10 / 118
第一章【未来8歳/沙織20歳】
第10話 雨のあとで【未来8歳/沙織20歳】
しおりを挟む
翌日の朝。
私は、部屋のカーテンをじっと眺めていた。
差し込んでくる朝の日の光は、昨日よりも暗くよどんでいる。昨日までは透明だった空気が、今日は少しだけ重たくなったような気がした。
「未来、起きる時間だよ…って、今日はもう起きているのか?めずらしい」
私を起こしに来てくれたお父さんが、もうすでに制服姿でベッドの上に座っている私をみて、意外そうな声をあげた。
「早起きだね」
「…たまには、ね」
嘘だった。
私は早起きしたんじゃない。ただ、眠れなかっただけだった。
でも、お父さんに心配をかけたくなかったから、早起きしたよ、と軽い嘘をつく。
「すぐ行くから、お父さんは戻っていて」
といって、お父さんを部屋から追い出す。
私は、制服のボタンに手をかけながら、部屋にかかっている鏡を見つめた。そこには、私を見つめる私が立っている。
「…ひどい顔」
ぼそりとつぶやく。鏡の中の私も、同じように口を動かす。
まつげの影が頬に落ちていて、瞳の奥には眠れなかった夜の痕が残っている。
こんな顔、誰にも見せたくない。
私はリビングに行く前に洗面所にいって、まずは顔を洗った。
顔を洗って、鏡をみる。
鏡の中の私が私を見つめてくる。
よし…よしっ。
ぱんっ。
私は、自分の頬を叩いた。頬が赤くそまる。じんじんする。
「おはようっ!」
できるだけ大きな声をだして、私は笑いながらお母さんとお父さんの待っているリビングへとむかった。
食卓に置いてあるのは、目玉焼きとサラダ。
いつものようにお母さんはコーヒーを飲んでいて、私の席には牛乳が置いてあった。
新聞を広げていたお父さんが私をみて、口を開いた。
「…未来、顔がむくんでいるぞ…大丈夫か?」
「なんでもないよ…さっき、洗面所でちょっと気合をいれようと思って頬を叩いたから、それで膨れちゃったかもしれない」
「なんでそんなことを?」
「お父さん、女の子にはいろいろあるんだよ」
できるだけ、ごまかす。
それ以上、お父さんは詮索してこなかった。新聞を開いたまま、トーストを頬張っている…ときおり、ちらっと私を見ているのがわかる。私が視線を合わせようとすると、慌てて目を逸らす。
(有難う、お父さん)
と、私は心のなかで思った。
なにか気づいているだろうに、それでも、気づかないフリをしてくれているのが分かる。それが、この口下手なお父さんの、お父さんなりの優しさなんだと思う。
「未来、泣いた?」
そんな空気をあえて読まないのがお母さんだった。
絶対、分かってる。分かっていながら、それでも踏み込んでくる。
「…泣いてないよ」
「ふーん、そうなの」
お母さんはそう言いながら、手に持っていた包丁をトントンと動かした…包丁?今朝の朝食、目玉焼きとトーストなんだけど…包丁つかうところなんて、ある?
「まぁ、あんたがそう言うなら…そうなんでしょ」
そう言って、向こうをむいて、包丁を戻した。
やっぱり、包丁使わないじゃん…何してるの、この人…
「行ってきます!」
私はいつものように赤いランドセルを背負うと、できるだけ大きな声であいさつをした。まるで、自分に言い聞かせるように。
「未来、待ちなさい」
玄関で靴を履いてとんとんとしていた時、後ろからお母さんの声が聞こえた。
私は、ゆっくりとふりむく。」
お母さんは、手に傘を持っていた。
「天気予報で、今日は雨が降るかもしれないっていっていたから、一応、傘を持っていきなさいね」
「うん、ありがとう」
私は手を伸ばして傘を取ろうとした。と、その時。
手首を、お母さんにつかまれる。
「いい未来?あんたはまだ8歳。私はあんたの3倍は生きているんだからね」
真剣な顔。
まっすぐ私を見つめる瞳。
「だから、私は、あんたの3倍は失敗しているんだよ。そんな、失敗の先輩から、失敗の後輩にいいアドバイスをしてあげる」
頭をぐりぐりっとされる。
わしゃわしゃってされる。
思わず顔を見上げたら、そこには満面の笑みのお母さんがいた。
「なにがあっても、お母さんとお父さんは未来の味方だから、だから、安心していってらっしゃい!」
そういって、お母さんは私の腰をばんって叩いた。
いつの間にか、手に傘を渡されている。
「ありがとう、お母さん」
さっきのありがとうと、言葉は同じだけど、中身がまるで違う有難うの言葉をいって、私は大股で家を出たのだった。
■■■■■
昨日とだいたい同じ時間。
昨日とだいたい同じ場所。
そこで、私は前方に見慣れた人影を見つけた。
腰まで伸びる黒髪を一つに束ねて、リュックを背負っている沙織さん。
資料がたくさん入っているのか、そのリュックは遠目からもとても重そうに見える。
焦らなくてもいい。
走らなくてもいい。
私は、ただ、まっすぐ前を向いて、沙織さんだけを見て、ゆっくりと歩いていく。
「おはよう、沙織さん」
「おはよう、未来」
私の姿を見て、沙織さんが笑ってくれた。
それだけで、なんか、もう溶けそうになる。
冷たい風が頬を撫でて、雲の隙間から薄い光が漏れ出していた。
光が、沙織さんを照らしている。
ああ、なんか、もう、これだけで。
私は、幸せなんだ。
「未来…大丈夫?風邪でもひいたの?」
「ううん、なんでもないよ…ちょっと、昨夜眠れなかっただけだから」
「なんでもなくはないよ」
沙織さんは足をとめ、私の肩にそっと手を置いてくれた。
その手の温度が、朝の冷気で縮こまった私の身体をほぐしていく。溶かしていく。
「未来ちゃん、身体は、大切にしてね」
優しい言葉。
暖かい言葉。
私を、大切に思ってくれているのが分かる言葉。
…大切な子供にかけるようなその言葉は、親愛ではあっても、恋心は含まれてはいなかった。
とても暖かくて、とても気持ちいいけど、けっしてそれ以上ではない言葉。
沙織さんは綺麗で。
沙織さんは美人で。
沙織さんは優しくて。
優しくて…優しくて、そして、優しいだけだ。
私の事を、大切な、大切な姪っ子だと。
お母さんの、娘だと、思っている人だ。
「ありがとう、沙織さん…沙織さんも、身体は大切にしてね」
「あはは。未来ちゃんに心配されちゃった」
「だって、昨日から沙織さん、すっごく忙しそうなんだもん」
「ゼミがね…いろいろと…いろいろと大変なんだ…」
そう言いながら、沙織さんは遠い目をした。
疲れている目。
はは、っと笑っているけど、口ほどは目が笑っていないのが分かる。
「私も、昨夜、寝れなくてね…」
「じゃぁ、私と同じだー」
「そうだね。私たち、似た者同士だね」
沙織さん。
本当は似た者同士じゃないんだよ。
私は、沙織さんが好き。
沙織さんも私の事を好きでいてくれるけど…
けど、その「好き」は、違う「好き」なんだ。
それでも、諦められないんだ。
私の中の「好き」は…とめられないんだ。
「未来ちゃん、急がないと遅刻するんじゃない?」
「あ、本当だ。ごめんね、沙織さん。先に行くね」
「うん、気を付けて」
「沙織さんも!」
そういって、私は走り出した。
止めない。
足は、止めない。
とめてなんか、やるものか。
雲の向こうから、かすかな陽の光が零れていた。
■■■■■
教室の空気は、いつもより静かだった。」
静かというか…暗かった。
私が教室についた頃には、窓の外の雲が増えてきていて、朝なのにもう夜が先に来てしまっていたみたいだった。
颯真は席に座ったまま、相変わらず鉛筆をくるくると回している。
美月はノートを開いて、視線を落としたままページの端をいじっている。
ふぅ。はぁ。
私は、息をのんだ。
そして。
「おはよう!」
と、2人に声をかけた。
颯真は一瞬、驚いたように顔をあげたあと、私をみて、それからいつもの笑顔を作った。美月はノートから目をあげて、一回目を閉じて、それから目を開いた。
「…お、おはよう」
「おはよう、未来ちゃん」
2人の声はぎこちなく、それが私の胸の奥をぎゅっと縮ませる。
どこか遠くから、雷の鳴る音が小さく聞こえてきた気がした。
私はもう、それ以上なにもいう事ができなくて。
「あ、もうすぐ、授業はじまるね…私、準備しなくっちゃ」
そそくさと自分の席について、ランドセルからノートを取り出した。
窓の外の雲がゆっくりと流れていく。
黒い雲が渦巻いている。
時間だけが、静かに過ぎていった。
■■■■■
気が付いたら、放課後になっていた。
気が付いたら、2人と話をせずに時間が過ぎていた。
最初のボタンのずれが、そのまま最後までずれていき、気が付いたら、いれるべき穴を失っていた。
外では、雨が降り出していた。
最初はぽつりぽつりとした小さな雨だったのに、今ではけっこうな土砂降りになっている。
傘を忘れた子たちの中で、何人かは濡れるのもかまわずに走って下校していた。
…颯真も、その一人だった。
(…結局、朝の挨拶から何もしゃべれなかったな…)
と、思う。
私から話しかけた方がよかったかな。
でも、無理して話しかけても、微妙な空気になるかな。
…もうすでに、今の雰囲気が最悪なのかもしれないけど…
何かを言われたわけではなく。
何かを言ったわけでもなく。
ただ、たんに、普通に。
目と目を合わせなかっただけだ。
雨の音。
あまりにも雨の音が大きくて、雨音に包まれて、静かだった。
(こんなことで、終わっちゃうのかな)
ちくん。
胸が痛んだ。
終わる時って、劇的に終わるわけじゃなく、感動的に終わるわけじゃなく、ただ、静かに、沼に落ちるように、気が付いたら、いつの間にか終わってしまうものなのかもしれない。
ボタンの入らなかった穴が広がって、包み込んでしまうのかもしれない。
(私は)
(私は)
だって、私が、選んじゃったんだから。
私が選んだんだから、私は、この道を歩いていくしかないんだ。
道が…交差しなかっただけ、なんだ。
泣くな。
泣いたら、自分が選んだことが間違いだったことになるじゃないか。
雨音。
雨のしぶき。
泣いているんじゃなくって、これは、雨だから。
だから。
と。
その時。
「未来ちゃん」
後ろから、声がした。
振り返ると、そこには、美月が立っていた。
「私、傘、忘れちゃった」
そう言って、私が手にしていた、朝、お母さんから手渡されたピンクの傘を見つめてきた。
「濡れて帰ったらお母さんに怒られるから、だから」
傘に、いれて。
と、美月が口にした。
雨音。
外から雨音が聞こえてくる。
空は雨雲でおおわれて、まるで夜のように暗い。
そんな中。
私を見つめてくれる美月の顔が、少し輝いて見えたのは、目の錯覚だったのかもしれない。
美月が近づいてくる。
手を伸ばしてくる。
私は一瞬ためらったあと、手にしていた傘を見つめた。傘は震えていた。震えていたのは、私が震えていたからだった。震えていたのは、雨で寒いからじゃなかった。
「いいの?」
「なんで?」
わたしの問いに、美月が問いでかえしてくる。
「お願いしているのは私だよ…私がお願いしてるんだよ…未来の傘に、入れてって」
そう言いながら、傘を握る私の手を、握ってくる。
「ごめんね、私が入ったら、濡れちゃうかもしれないけど」
傘を開く。
ピンクの傘が開く。
2人で傘を手に持って、外に出る。
雨が降ってくる。
傘にあたる雨の音が私たちふたりを包み込む。
大きな傘じゃないから。
私も、美月も。
傘からはみ出た肩が雨に濡れていく。
「未来…私ね、やっぱり、普通じゃない道なんて分からない」
美月の手が私に触れて、暖かくて。
「分からないけど…でも」
雨音。
雨の音。
傘にあたる雨の音。
2人の身体が、半分だけ濡れて。
「一緒に濡れることは出来るよ」
冷たい雨が…暖かかった。
言葉は雨音に解けて、流れて地面に落ちていく。
曇った空は曇ったままで、依然雨は降ったままだった。
けれど。
土砂降りの雨はやまないけど、私の心の中の雨には光が差し込んできて。
私は、親友と共に、雨の中を半分ずつ濡れながら、暖かい気持ちと一緒に歩いていった。
私は、部屋のカーテンをじっと眺めていた。
差し込んでくる朝の日の光は、昨日よりも暗くよどんでいる。昨日までは透明だった空気が、今日は少しだけ重たくなったような気がした。
「未来、起きる時間だよ…って、今日はもう起きているのか?めずらしい」
私を起こしに来てくれたお父さんが、もうすでに制服姿でベッドの上に座っている私をみて、意外そうな声をあげた。
「早起きだね」
「…たまには、ね」
嘘だった。
私は早起きしたんじゃない。ただ、眠れなかっただけだった。
でも、お父さんに心配をかけたくなかったから、早起きしたよ、と軽い嘘をつく。
「すぐ行くから、お父さんは戻っていて」
といって、お父さんを部屋から追い出す。
私は、制服のボタンに手をかけながら、部屋にかかっている鏡を見つめた。そこには、私を見つめる私が立っている。
「…ひどい顔」
ぼそりとつぶやく。鏡の中の私も、同じように口を動かす。
まつげの影が頬に落ちていて、瞳の奥には眠れなかった夜の痕が残っている。
こんな顔、誰にも見せたくない。
私はリビングに行く前に洗面所にいって、まずは顔を洗った。
顔を洗って、鏡をみる。
鏡の中の私が私を見つめてくる。
よし…よしっ。
ぱんっ。
私は、自分の頬を叩いた。頬が赤くそまる。じんじんする。
「おはようっ!」
できるだけ大きな声をだして、私は笑いながらお母さんとお父さんの待っているリビングへとむかった。
食卓に置いてあるのは、目玉焼きとサラダ。
いつものようにお母さんはコーヒーを飲んでいて、私の席には牛乳が置いてあった。
新聞を広げていたお父さんが私をみて、口を開いた。
「…未来、顔がむくんでいるぞ…大丈夫か?」
「なんでもないよ…さっき、洗面所でちょっと気合をいれようと思って頬を叩いたから、それで膨れちゃったかもしれない」
「なんでそんなことを?」
「お父さん、女の子にはいろいろあるんだよ」
できるだけ、ごまかす。
それ以上、お父さんは詮索してこなかった。新聞を開いたまま、トーストを頬張っている…ときおり、ちらっと私を見ているのがわかる。私が視線を合わせようとすると、慌てて目を逸らす。
(有難う、お父さん)
と、私は心のなかで思った。
なにか気づいているだろうに、それでも、気づかないフリをしてくれているのが分かる。それが、この口下手なお父さんの、お父さんなりの優しさなんだと思う。
「未来、泣いた?」
そんな空気をあえて読まないのがお母さんだった。
絶対、分かってる。分かっていながら、それでも踏み込んでくる。
「…泣いてないよ」
「ふーん、そうなの」
お母さんはそう言いながら、手に持っていた包丁をトントンと動かした…包丁?今朝の朝食、目玉焼きとトーストなんだけど…包丁つかうところなんて、ある?
「まぁ、あんたがそう言うなら…そうなんでしょ」
そう言って、向こうをむいて、包丁を戻した。
やっぱり、包丁使わないじゃん…何してるの、この人…
「行ってきます!」
私はいつものように赤いランドセルを背負うと、できるだけ大きな声であいさつをした。まるで、自分に言い聞かせるように。
「未来、待ちなさい」
玄関で靴を履いてとんとんとしていた時、後ろからお母さんの声が聞こえた。
私は、ゆっくりとふりむく。」
お母さんは、手に傘を持っていた。
「天気予報で、今日は雨が降るかもしれないっていっていたから、一応、傘を持っていきなさいね」
「うん、ありがとう」
私は手を伸ばして傘を取ろうとした。と、その時。
手首を、お母さんにつかまれる。
「いい未来?あんたはまだ8歳。私はあんたの3倍は生きているんだからね」
真剣な顔。
まっすぐ私を見つめる瞳。
「だから、私は、あんたの3倍は失敗しているんだよ。そんな、失敗の先輩から、失敗の後輩にいいアドバイスをしてあげる」
頭をぐりぐりっとされる。
わしゃわしゃってされる。
思わず顔を見上げたら、そこには満面の笑みのお母さんがいた。
「なにがあっても、お母さんとお父さんは未来の味方だから、だから、安心していってらっしゃい!」
そういって、お母さんは私の腰をばんって叩いた。
いつの間にか、手に傘を渡されている。
「ありがとう、お母さん」
さっきのありがとうと、言葉は同じだけど、中身がまるで違う有難うの言葉をいって、私は大股で家を出たのだった。
■■■■■
昨日とだいたい同じ時間。
昨日とだいたい同じ場所。
そこで、私は前方に見慣れた人影を見つけた。
腰まで伸びる黒髪を一つに束ねて、リュックを背負っている沙織さん。
資料がたくさん入っているのか、そのリュックは遠目からもとても重そうに見える。
焦らなくてもいい。
走らなくてもいい。
私は、ただ、まっすぐ前を向いて、沙織さんだけを見て、ゆっくりと歩いていく。
「おはよう、沙織さん」
「おはよう、未来」
私の姿を見て、沙織さんが笑ってくれた。
それだけで、なんか、もう溶けそうになる。
冷たい風が頬を撫でて、雲の隙間から薄い光が漏れ出していた。
光が、沙織さんを照らしている。
ああ、なんか、もう、これだけで。
私は、幸せなんだ。
「未来…大丈夫?風邪でもひいたの?」
「ううん、なんでもないよ…ちょっと、昨夜眠れなかっただけだから」
「なんでもなくはないよ」
沙織さんは足をとめ、私の肩にそっと手を置いてくれた。
その手の温度が、朝の冷気で縮こまった私の身体をほぐしていく。溶かしていく。
「未来ちゃん、身体は、大切にしてね」
優しい言葉。
暖かい言葉。
私を、大切に思ってくれているのが分かる言葉。
…大切な子供にかけるようなその言葉は、親愛ではあっても、恋心は含まれてはいなかった。
とても暖かくて、とても気持ちいいけど、けっしてそれ以上ではない言葉。
沙織さんは綺麗で。
沙織さんは美人で。
沙織さんは優しくて。
優しくて…優しくて、そして、優しいだけだ。
私の事を、大切な、大切な姪っ子だと。
お母さんの、娘だと、思っている人だ。
「ありがとう、沙織さん…沙織さんも、身体は大切にしてね」
「あはは。未来ちゃんに心配されちゃった」
「だって、昨日から沙織さん、すっごく忙しそうなんだもん」
「ゼミがね…いろいろと…いろいろと大変なんだ…」
そう言いながら、沙織さんは遠い目をした。
疲れている目。
はは、っと笑っているけど、口ほどは目が笑っていないのが分かる。
「私も、昨夜、寝れなくてね…」
「じゃぁ、私と同じだー」
「そうだね。私たち、似た者同士だね」
沙織さん。
本当は似た者同士じゃないんだよ。
私は、沙織さんが好き。
沙織さんも私の事を好きでいてくれるけど…
けど、その「好き」は、違う「好き」なんだ。
それでも、諦められないんだ。
私の中の「好き」は…とめられないんだ。
「未来ちゃん、急がないと遅刻するんじゃない?」
「あ、本当だ。ごめんね、沙織さん。先に行くね」
「うん、気を付けて」
「沙織さんも!」
そういって、私は走り出した。
止めない。
足は、止めない。
とめてなんか、やるものか。
雲の向こうから、かすかな陽の光が零れていた。
■■■■■
教室の空気は、いつもより静かだった。」
静かというか…暗かった。
私が教室についた頃には、窓の外の雲が増えてきていて、朝なのにもう夜が先に来てしまっていたみたいだった。
颯真は席に座ったまま、相変わらず鉛筆をくるくると回している。
美月はノートを開いて、視線を落としたままページの端をいじっている。
ふぅ。はぁ。
私は、息をのんだ。
そして。
「おはよう!」
と、2人に声をかけた。
颯真は一瞬、驚いたように顔をあげたあと、私をみて、それからいつもの笑顔を作った。美月はノートから目をあげて、一回目を閉じて、それから目を開いた。
「…お、おはよう」
「おはよう、未来ちゃん」
2人の声はぎこちなく、それが私の胸の奥をぎゅっと縮ませる。
どこか遠くから、雷の鳴る音が小さく聞こえてきた気がした。
私はもう、それ以上なにもいう事ができなくて。
「あ、もうすぐ、授業はじまるね…私、準備しなくっちゃ」
そそくさと自分の席について、ランドセルからノートを取り出した。
窓の外の雲がゆっくりと流れていく。
黒い雲が渦巻いている。
時間だけが、静かに過ぎていった。
■■■■■
気が付いたら、放課後になっていた。
気が付いたら、2人と話をせずに時間が過ぎていた。
最初のボタンのずれが、そのまま最後までずれていき、気が付いたら、いれるべき穴を失っていた。
外では、雨が降り出していた。
最初はぽつりぽつりとした小さな雨だったのに、今ではけっこうな土砂降りになっている。
傘を忘れた子たちの中で、何人かは濡れるのもかまわずに走って下校していた。
…颯真も、その一人だった。
(…結局、朝の挨拶から何もしゃべれなかったな…)
と、思う。
私から話しかけた方がよかったかな。
でも、無理して話しかけても、微妙な空気になるかな。
…もうすでに、今の雰囲気が最悪なのかもしれないけど…
何かを言われたわけではなく。
何かを言ったわけでもなく。
ただ、たんに、普通に。
目と目を合わせなかっただけだ。
雨の音。
あまりにも雨の音が大きくて、雨音に包まれて、静かだった。
(こんなことで、終わっちゃうのかな)
ちくん。
胸が痛んだ。
終わる時って、劇的に終わるわけじゃなく、感動的に終わるわけじゃなく、ただ、静かに、沼に落ちるように、気が付いたら、いつの間にか終わってしまうものなのかもしれない。
ボタンの入らなかった穴が広がって、包み込んでしまうのかもしれない。
(私は)
(私は)
だって、私が、選んじゃったんだから。
私が選んだんだから、私は、この道を歩いていくしかないんだ。
道が…交差しなかっただけ、なんだ。
泣くな。
泣いたら、自分が選んだことが間違いだったことになるじゃないか。
雨音。
雨のしぶき。
泣いているんじゃなくって、これは、雨だから。
だから。
と。
その時。
「未来ちゃん」
後ろから、声がした。
振り返ると、そこには、美月が立っていた。
「私、傘、忘れちゃった」
そう言って、私が手にしていた、朝、お母さんから手渡されたピンクの傘を見つめてきた。
「濡れて帰ったらお母さんに怒られるから、だから」
傘に、いれて。
と、美月が口にした。
雨音。
外から雨音が聞こえてくる。
空は雨雲でおおわれて、まるで夜のように暗い。
そんな中。
私を見つめてくれる美月の顔が、少し輝いて見えたのは、目の錯覚だったのかもしれない。
美月が近づいてくる。
手を伸ばしてくる。
私は一瞬ためらったあと、手にしていた傘を見つめた。傘は震えていた。震えていたのは、私が震えていたからだった。震えていたのは、雨で寒いからじゃなかった。
「いいの?」
「なんで?」
わたしの問いに、美月が問いでかえしてくる。
「お願いしているのは私だよ…私がお願いしてるんだよ…未来の傘に、入れてって」
そう言いながら、傘を握る私の手を、握ってくる。
「ごめんね、私が入ったら、濡れちゃうかもしれないけど」
傘を開く。
ピンクの傘が開く。
2人で傘を手に持って、外に出る。
雨が降ってくる。
傘にあたる雨の音が私たちふたりを包み込む。
大きな傘じゃないから。
私も、美月も。
傘からはみ出た肩が雨に濡れていく。
「未来…私ね、やっぱり、普通じゃない道なんて分からない」
美月の手が私に触れて、暖かくて。
「分からないけど…でも」
雨音。
雨の音。
傘にあたる雨の音。
2人の身体が、半分だけ濡れて。
「一緒に濡れることは出来るよ」
冷たい雨が…暖かかった。
言葉は雨音に解けて、流れて地面に落ちていく。
曇った空は曇ったままで、依然雨は降ったままだった。
けれど。
土砂降りの雨はやまないけど、私の心の中の雨には光が差し込んできて。
私は、親友と共に、雨の中を半分ずつ濡れながら、暖かい気持ちと一緒に歩いていった。
10
あなたにおすすめの小説
モヒート・モスキート・モヒート
片喰 一歌
恋愛
主人公・翠には気になるヒトがいた。行きつけのバーでたまに見かけるふくよかで妖艶な美女だ。
毎回別の男性と同伴している彼女だったが、その日はなぜか女性である翠に話しかけてきた。
紅と名乗った彼女は男性より女性が好きらしく、独り寝が嫌いだと言い、翠にワンナイトの誘いをかける。
根負けした翠は紅の誘いに応じたが、暑い盛りと自宅のエアコンの故障が重なってしまっていた事もあり、翠はそれ以降も紅の家に頻繁に涼みに行くようになる。
しかし、妙な事に翠は紅の家にいるときにだけ耐え難い睡魔に襲われる。
おまけに、ほとんど気絶と言って言い眠りから目覚めると、首筋には身に覚えのないキスマークのような傷が付いている。
犯人候補は一人しかいない。
問い詰められた紅はあっさり容疑を認めるが、その行動の背景には翠も予想だにしなかった事情があって……!?
途中まで恋と同時に謎が展開しますが、メインはあくまで恋愛です。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
放課後の約束と秘密 ~温もり重ねる二人の時間~
楠富 つかさ
恋愛
中学二年生の佑奈は、母子家庭で家事をこなしながら日々を過ごしていた。友達はいるが、特別に誰かと深く関わることはなく、学校と家を行き来するだけの平凡な毎日。そんな佑奈に、同じクラスの大波多佳子が積極的に距離を縮めてくる。
佳子は華やかで、成績も良く、家は裕福。けれど両親は海外赴任中で、一人暮らしをしている。人懐っこい笑顔の裏で、彼女が抱えているのは、誰にも言えない「寂しさ」だった。
「ねぇ、明日から私の部屋で勉強しない?」
放課後、二人は図書室ではなく、佳子の部屋で過ごすようになる。最初は勉強のためだったはずが、いつの間にか、それはただ一緒にいる時間になり、互いにとってかけがえのないものになっていく。
――けれど、佑奈は思う。
「私なんかが、佳子ちゃんの隣にいていいの?」
特別になりたい。でも、特別になるのが怖い。
放課後、少しずつ距離を縮める二人の、静かであたたかな日々の物語。
4/6以降、8/31の完結まで毎週日曜日更新です。
身体だけの関係です‐原田巴について‐
みのりすい
恋愛
原田巴は高校一年生。(ボクっ子)
彼女には昔から尊敬している10歳年上の従姉がいた。
ある日巴は酒に酔ったお姉ちゃんに身体を奪われる。
その日から、仲の良かった二人の秒針は狂っていく。
毎日19時ごろ更新予定
「身体だけの関係です 三崎早月について」と同一世界観です。また、1~2話はそちらにも投稿しています。今回分けることにしましたため重複しています。ご迷惑をおかけします。
良ければそちらもお読みください。
身体だけの関係です‐三崎早月について‐
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/500699060
かつて絶交した幼馴染と再会できたなら、その時はあなたを二度と離さないと決めていました。
白藍まこと
恋愛
白凪雪(しろなゆき)は高校時代、唯一の親友で幼馴染の羽澄陽葵(はすみひなた)と絶交してしまう。
クラスで他者との触れ合いを好まない雪と、クラスの中心的人物である陽葵による価値観のすれ違いが原因だった。
そして、お互いに素直になれないまま時間だけが過ぎてしまう。
数年後、社会人になった雪は高校の同窓会に参加する。
久しぶりの再会にどこか胸を躍らせていた雪だったが、そこで陽葵の訃報を知らされる。
その経緯は分からず、ただ陽葵が雪に伝えたい思いがあった事だけを知る。
雪は強い後悔に苛まれ、失意の中眠りにつく。
すると次に目を覚ますと高校時代に時間が巻き戻っていた。
陽葵は何を伝えようとしていたのか、その身に何があったのか。
それを知るために、雪はかつての幼馴染との縁を繋ぐために動き出す。
※他サイトでも掲載中です。
身体だけの関係です‐三崎早月について‐
みのりすい
恋愛
「ボディタッチくらいするよね。女の子同士だもん」
三崎早月、15歳。小佐田未沙、14歳。
クラスメイトの二人は、お互いにタイプが違ったこともあり、ほとんど交流がなかった。
中学三年生の春、そんな二人の関係が、少しだけ、動き出す。
※百合作品として執筆しましたが、男性キャラクターも多数おり、BL要素、NL要素もございます。悪しからずご了承ください。また、軽度ですが性描写を含みます。
12/11 ”原田巴について”投稿開始。→12/13 別作品として投稿しました。ご迷惑をおかけします。
身体だけの関係です 原田巴について
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/734700789
作者ツイッター: twitter/minori_sui
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
日陰の百合は陽光を求めて
楠富 つかさ
恋愛
クラスに友達がおらず一人でお弁当を食べる地味JKの日下はある日、人目を惹く美少女である光岡に出会う。ふとした出会いで昼食をともにするようになる二人だが、光岡には悪いウワサもあり――。
陰キャ×陽キャの学園百合ラブコメ、開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる