それはとても、甘い罠

ゆなな

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それは、とてもあまい罠

1話

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 日が暮れて時間は大分過ぎたというのに、息苦しいほどに暑く湿った空気が躯に纏わりつく夜の九時。
 予備校で物理の授業を終えた麻生悠は講義が終わり楽しげに会話するいくつかの声に混ざりいつものとおりその自動ドアを出た。
「今日やったとこ来月の定期試験の内容と被るな。麻生はもうとっくに予習済み、だろ?」
 探るような視線を向けてくるのは、都内にある私立の中高一貫校で毎年東大に幾人も合格者を出す悠の高校の同級生であった。
「いや、まだやってなかったよ。忘れないうちに復習はしておくつもりだけれども」
と返した悠に
「今日だって当てられてスラスラ答えられてたじゃないか」
さすが、わが校の主席様だよな、と嫉妬に濁りきった瞳で告げられても、嬉しくも何ともないわけで。
 でも、そんなちいさなことにも傷ついてもいないふりをする術はあの人が教えてくれた。
 足早に駅まで歩く。隣を歩く名ばかりの友人達と一刻も早く別れるために。
  制服で予備校に来る者が多い中、私服にわざわざ着替えて来るには訳があった。見る人が見れば一目で計算され尽くしたスタイルのカットソーとヴィンテージもののジーンズ。だが、お洒落に興味のないクラスメイトたちが見れば、何てことはない無難な洋服に見えるもの。
 だが、その柔らかで軽やかな手触りからブランドに疎い悠でさえ触れてみればとても高価なものだとわかった。そんな高価なものはもらえない、とプレゼントされたときは何度も断ったのだけれど。皮膚が薄くて敏感な悠のために選んだのだと心酔している彼から言われたら、悠は断ることなどできなくて。
 ざわり、ざわりと未だ賑やかな駅前で漸く形ばかりの友人と別れた後、幾つもの飲食店の雑多な匂いが混じり合う駅の裏にあるコインロッカーに勉強道具が入ったバッグを押し込む。野暮ったい眼鏡をケースにしまい、乗るはずの電車が滑り込む駅の改札とは逆方向の賑やかな繁華街に向かった。
 アクセサリーの類いは好きではないが今日のスタイルのアクセントに、と贈られたリング。安い金属ではアレルギーを起こしてしまう悠のために選ばれたプラチナのそれをポケットから取りだし、人指し指にそっと嵌めながら通い慣れた道を歩く。嵌めた人差し指が仄かに熱く感じるのは、とりわけ皮膚が薄く敏感な故であろうか、他に理由があるのか。
 人より皮膚が薄い悠には、澱んだ都会の空気はチクチクと肌を刺すように感じられる。そのため暑くても長袖は欠かせなかった。
 粘ついた空気から逃れるように、自然と足早になる。
 一際賑やかな通りにあるビルの地下に続く階段を降りると、美しい海の中にいるような蒼いライトに照らされた入り口。
『Deep Blue』とだけシルバーの小さなプレートに刻まれていた。およそ店のドアとは思えないシンプルなそれをそっと開ける。
 開いた途端ずしり、と躯の奥深くに響く低音のミュージックが漏れ出す。
 特にそれが好きなわけではなかったが、この音楽を聴くと外の煩わしさとは切り離された深い海の底のような世界に連れて行ってもらえる、そんな気持ちになれる。
 店内の海の底にいるような蒼い雰囲気のとおり、其処の空気も冷んやりと涼やかで、悠はふ……と一息漏らす。すると外界の汚い空気が胎内から消え、躯の中からこの店独特の蒼い空気に満たされていくようだった。
 まだ週の半ばであるというのに、多くの人が犇めくフロアの奥。
 悠が目指すのはドリンクカウンター。
 バーのカウンターのようになっている造り。その前には幾つか脚の長いスツールが置かれている。
 そのドリンクカウンターの中ではこの店のオーナーであるリョウがシェーカーを振っていた。
 グラスを置いたシルバーのトレーが、一番端のスツールの前のカウンターにさりげなく置かれている。それは、この半年ほどで悠の座席であるというマーカーとして置いてくれているのはわかっていた。しかし、勧められることなしに其処に座るのは憚られた。いつもリョウの手元にあるオーダーが一段落するまでは、彼の流れるように美しい所作を眺めて悠は声をかけるタイミングをそっと待つ。
 長いときは30分近く壁に凭れて眺めているだけという日もあるが、悠はその時間は嫌いではなく、むしろ好きだと言えた。
 まだ17歳で勉強が出来るといったこと以外特段取り柄のない悠を、この蒼い海の底をイメージした店の片隅にそっと置いてくれる、Deepblueの若きオーナーであるリョウ。
 通い始めてしばらくした後、こっそり本名は鳴島涼太で歳は今年27になるのだと教えてくれた。
『本名を知ってるお客さまは居ないから、今日から君はお客さまでは、なくなるよ? 』
いいよね?
 そう言ってくれた砂糖菓子のように甘いのに、腰に響くようなバリトン。それと彼のいたずらっぽく瞬いた蒼い瞳を思い出すとじっとしていられないほどそわそわと落ち着かない気持ちになる。
 168センチの悠ならば、立って話すときは完全に首を上に向けなければ視線が逢わぬほど背が高く、瞳は店のテーマカラーと同じ色だ。カラーコンタクトなどではなく、サファイアのように透明度の高い蒼は、一目見たものを捉えて離さない。
 漆黒の髪を時おり掻き上げるときは、その漏れ出る色気に、店の中からきゃあと黄色い声が上がることもあるくらいだ。夜の仕事のせいか、持って産まれたもののせいかわからないが、透けそうに肌が白い。目や鼻や口などといったパーツは、神が特別に細かく計算しつくしたに違いないと言われるほど完璧に配置されていた。そんなリョウが手元のオーダーが書かれたメモを横目で見ながら次々と鮮やかな色とりどりのカクテルを作り出していく様は、いつまで見ていても飽きなかった。
  繊細なカクテルグラスに海に沈む太陽のような色の液体をシェーカーからとくり、とくり……と注いだリョウの指先を悠はうっとりと眺めていた。
 最後まで注ぎ終えたリョウがグラスからつ……と視線を上げた。
 蒼い瞳が悠を捉えて優しい声で呼んだ。
「悠……おいで……」
 悠はまるで自分が飼い犬にでもなった気持ちで彼が用意してくれていたスツールに吸い寄せられるように向かった。
「こんばんは、リョウさん」
 少しだけ掠れてしまった声を恥ずかしく思ったが、リョウはそんなことを気にもかけず
「こんばんは、悠。今日もちゃんと勉強してきたかい?確か……今日は物理の講義の日だね?」
「はい」
 悠が答えると、リョウはその日学習した範囲を聞き、さっと幾つか復習の問題を出してくれる。その場でぱっと考えたものであるにも拘わらず、テストに出題された問題と酷似していたりするから驚きだ。
 悠の前にすっ……とスモークサーモンとケッパーのサンドイッチに綺麗にカットされたオレンジを添えたアイスティーをベースに作ったノンアルコールのカクテルグラスを置いた。
 悠は目の前に置かれた皿にゆっくりと手を付けながら、いつの間にかリョウの不思議な話術に引き込まれあれやこれやと話を引き出されていく。リョウはどんな悠の質問にも納得できる答えをくれた。とりわけ敏感な悠には生きにくい学校生活のことなどはリョウのアドバイスに従って以来驚くほどうまくいっていた。
 いつもふ、と気付くとカウンターにはアルバイトのバーテンダーが入り込み、忙しなく入るアルコールのオーダーをこなしている。リョウはというと悠が来ると客のカクテルを作るのをすっかりやめてしまい、悠との話に興じている……といったことが多い。
 美味しい軽食と悠の好みに合わせて作られたドリンクを飲みながら、予備校で習った分野について、講師が教えてくれなかった面白い雑学を混ぜた話をしてくれるので、悠はうっとりと聞いてしまう。
 夢中になって話を聞いては、悠の質問に答えてもらう。また勉強の話の合間には、煩わしい人間関係の悩みなんかにも的確に答えてくれる。
 美しいリョウに見蕩れながら過ごす楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
 夜も更けて行きカウンター奥のアルバイトの青年達の忙しそうな様子に気付いて悠ははっとする。
「あの……ごめんなさい。俺、仕事の邪魔ですよね?」
 おずおずと告げると、
「邪魔じゃないよ。それに奥ゆかしい君は店が空いている月曜と水曜にしか来ないじゃないか」
と、優しく笑う。
「空いていると言っても、それでも此処はお客さんがたくさん来ていて忙しそうです……」
と、店をくるりと見渡すと
「俺がいいって言ってるんだから、子供はそんなこと気にするんじゃないの」
 めっ、とちいさな仔を叱るようにリョウは悠を見る。
 そんな表情も美しく、ぽやんと悠はリョウを眺めてしまうが、時間は刻々と過ぎてゆく。
「終電の時間……もう行かないと……」
と、悠が席から立ち上がる。
「上に俺の部屋があるから、泊まって行っても構わないよ。たまには閉店まで居ればいいのに」
と、悠の指環が嵌まった指先をつい……とリョウの長い指先が辿ると、それだけで悠の躯は電流が走ったように、びくりと背筋が震えた。
 そんな悠の生れつき色素の薄い茶色がかった髪の毛をポンポンと軽く撫でた。
「ごめん、ごめん…悠は皮膚が薄いから、敏感すぎて触れられるのが苦手なんだよな」
 そう言って此処なら大丈夫?と悠の茶色の毛先を緩くからかうように引っ張るとそれだけで、ぶわりと首筋が淡くざわめき立つのが見てとれたが、リョウは気が付かないふりをして何度も軽く引っ張る。指に毛先をくるくると絡めて軽く引くと、髪からは果実のような甘酸っぱい香りが漂う。
  指を髪に絡めて軽く引くだけで、どんな声が出そうになっているのやら……
 可哀想にあまく上擦る声が出ないように、くちびるを必死で噛み締めているのが、リョウにばれているとは思いもしないのだろうか。
 ああ……押し倒して、全身舐め尽くしたらこの薄い薄い皮膚に覆われた悠の躯は、どんなにかあまい声で啼くのだろうか……そして、このあまい果実のような香りのする肌はどんな味がするのだろうと想像するだけで、リョウは堪らない……思わず唇が渇き、ぺろりと舌で湿らせる。あと、もう少し……色んなことに疲れ果てているこの少年を、甘やかすにいいだけうんと甘やかして。自分なしでは生きられないほどに、なったら……そのときは。
 いつまでも触れていたいと暴れそうになる指先を精神力でもって制して、そっと柔らかな髪の毛からするりと外してやる。
「っ……あ……明日学校が……あるからっ」
  吐息が乱れてあまく上擦ったこの上なく愛らしい声。この程度でこれなら、リョウの手練手管でとろとろにしたら、どんな声になってしまうのだろうか。
「そうだね。だから、金曜日か土曜日においでって言ってるのに……」
でも、まだ逃げ道を用意してあげるよ。
今は、ね……
「週末にっ……俺なんかがリョウさんと貴重なシートを占領するの、申し訳ないです……」
「気にしないでいいって何度も言ってるのに」
 よく気が付いて、賢くて、繊細で、薄い皮膚すぐ下に敏感な神経が張巡らせられているくせに自分に向けられる気持ちにはとても鈍感だ。そして怖がりでちょっぴり頑固な悠。
これは、ちょっとだけ、お仕置き。
 わざと、とりわけ敏感な耳にそっと指を這わせて、そっと柔らかくてちいさな耳朶を引っ張る。
「あっ……」
 不意な愛撫に今度こそ思わず全て漏らしてしまったあまい、あまい声。
 なんて、かわいいのだろうか。
「12時になったから、駅まで送るよ」
 身の内に暴れる獣などいないというようなリョウの声に、あまい声をうっかり漏らした悠は耳まで真っ赤になる。
 皮膚が薄いのでその赤は殊更目立つ。
 カウンター内のバーテンダーの一人に視線で告げてから、従業員用の出入り口に悠を誘う。
  店を出た途端誰かに見られないか、身を固くした悠を隠してやるようにエスコートして駅に向かう。悠はリョウのそんな然り気無い優しさが堪らなく心地よい。堪らなく心地よくされて、リョウの与える溺れるほどにあまやかなものを与えられた後、どうなってしまうかは恋愛の経験など殆どない悠には想像がつかないのも無理はなかった。
「無事に帰れたか心配だから、家に着いたらすぐに電話くれよ?」
「はい……あの……」
 駅の改札で別れ際。今日は水曜日だから、次の月曜日までは会えない。
「お店に行けない日も、電話してもいいですか。英語……教えてもらいたい問題があって……」
 下をずっと向いていた悠が思い切ったように顔を上げた。リョウの蒼い目が驚いたように軽く開いたあと、柔らかく蕩けた。
「構わないよ。ただ、かけてもらっても忙しいと出れないから俺の都合でかけてもいいかな」
 電話を待つ方が、相手のことをたくさん考える。待ってる間、悠はきっと俺のことを……たくさんたくさん考える。
 電話を了承されて
「はいっもちろんです。あの……今日もありがとうございましたっ」
 満面の笑顔に危うく理性が飛びそうになる。
「俺も悠に会えて楽しかった」
 薄い悠の耳にささやくと、びくりと肩が震えてまるで怖がりな猫のこどものよう。
 だが、怖がりの悠を本能のままに貪っては、怯えて逃げ出してしまうだろう。
 じっくり、ゆっくり蕾が綻ぶのを待って。
 全ての逃げ道を塞いで。
 それから……
 リョウの美しい仮面の下、どれほど恐ろしい計画が練られているか気づきもしないまま、その笑顔で何度も振り返りながら改札を駆け抜けていった細い背中を、目を細めて見送った。

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