40 / 70
四章
四十話
しおりを挟む
八千代の心情は複雑であった。
ほっと安堵している自分と辛い過去を蒸し返し申し訳ないと思う自分。
さらに虎之助が生きた十三年間に何があったのかを知りたい自分とそれを虎之助が望むだろうかと不安になる自分。
色々な感情が混ざり合い、八千代の中を圧迫する。
しかし、不思議と苦しいという感情がなく、むしろ充足感の方が大きかった。
「……そんなことは、ないと思うわよ」
八千代が言葉を落とす。
重く濁った空気の中に落とされた言葉もまた重くその場にいつまでも残り続ける。
しかし、その言葉を発した八千代の表情に迷いや苦しみはなく、場に相応しくないほど綺麗に輝いていた。
「……お前に俺の何が分かるんだよ」
虎之助が隣に座る八千代の目を見て静かに言う。
「お前に俺の事は分からない」
言外に、もう関わるな、と釘を刺していた。
八千代もそれは重々承知していた。
「分からないわよ。あなたの過去もその時に感じた思いも……全て分からない。でも……それでも、私はあなたがそんな人間でないことは分かるわ」
その上で改めて否定する。
八千代は分かっていた。
齢十歳という若輩にして、人がもがき苦しみどうしようもなくなった時、人に頼らず自分だけで何とかしようとする人は弱く脆い人間であり、同時に優しく思いやりの強い人間である、と。
それを受けて虎之助がぽつぽつと吐露する。
「そんなことは、ないさ。……もし、俺が生まれていなければ、母がここまで苦労し、体を壊すこともなかったかもしれない。父がいなくなることもなかったかもしれない。そう思うと、何だか、虚しくなってな……」
虎之助にもどうして初めて会ったばかりの人にこんなことを言っているのか、理解できていなかった。しかし、この人なら言っても大丈夫という根拠のない確信を得ていたのだ。
「毎日、その日を生きるのにやれることをやってるけど……本当は俺のやっていることは余計なことなんじゃないか、こんなことしないで、いっそのこと何もかも投げ出して諦めれば、楽になれるんじゃないか、……って時々思うんだよ」
そう語る虎之助の目からは一筋の涙が零れていた。
顎先から落ちる一粒の涙が畳に落ちる。
その跡を辿るように大粒の涙が流れ落ちる。
虎之助自身、泣いているという感覚は皆無だった。
ただただ誰にも話せなかったことを話せている安心が抑制していた心を解放したのだ。
静かに聞いていた八千代がふと口を開く。
「……私はあなたのことが好きよ。人間としても……男女としても」
なぜこの言葉を落としたのか、八千代自身でも理解出来ていなかった。
しかし、この時に言わないと後悔してしまうことだけははっきりとしていた。
「や、八千代様!」
「んなっ! おま、何を……」
突然の告白に寛大が目を見開き大声を上げ、虎之助が涙を流しながら動揺する。
しかし、そんなことなどお構いなしで八千代は真剣な表情で言葉を重ねていく。
「今日会ったばかりかもしれないし、あなたがどんな過去を生きて、今どんな状況にあるのか、正直、話してくれたことを推し量ることしか出来ないから、恐らく違うこともあると思うし、分からないことは多いでしょう」
話しながら八千代は自分の心が熱くなっていくのがありありと感じていた。
「……それでも、あなたが人を思う気持ちや不安に思う気持ちはそのまま、あなたの優しさなのよ。誰でもが持てるわけじゃない。私はそんな気持ちを持てるあなたが好き。だから、あなたが死んでしまったら、私は悲しいわ」
八千代が眉尻を下げて諭すように語る。
照れる様子や憤る様子は一切ない。
その表情はただただ失うことに対する悲しさで満たされていた。
「恐らくあなたの母も同じ気持ちよ」
発する言葉ひとつひとつにこれ以上にない力を込める。
「虎之助、あなたは生きていていいのよ」
静かな部屋の中に八千代の言葉が響く。
自身の思いを吐露した瞬間から心の底で虎之助はその言葉を誰かに言って欲しい、と望んでいたのかもしれない。
誰かに自分が生きることを認めて欲しかったのかもしれない。
虎之助が涙を拭き、鼻を啜る。
生まれて物心がついたその時から、自分は忌み嫌われる存在であることを理解していた。
人よりも酷く小さい体、人と違う瞳、貧乏な家庭環境。
母だけは虎之助の事を大事にし、優しくしてくれた。
考えれば考えるほど悪い方向に向かっていくベクトルを母という楔が現世に繋ぎ止めておいてくれる唯一の希望だった。
しかし、そんな母も流行り病に罹り、いつ命を落としてもおかしくない状態。
虎之助は神を恨んだ。
なぜ自分だけがこんなに辛く苦しい思いをしなくてはいけないのか。
なぜ自分だけがこんなに疎まれ虐められなくてはいけないのか。
自分がここにいなければ母が苦しむことも、こんな思いをすることもなかったのではないか。
そもそも自分が生まれてこなければよかったのではないか。
虎之助はその思いを常に抱えていた。
そんな思いを振り払うかのように無我夢中で動いた。
小さい体に鞭を打ちながら必死に生きてきた。
決して腐ることなく懸命に生きてきた。
今、それが全て報われたような気がした。
ほっと安堵している自分と辛い過去を蒸し返し申し訳ないと思う自分。
さらに虎之助が生きた十三年間に何があったのかを知りたい自分とそれを虎之助が望むだろうかと不安になる自分。
色々な感情が混ざり合い、八千代の中を圧迫する。
しかし、不思議と苦しいという感情がなく、むしろ充足感の方が大きかった。
「……そんなことは、ないと思うわよ」
八千代が言葉を落とす。
重く濁った空気の中に落とされた言葉もまた重くその場にいつまでも残り続ける。
しかし、その言葉を発した八千代の表情に迷いや苦しみはなく、場に相応しくないほど綺麗に輝いていた。
「……お前に俺の何が分かるんだよ」
虎之助が隣に座る八千代の目を見て静かに言う。
「お前に俺の事は分からない」
言外に、もう関わるな、と釘を刺していた。
八千代もそれは重々承知していた。
「分からないわよ。あなたの過去もその時に感じた思いも……全て分からない。でも……それでも、私はあなたがそんな人間でないことは分かるわ」
その上で改めて否定する。
八千代は分かっていた。
齢十歳という若輩にして、人がもがき苦しみどうしようもなくなった時、人に頼らず自分だけで何とかしようとする人は弱く脆い人間であり、同時に優しく思いやりの強い人間である、と。
それを受けて虎之助がぽつぽつと吐露する。
「そんなことは、ないさ。……もし、俺が生まれていなければ、母がここまで苦労し、体を壊すこともなかったかもしれない。父がいなくなることもなかったかもしれない。そう思うと、何だか、虚しくなってな……」
虎之助にもどうして初めて会ったばかりの人にこんなことを言っているのか、理解できていなかった。しかし、この人なら言っても大丈夫という根拠のない確信を得ていたのだ。
「毎日、その日を生きるのにやれることをやってるけど……本当は俺のやっていることは余計なことなんじゃないか、こんなことしないで、いっそのこと何もかも投げ出して諦めれば、楽になれるんじゃないか、……って時々思うんだよ」
そう語る虎之助の目からは一筋の涙が零れていた。
顎先から落ちる一粒の涙が畳に落ちる。
その跡を辿るように大粒の涙が流れ落ちる。
虎之助自身、泣いているという感覚は皆無だった。
ただただ誰にも話せなかったことを話せている安心が抑制していた心を解放したのだ。
静かに聞いていた八千代がふと口を開く。
「……私はあなたのことが好きよ。人間としても……男女としても」
なぜこの言葉を落としたのか、八千代自身でも理解出来ていなかった。
しかし、この時に言わないと後悔してしまうことだけははっきりとしていた。
「や、八千代様!」
「んなっ! おま、何を……」
突然の告白に寛大が目を見開き大声を上げ、虎之助が涙を流しながら動揺する。
しかし、そんなことなどお構いなしで八千代は真剣な表情で言葉を重ねていく。
「今日会ったばかりかもしれないし、あなたがどんな過去を生きて、今どんな状況にあるのか、正直、話してくれたことを推し量ることしか出来ないから、恐らく違うこともあると思うし、分からないことは多いでしょう」
話しながら八千代は自分の心が熱くなっていくのがありありと感じていた。
「……それでも、あなたが人を思う気持ちや不安に思う気持ちはそのまま、あなたの優しさなのよ。誰でもが持てるわけじゃない。私はそんな気持ちを持てるあなたが好き。だから、あなたが死んでしまったら、私は悲しいわ」
八千代が眉尻を下げて諭すように語る。
照れる様子や憤る様子は一切ない。
その表情はただただ失うことに対する悲しさで満たされていた。
「恐らくあなたの母も同じ気持ちよ」
発する言葉ひとつひとつにこれ以上にない力を込める。
「虎之助、あなたは生きていていいのよ」
静かな部屋の中に八千代の言葉が響く。
自身の思いを吐露した瞬間から心の底で虎之助はその言葉を誰かに言って欲しい、と望んでいたのかもしれない。
誰かに自分が生きることを認めて欲しかったのかもしれない。
虎之助が涙を拭き、鼻を啜る。
生まれて物心がついたその時から、自分は忌み嫌われる存在であることを理解していた。
人よりも酷く小さい体、人と違う瞳、貧乏な家庭環境。
母だけは虎之助の事を大事にし、優しくしてくれた。
考えれば考えるほど悪い方向に向かっていくベクトルを母という楔が現世に繋ぎ止めておいてくれる唯一の希望だった。
しかし、そんな母も流行り病に罹り、いつ命を落としてもおかしくない状態。
虎之助は神を恨んだ。
なぜ自分だけがこんなに辛く苦しい思いをしなくてはいけないのか。
なぜ自分だけがこんなに疎まれ虐められなくてはいけないのか。
自分がここにいなければ母が苦しむことも、こんな思いをすることもなかったのではないか。
そもそも自分が生まれてこなければよかったのではないか。
虎之助はその思いを常に抱えていた。
そんな思いを振り払うかのように無我夢中で動いた。
小さい体に鞭を打ちながら必死に生きてきた。
決して腐ることなく懸命に生きてきた。
今、それが全て報われたような気がした。
0
あなたにおすすめの小説
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
ギルド回収人は勇者をも背負う ~ボロ雑巾のようになった冒険者をおんぶしたら惚れられた~
水無月礼人
恋愛
私は冒険者ギルド職員ロックウィーナ。25歳の女で担当は回収役。冒険者の落し物、遺品、時には冒険者自体をも背負います!
素敵な恋愛に憧れているのに培われるのは筋肉だけ。
しかし無駄に顔が良い先輩と出動した先で、行き倒れた美形剣士を背負ってから私の人生は一変。初のモテ期が到来です!!
……とか思ってウハウハしていたら何やら不穏な空気。ええ!?
私の選択次第で世界がループして崩壊の危機!? そんな結末は認めない!!!!
※【エブリスタ】でも公開しています。
【エブリスタ小説大賞2023 講談社 女性コミック9誌合同マンガ原作賞】で優秀作品に選ばれました。
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚
ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。
五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。
ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。
年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。
慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。
二人の恋の行方は……
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
田舎暮らしの貧乏令嬢、幽閉王子のお世話係になりました〜七年後の殿下が甘すぎるのですが!〜
侑子
恋愛
「リーシャ。僕がどれだけ君に会いたかったかわかる? 一人前と認められるまで魔塔から出られないのは知っていたけど、まさか七年もかかるなんて思っていなくて、リーシャに会いたくて死ぬかと思ったよ」
十五歳の時、父が作った借金のために、いつ魔力暴走を起こすかわからない危険な第二王子のお世話係をしていたリーシャ。
弟と同じ四つ年下の彼は、とても賢くて優しく、可愛らしい王子様だった。
お世話をする内に仲良くなれたと思っていたのに、彼はある日突然、世界最高の魔法使いたちが集うという魔塔へと旅立ってしまう。
七年後、二十二歳になったリーシャの前に現れたのは、成長し、十八歳になって成人した彼だった!
以前とは全く違う姿に戸惑うリーシャ。
その上、七年も音沙汰がなかったのに、彼は昔のことを忘れていないどころか、とんでもなく甘々な態度で接してくる。
一方、自分の息子ではない第二王子を疎んで幽閉状態に追い込んでいた王妃は、戻ってきた彼のことが気に入らないようで……。
マチ恋 ―君に捧げるLove song― 一夜の相手はスーパースター。誰にも言えない秘密の恋。【完結】
remo
恋愛
あなたにとっては遊びでも、私にとっては、…奇跡の夜だった。
地味で平凡で取り柄のない私に起きた一夜のキセキ。
水村ゆい、23歳、シングルマザー。
誰にも言えないけど、愛息子の父親は、
今人気絶頂バンドのボーカルなんです。
初めての恋。奇跡の恋。離れ離れの恋。不倫の恋。一途な恋。最後の恋。
待っている…
人生で、一度だけの恋。
【完結】ありがとうございました‼︎
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる