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第四話『桜の花びらに落とした唇』
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試合が近づくにつれて、練習は苛烈さを増していった。ウェイトを絞り、その上で体力を温存しなければならないという二重苦。否、空腹との戦いでもあるので、三重苦か。だから自然に、ロードワークのコースから商店街通りは消えた。こんな状態で惣菜屋の前など通ってしまったら、拷問以外の何者でもないからだ。けれど、商店街から足が遠のいた本当の理由がそれでない事は、もう自分の中じゃあ明白で。
本音と建前。 洋介は、その前で只管に頭を抱えた。
店に寄ってなにするんだよ。挨拶?してどうするんだ、そのあと。
ーーー声だけでもいい。聞けるなら。あの人の笑顔が向けられるだけで、充分力になるから。
でも、いい匂いしたら、腹に響くし。
ーーーシャンプー?それとも柔軟剤?何使ったら、あんな甘い香りになるんだろう。
あの人、いつも俺を揶揄う事ばっかり言うし。
ーーーだけど、そこがさ。素直じゃないとこがさ。
(いや、やっぱり駄目だ)
会いたくない。
ーーー会いたい。
(でも)
どんな顔していればいいのか、なんだかもう分んないし。
ーーー会ったら変なこと口走りそうで。
なに話したらいいか、とか。いやいや中学生かよ。
ーーー変に思われたら嫌だ。
「……辛い」
交錯し、塗り潰される思考。色で言うと、混ざりに混ざって一色。黒。試合に向けて集中しなければならない。なのに、頭に浮かぶのは、彼の事ばかりで。
『勝てよ、絶対』
去り際に見せられた、笑顔ばかりで。
「……何やってんだ、俺は」
時間にして二週間。距離にして約4500m。季節は春。爛漫の桜並木を抜けて、洋介はいま、『cafe & deli amande』の店先に立っていた。走ってきたので当然息が荒い。一旦、盛大な溜息を吐いて人心地つかせてから、店の中に視線を向けた。
幻の様に、彼はいた。
レジカウンターの向こう側。ヴィンテージ調の椅子。それに腰掛けて、柱にもたれ掛かって目を伏せている。居眠りをしているなんて、珍しい。仕事には、真面目な人なのに。
そっとガラス戸を開けて、中へと進む。レジカウンターの前に立つと、開け放たれたガラス戸から、風に乗って桜の花弁が店内へと忍び込んだ。
ひらひらと、それらは宙を舞い。洋介の背後から、彼のいるカウンターの内側へと流水の様に流れていった。一片の花弁が、彼の頭の上に、ふわりと音も無く乗ったので。洋介は、ふと口許を和ませてから。腕を伸ばして、それを掬い取った。地肌に指先が触れないよう、そっと。
滑らかで艶のある髪が、指の間をするすると抜けていく。洋介はその心地良さに眩暈を覚えた。
「……ん」
彼の眉間に軽く皺が寄ったので、起こしてしまったかと、内心ひやっとした。だが、またすうすうという、か細い寝息が規則的に聞こえ始めたので、洋介はほっと胸を撫で下ろした。
こんなに至近距離で、彼の顔をまじまじと見るのは初めてだった。きめの細かな肌膚は透き通るように白く、いっそ不健康にも見える。瞼が閉じられているので、細めがちなその目を見る事は叶わないが、そのかわり睫毛の長さが強調されていた。
閉じられた薄紅色のふっくらした唇。一度かちりと標準を合わせてしまったが為に、洋介は、そこから視線を動かす事が出来なくなった。
触れたい。
なぞりたい。
どれだけ柔らかいか、確かめたい。
不埒な衝動が、胸に迫った。それを既の所で押し留める。どうにかこうにか堪えると、指先で摘んだままの花弁に無理矢理、視線を向けた。
そこだけ、かぁ、と熱を孕んでいるようで。
だから洋介は、もう諦める事にした。
間違いようもなく。
どうしようもなく。
名前も素性も知らない、この人の事を。自分は。
(認めるしか、ないか)
目を伏せて。
生まれた熱を吸い取るようにして。
その花弁に一つ、唇を落とした。
試合が近づくにつれて、練習は苛烈さを増していった。ウェイトを絞り、その上で体力を温存しなければならないという二重苦。否、空腹との戦いでもあるので、三重苦か。だから自然に、ロードワークのコースから商店街通りは消えた。こんな状態で惣菜屋の前など通ってしまったら、拷問以外の何者でもないからだ。けれど、商店街から足が遠のいた本当の理由がそれでない事は、もう自分の中じゃあ明白で。
本音と建前。 洋介は、その前で只管に頭を抱えた。
店に寄ってなにするんだよ。挨拶?してどうするんだ、そのあと。
ーーー声だけでもいい。聞けるなら。あの人の笑顔が向けられるだけで、充分力になるから。
でも、いい匂いしたら、腹に響くし。
ーーーシャンプー?それとも柔軟剤?何使ったら、あんな甘い香りになるんだろう。
あの人、いつも俺を揶揄う事ばっかり言うし。
ーーーだけど、そこがさ。素直じゃないとこがさ。
(いや、やっぱり駄目だ)
会いたくない。
ーーー会いたい。
(でも)
どんな顔していればいいのか、なんだかもう分んないし。
ーーー会ったら変なこと口走りそうで。
なに話したらいいか、とか。いやいや中学生かよ。
ーーー変に思われたら嫌だ。
「……辛い」
交錯し、塗り潰される思考。色で言うと、混ざりに混ざって一色。黒。試合に向けて集中しなければならない。なのに、頭に浮かぶのは、彼の事ばかりで。
『勝てよ、絶対』
去り際に見せられた、笑顔ばかりで。
「……何やってんだ、俺は」
時間にして二週間。距離にして約4500m。季節は春。爛漫の桜並木を抜けて、洋介はいま、『cafe & deli amande』の店先に立っていた。走ってきたので当然息が荒い。一旦、盛大な溜息を吐いて人心地つかせてから、店の中に視線を向けた。
幻の様に、彼はいた。
レジカウンターの向こう側。ヴィンテージ調の椅子。それに腰掛けて、柱にもたれ掛かって目を伏せている。居眠りをしているなんて、珍しい。仕事には、真面目な人なのに。
そっとガラス戸を開けて、中へと進む。レジカウンターの前に立つと、開け放たれたガラス戸から、風に乗って桜の花弁が店内へと忍び込んだ。
ひらひらと、それらは宙を舞い。洋介の背後から、彼のいるカウンターの内側へと流水の様に流れていった。一片の花弁が、彼の頭の上に、ふわりと音も無く乗ったので。洋介は、ふと口許を和ませてから。腕を伸ばして、それを掬い取った。地肌に指先が触れないよう、そっと。
滑らかで艶のある髪が、指の間をするすると抜けていく。洋介はその心地良さに眩暈を覚えた。
「……ん」
彼の眉間に軽く皺が寄ったので、起こしてしまったかと、内心ひやっとした。だが、またすうすうという、か細い寝息が規則的に聞こえ始めたので、洋介はほっと胸を撫で下ろした。
こんなに至近距離で、彼の顔をまじまじと見るのは初めてだった。きめの細かな肌膚は透き通るように白く、いっそ不健康にも見える。瞼が閉じられているので、細めがちなその目を見る事は叶わないが、そのかわり睫毛の長さが強調されていた。
閉じられた薄紅色のふっくらした唇。一度かちりと標準を合わせてしまったが為に、洋介は、そこから視線を動かす事が出来なくなった。
触れたい。
なぞりたい。
どれだけ柔らかいか、確かめたい。
不埒な衝動が、胸に迫った。それを既の所で押し留める。どうにかこうにか堪えると、指先で摘んだままの花弁に無理矢理、視線を向けた。
そこだけ、かぁ、と熱を孕んでいるようで。
だから洋介は、もう諦める事にした。
間違いようもなく。
どうしようもなく。
名前も素性も知らない、この人の事を。自分は。
(認めるしか、ないか)
目を伏せて。
生まれた熱を吸い取るようにして。
その花弁に一つ、唇を落とした。
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