〜espoir〜五つ星オーベルジュのオーナーだなんて、こんな僕には向いてません!

鱗。

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第三章 『espoir(希望)』

"おおきく、なったら"

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約5年。

という歳月を掛けて、千秋が見つけ出したという、主寝室のベッドの下に隠されていた回廊は、千秋が、個人の力だけで見出したものではなかった。

玄関ホールから下った先にあるワインセラーとは、また作りの年代が異なる、近代的な仕様となっているその空間には、千秋個人の力を超越した存在が、その双眸に見るに明らかな好奇心を宿して君臨していた。

「よう、千秋に、春翔。意外と早かったなぁ。でも、ここは座る所とか無いから、本音で言えば助かったよ。狭いし、暗いし……亡霊は徘徊するし?」

『沈没船のワイン』
『徘徊する亡霊』

いま思い返せば、その噂の発生源は、いつも彼にあった。簡単な答え合わせが済んだところで、僕は、目の前に立ち塞がる、秘密の部屋の『り人達』に向けて、きっぱりと言い放った。

「いまから、その小さなセラーの鍵を開けます。そして、その中にあるワインを、渡して下さい」 

壁には全面、高品質かつ最先端のワインセラーがずらりと並べられている。その中で、ただ唯一、部屋の前方にある、こじんまりとした小さなワインセラーだけが、鍵穴を有していた。

そのワインセラーの鍵こそ、父親が僕に託した物とみて、まず間違いないだろう。

「ふぅん。で、その後は、どうする?」

「壊します。この場所で。徹底的に」

「そっか、そっか……じゃあ、そっちは?千秋は、どう思ってんの?」

「俺は反対です」

「だよなぁ……」

秘密の部屋の守り人の片割れは、天井を仰ぎ見て、盛大な溜息を吐いた。それに合わせて、その場に流れる緊迫した空気が、やんわりと弛緩しかんしたのが分かる。すると、その撓んだ空気に乗じて、無言を貫いていた守り人のもう片方が、僕達に向けて、ある提案を口にした。

「お前達さ、一回ここを出て、意見統一してから出直して来たら?俺達も、こう見えて暇じゃなくてさ。ここ、寒いし。なんなら、俺も出たいんだよね」

「君に……弘樹に気を取られている間に、輪島さんがセラーの中にあるそのワインをすり替える可能性は?」

「んー、このセラーの鍵は俺達も持ってるし……それが無いとは言えないね」

屈託の無い笑顔を浮かべて、全く、こいつは。けれど、これまで、この場所を守ってきた、勤続年数が一番長いと自負していた輪島さんはまだしも、弘樹までもがこの場所に立ち塞がるとは、予想していなかった。

でも、確かに、この秘密の部屋の管理は、正しい知識と経験を持つ人の手を借りなければ成立しない。だからこそ、同じくソムリエ資格を有する弘樹に、この場所の守り人を任せるのは、納得の領域ではあった。

この小さなセラーに遺されたワインの存在を知った僕や千秋が、どんな行動に及ぶかまで想定して、守り人を父親から任せられた彼らを前にして、僕は、きゅっ、と口をつぐんだ。

それにしても、千秋は、この状況を見越して、僕をこの場所に連れてきたのだろうか。だとしたら、僕達の意見は、当初の段階から完全に決裂していたとみていいんだろう。

『破壊者』と、『守護者』という立場として。

「……まぁ、なんだ。痴話喧嘩に発展する可能性もあるから、正直、よく話し合ってからってのはあるけど。これ以上、変に疑われても面倒だし、いまここで話し合ってみ?」

これだけの大掛かりな秘密をその胸に抱え込んでいた人物だとはいえ、基本的に、義理人情に厚い性格は変わらないらしい。その肩書きと素養から、苦労人な気質にならざるを得なかった我がオーベルジュのシェフソムリエは、お互いの折衷案を懐から取り出した。

けれど、話し合ったからといって、その話の着地点は、一体何処にあるだろうか。僕の中には、歴然とした破壊欲求しかないというのに。

「……春翔兄さんは、あのワインを、どうしてそんなに壊したいんですか?俺達にとって、あのワインは、大切な思い出の品でもあるのに」

話の口火を切ったのは、千秋からだった。彼の母親が遺した日記帳の中身を確認してから、この場所を訪れるまで、ずっとこの調子だ。だから、僕も、僕自身の意思を尊重するために、敢えて強い口調を選んだ。

「僕だって、ワイン自体に罪はないと思いたいよ。でも……そこに込められている意味が、問題なんじゃないか」

「ラベルだけ……俺が生まれ育って、貴方と初めて出逢った場所の、フランスのシャトーの権利書だけを、綺麗に剥がして処分すればいいじゃないですか。何も、中身まで無駄にすることないでしょう?」

ああ、忌々しい。この子を、こんなにも綺麗に、きちんと手懐けて。千秋にとって、きっと、あの男は、時に暴君のように振る舞う時はあっても、基本的には、良き父親であり、良き理解者だったんだろう。だからこそ、幼い頃にした僕達の約束を果たそうと願う千秋の気持ちをんで、自分の理想郷を作り上げ、こんな手の込んだ真似をしながら、僕をまんまとこの場所に招き入れたんだ。

あの父親の、やることなす事が、本当に、気にさわって仕方がない。

このオーベルジュの元の主人が遺した沈没船のワイン。そのラベルには、主人の残した血の手形が、べっとりと染み付いている……そんな、オカルトめいた噂を流し、僕の関心をこの場所に集めようとした、その理由が、その小さなワインセラーの中に隠されている。

そのワインの正体とは。そんなオカルトじみた話とは、まるで別個の存在であることが、千秋のお母さんの遺した日記帳に記されていたんだ。

あの小さなワインセラーに遺されているのは、このオーベルジュの亡き主人が遺した沈没船のワインではない。僕にとっては、そんな血みどろの噂話が付き纏う物よりも、より一層醜悪に感じられる代物だった。

何が、『色褪せぬ希望』だ、反吐が出る。何でもかんでも、自分の思い通りになると思うなよ。

「ラベルに貼られた権利書なんて、僕は全く興味ない。それこそ、千秋の好きに使うといい。でも、母さんと、父さんと、君と、君のお母さんと、僕とで、詰めたワインが……この世に存在していていい、理由ってなに?」

僕達兄弟が、自分達の関係性を正しく認識しないままに仲良く収穫した葡萄を。

丁寧に、時間をかけて醸造して。

夫、妻、養子、愛人、愛息子という、不可解な人間関係にある四人が、仲良く楽しく瓶に詰めたワインボトルに。

自らが領主である、フランスの彼の地の権利書を、血塗られた手形の如く、べったりと貼り付け。

愛人のために築いた牙城の、その地下深くに秘匿し、守り人を用意してそれを守らせ。

仰々しくも鷹揚な態度でもって、僕達腹違いの兄弟に、授けようとする。

その、生き様全てが、何処までも醜悪な人間の手の平で踊ってしまった、自分自身が。

無様で滑稽で、仕方がない。

「だって……」

そんなもの、この世から永遠に無くしてしまった方がいい。例え、千秋にとって、特別で、唯一無二の存在であったとしても。こんなものがあるから、千秋は、いつまで経っても過去に縛られたままなんだ。

そうでなければ、こんな、何も持たない人間に、いつまでも色褪せない真っ直ぐな気持ちを持ち続けてくれる筈がない。

自分以外の誰かが、こんなにも、僕を愛してくれるわけが、ないんだから。

目を覚ましてあげなくちゃ。兄として、しっかりと。お互いが、お互いとして、自立して生きていくために。

二人で手を取り。
寄り添い合って生きていく未来に。
その煌めきに、瞬間、目が眩んだ、僕の。
自分自身の、目を、覚まさなくちゃ。

だから、この場所、全て。
いっそ、この手で。


「楽しかったんです。そこだけが」


なだらかな斜面に広がる葡萄畑が。
辺り一面、黄金色こがねいろに染まった、あの日。


「貴方と過ごした時間だけが、俺にとって、特別で、唯一で、救いで……掛け替えのない、宝物だったんです」


石造りの小屋の石垣の上に、並んで座り。僕達は、一つの葡萄を一緒に食べ、甘いね、と笑いながら、未来を誓い合った。


「早く迎えに行けなくて、ごめんなさい。貴方を、あの大きな家で独りにさせて、ごめんなさい」


"おおきく、なったら"


「貴方を、こんなにも愛して。困らせて、ごめんなさい。でも、俺は」


"ぼくたち、けっこんしようね"


「貴方と、ずっと、家族になりたかった」 


あのとき、キスをしようとしたんだ。

はじめて。
僕の方から。

そして、"いつも、君にばかりキスさせてしまって、ごめんね"って、正直に謝ろうとした。

そうしたら、突然。
君の、大きな麦わら帽子が。
風で、飛んで。
空へ、ふわりと、舞い上がって。
ぽとん、と静かに地面に落ちて。
"わぁ"って、後から、君のこえがした。


「僕も」


コロコロと目の前を転がる、それを追いかけて、僕はそれを、拾いに行った。

息を切らせ、麦わら帽子を手に、"取れたよ"と誇らしげに顔を上げた、先にいた、君は。


「君が、僕の家族じゃないと、駄目なんだ」


いまと、ちっとも変わらない、柔らかな微笑みを浮かべていたね。


小さかった君と僕と。

変わってしまった身長差を、埋めるために。

僅かに首を傾けて、目を伏せて。

僕の腰を抱き、その顎を片手で掬い取り。

この場所と、そこに隠されていた秘密のワインを守り続けてくれた人達に見守られながら。

長い、長い、唇と唇同士が触れ合うだけの、優しいキスをして。

君は、申し訳なさそうに、謝った。


「春翔兄さん……春翔さん、ごめんなさい。貴方に、謝らなければならないことがあるんです」


その一連の流れは、名前の呼び方を変えたその態度は、これから先に待つ僕らの未来の関係性を、言葉にせずとも表していて。


「ふふ……うん、なに?」


僕は堪らず、微笑ってしまった。


「あのセラーに保存されているワインには、シャトーの権利書なんて、貼られていないんです。貴方に、自分から、あのワインのことを思い出して欲しいからと、母と俺で、悪戯を。だから、この場所は、本当はずっと前から知っていたんです。ただ、セラーの鍵だけが、ずっと見つからなくて……父と母と、この二人を説得しても、どうしても渡してくれなくて、何か手掛かりがないかと、館内を探し回るように……」

「だから、亡霊に?」

「……すみません」


君のその奔放ほんぽうさが、僕の目に、堪らなく魅力的に映る。血の繋がらない弟に対して、そんな感情を覚えてしまう自分自身が、可笑しくて堪らない。

けれど、そうか、そうなんだね。

自分の気持ちに素直に、正直に生きることは。自分の胸に、こんなにも血の通った、豊かな感情を宿らせるんだね。


「いいよ。あの人は、君そっくりの、お茶目な人だったものね」

「その顔……もう思い出しているんでしょう?」

「………うん」


いつ。
何処で。
誰と。
そのワインを最後に、この目にしたのか。

その全てが、脳裏に、鮮明に、まざまざと、在り在りと、映し出される。

父親も、母親も、彼女も、君も、僕も。
みんな、幸せそうに、笑っていた。

だから、僕の胸元から取り出した鍵で解錠した小さなワインセラーの。そこに保存されていた、君の手で恭しく扱われる、ゆったりとしたボルドー型の、ひと瓶のワインボトルを目にした、僕の心情は、明らかで。


「僕の字だね」


先代オーナーが。君のお母さんが、このオーベルジュを君に任せなかった理由が、いま漸く分かった気がしたんだ。

このワインを、自分の手で、正か否か、判断を下せる権利を、僕に託すために。

彼女は、自分自身の手で、人生最後の悪戯を、息子と一緒に仕掛けたんだろうな、と。


"春翔、貴方は、『これ』を、どうしたい?"


そう語りかけてくる、彼女の優しい声が、想い出の場所、遥か彼の地、ピレネー山脈から流れるガロンヌ川のせせらぎの如く、いまにもそのワインボトルの中から、聞こえてくるようだった。

色褪せぬ希望。それを、本当に望んでいたのは。未来への希望を、この瓶いっぱいに、ぎゅうぎゅうに詰め込んだのは。



"ぼくたちの けっこんきねんび"



誰でもない、この僕だったんだ。

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