれれば迎えにいくから〟と一方的に言われて電話を切られた。
 そのまま傑くんに掛け直したところで適当人間の傑くんがもう出てくれないのはわかっていたため、梨香子さんに直接かけ直した。すると平謝りで〝産後に使う着替えやあれこれを持って来て欲しい〟とお願いされたわけだ。
 いつも何かが必要な時は傑くんの母親が持って来てくれるらしいのだが、さすがに義母にクローゼットを探されるのはちょっと嫌だったらしい。義理の従妹いとこである私だって、立場としては似たようなもののはずなのだが、昔から妹のように可愛がってもらっているからだろうか。どうやら私は例外らしい。梨香子さんが入院した時に、〝何かあったら頼るかもしれない〟と言われて半強制的に合鍵を渡されていたものの、まさか本当に使うことになろうとは。

「じゃあ、私は会社に戻ります」
「ごめんね、唯香ちゃん。忙しい時に」
「いえ、全然大丈夫です! また何かあったら言ってくださいね」
「ありがとう」
「あ、唯香、帰る前に悪いんだけどちょっとした用があるんだ。少しだけ時間いいか?」

 帰ろうとしたところで傑くんに呼び止められる。私は腕時計に目をやり、頭の中でこの後のタイムスケジュールを確認した。

「あー……、昼休み終わっちゃうから十分くらいなら」
「わかった。すぐ終わるから。悪いな、ちょっと移動するぞ」
「うん。……じゃあ梨香子さん、無理なさらないで、無事に産まれることを楽しみにしてますね!」
「ありがとう。産まれたらすぐ連絡するわね」
「はい。じゃあ、失礼します」

 梨香子さんに手を振って、また傑くんの後を追いかけるように病室を出た。

「……プレッシャーかけちゃったかな……」
「ん?」
「梨香子さんに。無事に産まれること楽しみにしてるって」

 ただでさえ入院していて体調面での不安も大きいだろう。無事に産まれてくることを一番望んでいるのは梨香子さんだ。妊娠中はかなりナーバスになるって言うし、入院していれば尚更気持ちの浮き沈みが激しいと思う。予定帝王切開で日にちが決められているからって、その前に陣痛が来たりとかも考えられるわけだし。そもそもお腹を切る恐怖もあるだろう。……他にもっといい言葉があったんじゃないだろうか。そう考えると後悔が募る。
 だけど、傑くんはそんな私を見てあっけらかんとしていた。

「あぁ、まぁな。でも、梨香子は嬉しかったと思うぞ」
「……そう? 怒ってないかな……」
「梨香子がお前に怒るわけねーだろ。そんな弱い女じゃねーよ。大丈夫だからお前は黙って連絡待ってりゃいーの」

 私の頭を雑に撫でて先を行く傑くん。
 傑くんは適当人間だけど、間違ったことは言わないし梨香子さんのことを誰よりも理解している。だから、傑くんが言うなら多分大丈夫なんだと思う。そう思えるから不思議だ。

「ほら行くぞ。時間無いんだろ?」
「あ、うん」

 振り返って笑う傑くんに、頷いてから慌ててその背中を追いかけた。

「ねぇ、ところでどこに行くの?」
「ん? 医局」
「医局!? ……それ私が入っちゃダメなやつじゃん」

 絶対関係者以外立ち入り禁止のやつじゃん。入ったら怒られるやつじゃん。
 思わず立ち止まると、「俺が許可してんだからいいんだよ。つべこべ言わずにちょっと来い」とさっきまでの笑顔はどこへやら、今度は不満気に顎でクイっとしてついてくるように指示する。
 ……本当、従兄妹いとこだからって私の扱い酷くない? 梨香子さんには絶対そんなことしないくせに。まぁそれは当たり前だけど。

「えー……、後から他のドクターとか看護師さんとかに何か言われるの嫌なんだけど」
「言いたい奴には言わせとけ。ムカついたら俺の親戚だって言っとけ。後から俺が黙らせる」
「……」

 そんな横暴な。文句の一つでも言いたいけれど、口で傑くんに勝てるとは到底思えない。十倍くらいで返ってきそうだからやめておいた。
 身内の私が言うのもあれだけど、そもそも傑くんは顔が整っているため既婚者なのにとてもよくモテる。それは職員に限らず、患者さんや病院に出入りしている業者さんまでとそりゃあ幅広くモテているらしい。こうして横暴なところがよく顔を出すし、梨香子さん以外には鬼畜と罵られても仕方ない発言ばかりなものだから、身内としてはどうしてモテるのか理解に苦しむところもあるけれど。腕の良さは確かなため患者からの評判は上々らしい。
 そんな傑くんとただでさえ一緒に歩くだけで噂が一人歩きして面倒なことになりそうなのに、さらにそんな立ち入り禁止のところに私のような部外者が出入りしたとなれば問題視されてもおかしくないだろう。嫌だ、無駄な敵は作りたくない。

「ほら、早く」

 しかし私の些細な抵抗も虚しく、腕を引っ張られて連れて行かれてしまう。エレベーターに乗って十一階に向かうと、廊下を少し歩いた先にある医局の中に通された。

「お疲れ様でーす」
「うっ……、失礼します……」

 痛いくらいの視線を感じる。もう帰りたい。

「誰?」

 と近くにいた医者らしき男性が傑くんに声をかけた。

「あぁ、従兄妹いとこ
「関係者以外入れんなよ」

 ごもっともな言葉に、傑くんは「ちょっと野暮用だから三分だけ見逃して。後でアイス奢るから」とあろうことか物で釣ろうとする。
 いい大人がそんなもので頷くわけないだろう。そう思っていたのだが……

「じゃあ期間限定で昨日発売したばっかりのプレミアムミルクで」
「マジかよ高ぇやつじゃん。しかも下の売店にないやつ」
「よろしく~」

 見事に交渉は成立したらしく唖然としてしまった。
 それでいいの? この病院、セキュリティが売りなんじゃないの!? 医局は別なの!?

「ちょっと傑くん……!」
「あ? 何だよ、ほら早くしろ」
「もうー……」

 突っ込みたくなったものの、変に騒いで問題視されるのは私も嫌なため半泣きで傑くんを追いかけて奥に進んだ。

「これ、俺ん家の書斎に置いてきてくれねぇか」
「書斎? わかった。流石に今はもう時間ないから仕事終わりでいいならいいけど」
「あぁ、それで頼む。悪いな」
「いいよ、ついでだし」

 傑くんのデスクなのだろう、彼が向かった先の机はいろんな書類で散らかっていて、小さな山も出来ていた。その山の一番上に置かれていた大きくて分厚い封筒を受け取って逃げるように医局を出る。

「じゃあ私はもう帰るね」
「あぁ。助かったよ。ありがとう。書類だけよろしく頼む」
「うん。届けたら一応連絡するね。じゃあまたね」
「あぁ。気を付けろよ」
「うん」

 これからまたオペが控えていると言う傑くんとは医局の前で別れ、一人でエレベーターに乗り込む。いくら産後に休暇を取るためとは言え、傑くんは働きすぎじゃないか……? そう思うけど、私が何か言ったところで意味は無いだろう。梨香子さんに後で連絡しておこうか。
 それよりも、予定より遅くなってしまった。お腹は空いたし本当はどこかで食べて行こうと思っていたけれど、これじゃあお昼はコンビニで買って急いで胃に入れるくらいしかできないかな……
 そう思いながらドアを閉めようとした時に、「あ、ちょっと待って!」と声がして、慌てて〝開〟のボタンを連打した。

「はぁ……はぁ……間に合った。申し訳ない。ちょっと、急いでて」
「いえ……大丈夫ですか?」
「えぇ、問題無いです」

 走ってきたのであろう、傑くんと同じような白衣を着た姿が、エレベーターの中に勢いよく飛び込んできた。下を向いて息を整えているから顔はよく見えないけれど、多分、傑くんと同年代のドクターだろう。

「そうですか……。えっと、何階ですか?」
「あぁ、一階お願いします」
「はい」

 どうやら行き先は一緒らしい。今度こそ〝閉〟のボタンを押し、ドアを閉める。
 再び音も無く下がっていくエレベーターの中で、ちらりと隣の影を見上げた。
 百五十センチしかない私とは頭一つ分以上違うのではないかというほどの高身長。清潔感のある黒髪は癖毛なのかパーマなのか、見るからにふわふわだ。

「……ん? どうかなさいましたか?」

 きょとんとした声と共にこちらを向いたその顔。切れ長の目が鋭く見えるものの、あくびをしたのか、ほんの少し目がうるんでいるような気がした。長い睫毛にもにじんだ涙が少し付いて、なんとも色気のある目元。横からだとよく見える筋の通った高い鼻に、大きな口。
 ……かっこいい。一言、そう思った。

「……あ、いえ、すみません。何でもありません……」

 見られていることがバレて、恥ずかしくて勢いよく目を逸らす。

「あれ、貴女は……」

 なのに、彼は私の顔を覗き込もうとしてきて。一歩足を引くものの、じりじり詰め寄ってくる。うるんだ目元を指でぬぐっている辺り、さっきまでは涙であまり見えていなかったのだろうか。数秒前と逆転した立場に、私は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
 そんな時にタイミングが良いのか悪いのか、エレベーターが到着を知らせてドアが開く。

「ど、どうぞ。着きました」
「あぁはい。ありがとうございます」

 下を向きながら手で指し示して、降りたのを確認してから私も足を進める。そのまま逃げるように出口に向かおうとした私を、何故だか彼は後ろから呼び止めた。

「あの!」
「……はい?」
「俺たち、……どっかで会ったことない?」

 急にぶっきらぼうな話し方に変わり、驚いて振り向いた。耳心地の良いテノールボイスが、直接脳に響いて来る。

「……私と、ですか?」
「うん」

 顎に手を当てて、私の顔をじっと見つめる。その眉間はシワが寄り険しいのに、元々の顔立ちの良さなのか、どこか色気を放っているようにすら感じた。

「……人違いじゃないですか?」

 こんなイケメン、一度会ったら忘れるはずがない。なのに、私の記憶上に浮かぶ名前は無かった。ということはおそらく知らない人だろう。そんなことよりも、早く会社に戻らないと午後の業務に遅刻してしまう。コンビニにも寄りたいし、急がないと。

「申し訳ありません。急いでるので、こちらで失礼します」

 その場を去ろうとした私を、あろうことか彼はまた呼び止めた。

「待って」
「な、なんでしょうか?」

 今度は手首を掴まれてしまったから、逃げようにも逃げられない。
 そのまま少しの間黙ったかと思うと、ハッとしたように私を見つめた。

「……三年前。ニューヨーク」
「え?」

 何を言っているのかわからなくて、聞き返してしまった。
 それを聞いて数秒後。私の手首を掴む彼の手に、ほんの少し力が入った。

「やっぱりそうだ。思い出した。髪の色違うからまさかと思ったけど。お前、傑の従兄妹いとこだろ? ニューヨークで会った」

 ニューヨーク? 三年前?
 私のダークブラウンの髪の毛をさらりと触られて、ビクリと肩が跳ねる。

「……忘れたとは言わせねぇぞ? 傑の結婚式の日のこと」

 その言葉で、私の脳裏に一気に様々な記憶が蘇ってきた。
 人には誰しも、忘れたい過去があるとは言うけれど。忘れていた、いや、忘れたつもりになっていたと言った方が正しいだろうか。その記憶が、彼のたった一言で鮮明に思い出された。

「……ま、まさか。あの時の……?」

 わなわなと震えながら、顔がどんどん赤くなっていくのが自分でもわかる。それに対して、目の前の彼はゆっくりと口角を上げ、綺麗な笑顔を作り出す。しかし、それは私にとっては〝綺麗すぎて怖い〟ものだった。

「ご名答。……まさか、こんなところで会うなんてな」

 三年前のニューヨーク。傑くんの結婚式の日のことと言えば、アレしかない。でも、あの日の男性とは少し雰囲気が違うからか、全然気が付かなかった。
 それはそうだろう。あの時は白衣姿ではなく正装だったし、髪の毛もセットされていたのだから。

「なんでここにいんの? 傑に用事?」

 私の手首を掴んだままそんなことを聞いてくる目の前の彼に、私は顔が引きる。

「いや、私は別に……呼ばれただけで……」

 なんで。どうして。そんな言葉しか頭に浮かんでこない。
 どうやら驚きの余り、語彙力がどこかに出かけていなくなってしまったらしい。封筒を掴んでいる手に無意識に力が入り、中で紙が折れる音がした。

「ふぅん? まぁいいや。あ、ちょっと待って、スマホ出して」
「え?」
「早く」
「あ、はぁ……」

 早くと急かされ、動揺したままスマホを渡してしまった。別に見られて困るようなアプリも無いからそこは問題無い。言われるがままにロックを解除し、数十秒操作された後に返されたそれ。一見すると何も変わっていないように見えて首を傾げる。そんな私を見て、彼はニヒルに微笑んだ。

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