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1章.非日常の始まり
潜入!
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三条様が事務所を訪れてから早二週間。私はとある小さなカフェでバイトを始めていた。
大ちゃんの事務所をやめた ─── というわけではもちろんない。ターゲットこと橘叶多に接近を図るため、彼の働いているカフェ“Cachette”に潜入することになったのだ。
ちなみに、カシェットとはフランス語で“隠れ家”という意味らしい。店名に違わず、表から見ただけではなかなか気が付かないようなひっそりとした造りをしている。でも一旦中に入るととてもお洒落で、私はすぐにこのお店が好きになった。
「片桐ちゃん、賄い食べるー?」
「あ、妹尾さん、いいんですか? 食べたいです!」
「おっけ、じゃあちょっくら待っててねー」
「ありがとうございます」
厨房から声をかけてくれた妹尾魁斗さんに返事をして、いそいそと厨房の向かいのカウンターに座る。
クラシックのかかった店内にお客さんの姿はなく、ゆったりまったりできるのが幸せだ。
「お待たせー、片桐ちゃんお待ちかねの妹尾スペシャルです☆」
「わーい、ありがとうございます! 妹尾さんサイコー!」
目の前にたっぷりとホイップクリームのかかったパンケーキが置かれて、私はフォークを握り締めたまま両手を上げた。
ニカッと輝かんばかりに笑って、妹尾さんがぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれる。
妹尾さんは確か、橘さんと同じ二十七歳。ふふ、私より少し年上なのに、こうして笑っているとすごく子供っぽいなぁ。くしゃっと笑った顔がすごくかわいい。
彼は一旦厨房の奥に戻って、けれど直ぐにまたこちらの方へやって来た。その手の中を見て私は尋ねる。
「あ、妹尾さんも食べるんですか?」
「いや、俺はさっきからつまみ食いしてるし、もう腹一杯。これは橘の分ね。アイツもうすぐ来るはずだし」
コトン、と私の隣の席に置かれたパンケーキは、どうやら橘さんの分らしい。時計を見ると、十一時を少し回ったところだった。
そっか、橘さんお昼からのシフトだったもんね。
このカフェ、昼頃になるとそれなりに人が入るけど、そのほとんどが常連さん。こじんまりとした規模なのもあって、雇われている人も少なければ一度にシフトに入る人数も少ない。今日の午前は私と妹尾さんの二人だけのシフト、午後からは橘さんを加えた三人でのシフトになっている。
「それにしても片桐ちゃん、よく平日のこんな時間にシフト入れたねー。会社員さんなんでしょ?」
橘さん用のパンケーキとは逆側の隣に座った妹尾さんに尋ねられて、私は思わずむせそうになった。慌てて口の中のパンケーキを飲み込んでいると、妹尾さんが背中をさすってくれる。
「うーん、まぁ、そうですね。でも私の職場はちょっと変わってて……。あ、でも大丈夫です、副業禁止とかじゃないですよ!」
親指を立てて妹尾さんを見ると、「あはは、ドヤ顔」と笑われた。
でもそうやって誤魔化さないと、正直には話せない。私が橘さんを“堕とそう”としていることはもちろん、本職が何でも屋であることも内緒だ。
そのとき、チリリンとドアベルが涼やかな音を立てた。
「お、来た来た。橘、パンケーキ食うよね? ちょうどさっき作ったとこだぞぉ~」
「こんにちは橘さん、お先に妹尾さんスペシャルいただいてまーす!」
「あはは、こんにちは。妹尾スペシャル、いいね。じゃあ、早速俺もいただこうかな?」
にこ、と入ってきた橘さんが爽やかに笑う。
柔らかそうな色素の薄い猫っ毛、同じ色の瞳、スッと通った鼻筋。笑みを湛えた口元は優し気で、いかにも女の子にモテそうだ。スラリと細身で背が高く、小洒落た服をまるで彼のために作られたかのごとく着こなしている。
彼は「隣、失礼するね」と私に一声かけてパンケーキの前に腰を下ろした。「今日のもおいしそうだね」なんて言いながら笑ってて、うわ、なんかいい匂いする。さすがだな。
そのまま橘さんは荷物を椅子の背に掛けてナイフとフォークを手に取ると、綺麗な手つきで切り分けて「いただきまーす」と口に運んだ。
もぐもぐと味わうように咀嚼しながら、ふふっと飾り気なく笑ってその目元口元を綻ばせる。
「妹尾はほんとに料理上手いね。おいしい」
うわぁ……。橘さん、ほんとイケメンだな。このセリフを言われたのが女の子だったら、今のだけでもころっと彼に惚れてる気がする。
妹尾さんは人好きのする明るい顔で楽しそうに笑うと、橘さんに向かってヒラヒラと手を振ってみせた。
「おう、サンキュ! でもお前飯もしっかり食えよ、そんなんだからヒョロヒョロになるんだぞー?」
「うーん、俺、そんなにヒョロヒョロかなぁ? やっぱり片桐さんもそう思う?」
「え?」
仲の良さそうな二人のやり取りをにこにこしながら聞いていたら、急に橘さんに話を振られた。
待って待って、あんまり何も考えてなかったぞ。何と答えるべきかな、コレは。
ちょっと迷って、こてんと首を傾げてみる。
「うーん、どうですかねぇ。でも確かに、スポーツマン! って感じはしないです」
「あ、やっぱりそうなんだ……。どうしよう、筋トレ始めようかな」
私の言葉に橘さんは割と真剣な顔で呟いた。自分の体を見下ろして、なんだかちょっと複雑そう。
あれ、もしかして結構気にしてる? 私は慌てて橘さんの方に向き直ると、グッと拳を握って隣に座る彼を見上げた。
「大丈夫ですよ、ガリガリでもムキムキでもムチムチでも、橘さんは橘さんです!」
大真面目な私のその言葉に、橘さんと妹尾さんが同時に吹き出した。なんで笑われているのか分からない私を尻目に、実に楽しそうに笑い転げる。
「あはっ、あははは、ムチムチな橘とかないって、片桐ちゃん!」
「あはは、そんなこと初めて言われたや。ふふっ、片桐さんってちょっと天然?」
「何、お前今頃気付いたのかー」
「いや、実はちょっと前から思ってたかな?」
いやいやいや、ちょっと待って! いくら何でもひどい言い草でしょうこれ。 聞き捨てならないよ?
「お二人ともひどくないですか? これでも真面目に言ってるのに」
「ふふ、分かってるよ、ごめんね。言われたことないセリフだったから、ちょっと嬉しくて」
そう言いつつも、橘さんは楽しそうな顔だ。相変わらず妹尾さんは爆笑してるし、私はむくれてバクバクと残っていたパンケーキを口に運んだ。
そのとき、ドアベルが鳴ってお客さんたちが入ってきた。のんびりタイムは一旦終わり、これからしばらくは忙しい時間帯だ。
まだ笑ってる橘さんと妹尾さんを横目で睨んでから、注文を取りにテーブルへと向かった。
♢♢♢♢♢♢
「……っていうのが、今日の出来事デス」
「お前それ、ただ飯が美味かったって話じゃね……?」
夜、私は一旦家に帰ってから事務所を訪れていた。
バイト中の出来事を報告した私に、大ちゃんが呆れたように溜息をつく。それからビシッとデコピンされた。
「いったぁ」
「痛、じゃないぞお前。そんなんで橘叶多を惚れさせられんの?」
「分かってるもん! でも無理なものは無理!」
ぶうっと頬を膨らませて文句を言うと、両側から潰された。そのまま指で頬っぺたをグリグリされる。
「い、いひゃいいひゃい。らいちゃ、やめれ」
「……惚れさせなくても、別にいいけど」
「へ?」
頬を掴まれたまま、首を傾げる。惚れさせなくていい? でもそれじゃ、依頼は達成できないのに。
「……いや、何でもない。それよりお前、堕とせないなら恋人のフリしとけば?」
「あー、やっぱりそうなるよね。うん、じゃあそうしようかな」
大ちゃんの言葉に素直に頷くと、なぜか彼は不機嫌そうに眉根を寄せた。
えー、なんで? 大ちゃんの言う通りにするって言ってるのに、何がそんなに気に入らないの?
「お前……いいか、絶対に本気になるなよ」
「何言ってんの大ちゃん、本気になんてなるわけないじゃん。当たり前だよ、分かってる」
「千穂の“大丈夫”だとか“分かってる”は信用ならねぇからな」
これまた随分な言い草だ。なんだか今日はこういうことばっかりだな。私は全部本気なのに、失礼しちゃう。
「ぶーぶー! ひどいぞ大ちゃーん」
「事実だろ」
はぁ、と大袈裟に溜息をついた大ちゃんが、おもむろに手を伸ばしてきた。そして ───
ぐしゃぐしゃぐしゃあっ
「なっ、ちょっ、やめっ!!」
「んー」
「大ちゃんってば!」
きちんとセットしてあった髪が、大ちゃんの手によって掻き回された。もうぐっちゃぐちゃ。やめてって言って手を押し退けたのに全然ダメだった。無念。
「もぉ、髪ボサボサになっちゃったじゃん! 大ちゃんのせいだからね!」
むくれた顔で文句を言うけど、大ちゃんは華麗に無視をキメる。そしてソファーの私の隣にボスンッと倒れ込んで、私の腰に腕を回した。
なんてことはない、これがいつもの私たちの距離感だ。なのに ─── どうしてだろう。大ちゃんの様子が、いつもと違うような気がしてならない。
「大ちゃん?」
「……やっぱこんな仕事、断ればよかった。全然余裕ない」
「だ、大ちゃん? どうしたの、断るなんてそんなの……」
「あーあ、不安しかねぇ」
「き、聞いてる? もしかして一人で仕事回すのしんどい? 私も手伝おっか?」
いつも弱音らしいことなんて言わない大ちゃんなのに珍しい。全然こっちの話を聞いてないらしい返事におろおろしてしまう。
カフェのシフトは毎日入っているわけじゃないけど、それでもその間は他のことに手が付けられない。私がカフェに出勤している間は大ちゃんが一人で何でも屋の仕事を請け負っていた。
あまり考えてなかったけど、そりゃあ大ちゃんだって疲れるはずだ。私の気が回ってなかった。
「それか、私の代わりの人を臨時で雇うとか……」
「臨時とかありえないし。誰がお前の代わりになんかなるか」
大ちゃんの顔を覗き込むと、てっきり目を瞑っていると思っていたのにバッチリ視線が合った。彼の言葉に思わず息を呑む。
でも……きっと、特別な意味なんて無いんだろうな。私以上に使い勝手のいいヤツなんていないって、ただそれだけ。
それでも“お前の代わりなんていない”なんて言われたのが素直に嬉しくて、どうしてもゆるゆると頬が緩んでにやけてしまう。
「もぉ、またそういう調子の良いこと言って……。仕方ないから、この私が大ちゃんのお手伝いしてあげるよー」
「……お前絶対、意味分かってないだろ」
「ん? 何が??」
「何でもねぇよ」
ボソッと呟かれた大ちゃんの言葉に、私は首を傾げた。なのに大ちゃんはまともに答えてくれない。
彼は私の腰に回した腕に力を込めると、「……寝る」と言って目を閉じた。
「え、ここで寝るの?」
「だからそう言ってんだろ。何、お前バカなの?」
「ちょっ、ひどくない!? てか、これじゃ私帰れないじゃん」
「いいよ別に」
答える大ちゃんは本気で寝ようとしてるみたい。しばらく寝やすい姿勢を探してごそごそと動いていたけど、具合のいい位置を見つけたらしくやがて動きを止めた。
やばいぞ、この人マジだ!
「ちょっと待って、私はよくなーいっ!」
「千穂うるさい。黙ってろ」
「いや、だから大ちゃん!」
「……」
ふと、大ちゃんから返事が返ってこなくなった。私はぱちぱちと何度か瞬く。
え、もしかして……ほんとに寝ちゃったの?
確認のために恐る恐る顔を近付けてみれば、小さな寝息が聞こえてくる。
そっか、疲れてるんだもんね。眠くても仕方ないか。起こすのはやめておこう。
うん、と一人で頷いて私は背もたれに体重を預け、座ったまま目を閉じた。
♢♢♢♢♢♢
すやすやと千穂が寝息を立て始めた頃。
大貴は閉じていた目を開けると、彼女を起こしてしまわないようにそっと起き上がった。
目を覚ます気配も見せない千穂をしばらく見つめた後、立ち上がってデスクに歩み寄り一冊のファイルを取り出す。開くと、カサリと小さな音が零れた。
そこに綴じられていたのは、依頼主である三条から預かった橘叶多の調査報告書だ。しかしそこには、鉛筆で新たな情報がいくつも足されている。
全て同じ筆跡。大貴が書き加えたものだった。
「橘叶多、ねぇ……」
大貴は低く呟いてトントンと指先で写真を神経質に叩いた。そこにある情報のほとんど大貴の頭の中に入っていて、その目はもはや字を追っていない。ただぼんやりと紙面を見つめ、昏い感情の渦巻く心を落ち着かせる。
ふと目線を上げると、ファイルの向こうに無防備に眠る千穂の姿が見えた。大貴はおもむろにファイルをデスクに戻すと、部屋の電気を消してから静かに彼女に歩み寄る。
「千穂」
そっと名前を呼んでも、千穂は少しも目を覚まさない。
大貴はその後頭部に手を添え腰に腕を回すと、座ったまま眠っていた彼女をそっとソファーに横たえた。千穂の体重にソファが沈み込む。
窓から滑り込んできた月明かりが、彼女の白い肌を浮かび上がらせていた。僅かに空いた唇から、規則正しい安らかな息が零れる。
「ほんと、馬鹿。いい加減気付けよ」
大貴は呟きながら、スルリと千穂の顎から頬に指を滑らせた。すると千穂は、「大ちゃん…」と言って目を閉じたまま大貴の手に頬を擦り寄せ、柔らかな笑みを浮かべる。そしてまた、すやすやと寝息を立て始めた。
「千穂……」
大貴は千穂の顔の脇に手をついた。ギシッと音を立て、ソファーがさらに沈む。大貴はそっと顔を寄せ、千穂に口付けた。
一度、二度……と、何度も啄ばむようなキスをする。そしてその唇の隙間に、舌を忍ばせた。
千穂はまだ、目を覚まさない。
月光のみがぼんやりと辺りを照らす部屋の中で、大貴は何度も千穂にキスを落とした。
大ちゃんの事務所をやめた ─── というわけではもちろんない。ターゲットこと橘叶多に接近を図るため、彼の働いているカフェ“Cachette”に潜入することになったのだ。
ちなみに、カシェットとはフランス語で“隠れ家”という意味らしい。店名に違わず、表から見ただけではなかなか気が付かないようなひっそりとした造りをしている。でも一旦中に入るととてもお洒落で、私はすぐにこのお店が好きになった。
「片桐ちゃん、賄い食べるー?」
「あ、妹尾さん、いいんですか? 食べたいです!」
「おっけ、じゃあちょっくら待っててねー」
「ありがとうございます」
厨房から声をかけてくれた妹尾魁斗さんに返事をして、いそいそと厨房の向かいのカウンターに座る。
クラシックのかかった店内にお客さんの姿はなく、ゆったりまったりできるのが幸せだ。
「お待たせー、片桐ちゃんお待ちかねの妹尾スペシャルです☆」
「わーい、ありがとうございます! 妹尾さんサイコー!」
目の前にたっぷりとホイップクリームのかかったパンケーキが置かれて、私はフォークを握り締めたまま両手を上げた。
ニカッと輝かんばかりに笑って、妹尾さんがぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれる。
妹尾さんは確か、橘さんと同じ二十七歳。ふふ、私より少し年上なのに、こうして笑っているとすごく子供っぽいなぁ。くしゃっと笑った顔がすごくかわいい。
彼は一旦厨房の奥に戻って、けれど直ぐにまたこちらの方へやって来た。その手の中を見て私は尋ねる。
「あ、妹尾さんも食べるんですか?」
「いや、俺はさっきからつまみ食いしてるし、もう腹一杯。これは橘の分ね。アイツもうすぐ来るはずだし」
コトン、と私の隣の席に置かれたパンケーキは、どうやら橘さんの分らしい。時計を見ると、十一時を少し回ったところだった。
そっか、橘さんお昼からのシフトだったもんね。
このカフェ、昼頃になるとそれなりに人が入るけど、そのほとんどが常連さん。こじんまりとした規模なのもあって、雇われている人も少なければ一度にシフトに入る人数も少ない。今日の午前は私と妹尾さんの二人だけのシフト、午後からは橘さんを加えた三人でのシフトになっている。
「それにしても片桐ちゃん、よく平日のこんな時間にシフト入れたねー。会社員さんなんでしょ?」
橘さん用のパンケーキとは逆側の隣に座った妹尾さんに尋ねられて、私は思わずむせそうになった。慌てて口の中のパンケーキを飲み込んでいると、妹尾さんが背中をさすってくれる。
「うーん、まぁ、そうですね。でも私の職場はちょっと変わってて……。あ、でも大丈夫です、副業禁止とかじゃないですよ!」
親指を立てて妹尾さんを見ると、「あはは、ドヤ顔」と笑われた。
でもそうやって誤魔化さないと、正直には話せない。私が橘さんを“堕とそう”としていることはもちろん、本職が何でも屋であることも内緒だ。
そのとき、チリリンとドアベルが涼やかな音を立てた。
「お、来た来た。橘、パンケーキ食うよね? ちょうどさっき作ったとこだぞぉ~」
「こんにちは橘さん、お先に妹尾さんスペシャルいただいてまーす!」
「あはは、こんにちは。妹尾スペシャル、いいね。じゃあ、早速俺もいただこうかな?」
にこ、と入ってきた橘さんが爽やかに笑う。
柔らかそうな色素の薄い猫っ毛、同じ色の瞳、スッと通った鼻筋。笑みを湛えた口元は優し気で、いかにも女の子にモテそうだ。スラリと細身で背が高く、小洒落た服をまるで彼のために作られたかのごとく着こなしている。
彼は「隣、失礼するね」と私に一声かけてパンケーキの前に腰を下ろした。「今日のもおいしそうだね」なんて言いながら笑ってて、うわ、なんかいい匂いする。さすがだな。
そのまま橘さんは荷物を椅子の背に掛けてナイフとフォークを手に取ると、綺麗な手つきで切り分けて「いただきまーす」と口に運んだ。
もぐもぐと味わうように咀嚼しながら、ふふっと飾り気なく笑ってその目元口元を綻ばせる。
「妹尾はほんとに料理上手いね。おいしい」
うわぁ……。橘さん、ほんとイケメンだな。このセリフを言われたのが女の子だったら、今のだけでもころっと彼に惚れてる気がする。
妹尾さんは人好きのする明るい顔で楽しそうに笑うと、橘さんに向かってヒラヒラと手を振ってみせた。
「おう、サンキュ! でもお前飯もしっかり食えよ、そんなんだからヒョロヒョロになるんだぞー?」
「うーん、俺、そんなにヒョロヒョロかなぁ? やっぱり片桐さんもそう思う?」
「え?」
仲の良さそうな二人のやり取りをにこにこしながら聞いていたら、急に橘さんに話を振られた。
待って待って、あんまり何も考えてなかったぞ。何と答えるべきかな、コレは。
ちょっと迷って、こてんと首を傾げてみる。
「うーん、どうですかねぇ。でも確かに、スポーツマン! って感じはしないです」
「あ、やっぱりそうなんだ……。どうしよう、筋トレ始めようかな」
私の言葉に橘さんは割と真剣な顔で呟いた。自分の体を見下ろして、なんだかちょっと複雑そう。
あれ、もしかして結構気にしてる? 私は慌てて橘さんの方に向き直ると、グッと拳を握って隣に座る彼を見上げた。
「大丈夫ですよ、ガリガリでもムキムキでもムチムチでも、橘さんは橘さんです!」
大真面目な私のその言葉に、橘さんと妹尾さんが同時に吹き出した。なんで笑われているのか分からない私を尻目に、実に楽しそうに笑い転げる。
「あはっ、あははは、ムチムチな橘とかないって、片桐ちゃん!」
「あはは、そんなこと初めて言われたや。ふふっ、片桐さんってちょっと天然?」
「何、お前今頃気付いたのかー」
「いや、実はちょっと前から思ってたかな?」
いやいやいや、ちょっと待って! いくら何でもひどい言い草でしょうこれ。 聞き捨てならないよ?
「お二人ともひどくないですか? これでも真面目に言ってるのに」
「ふふ、分かってるよ、ごめんね。言われたことないセリフだったから、ちょっと嬉しくて」
そう言いつつも、橘さんは楽しそうな顔だ。相変わらず妹尾さんは爆笑してるし、私はむくれてバクバクと残っていたパンケーキを口に運んだ。
そのとき、ドアベルが鳴ってお客さんたちが入ってきた。のんびりタイムは一旦終わり、これからしばらくは忙しい時間帯だ。
まだ笑ってる橘さんと妹尾さんを横目で睨んでから、注文を取りにテーブルへと向かった。
♢♢♢♢♢♢
「……っていうのが、今日の出来事デス」
「お前それ、ただ飯が美味かったって話じゃね……?」
夜、私は一旦家に帰ってから事務所を訪れていた。
バイト中の出来事を報告した私に、大ちゃんが呆れたように溜息をつく。それからビシッとデコピンされた。
「いったぁ」
「痛、じゃないぞお前。そんなんで橘叶多を惚れさせられんの?」
「分かってるもん! でも無理なものは無理!」
ぶうっと頬を膨らませて文句を言うと、両側から潰された。そのまま指で頬っぺたをグリグリされる。
「い、いひゃいいひゃい。らいちゃ、やめれ」
「……惚れさせなくても、別にいいけど」
「へ?」
頬を掴まれたまま、首を傾げる。惚れさせなくていい? でもそれじゃ、依頼は達成できないのに。
「……いや、何でもない。それよりお前、堕とせないなら恋人のフリしとけば?」
「あー、やっぱりそうなるよね。うん、じゃあそうしようかな」
大ちゃんの言葉に素直に頷くと、なぜか彼は不機嫌そうに眉根を寄せた。
えー、なんで? 大ちゃんの言う通りにするって言ってるのに、何がそんなに気に入らないの?
「お前……いいか、絶対に本気になるなよ」
「何言ってんの大ちゃん、本気になんてなるわけないじゃん。当たり前だよ、分かってる」
「千穂の“大丈夫”だとか“分かってる”は信用ならねぇからな」
これまた随分な言い草だ。なんだか今日はこういうことばっかりだな。私は全部本気なのに、失礼しちゃう。
「ぶーぶー! ひどいぞ大ちゃーん」
「事実だろ」
はぁ、と大袈裟に溜息をついた大ちゃんが、おもむろに手を伸ばしてきた。そして ───
ぐしゃぐしゃぐしゃあっ
「なっ、ちょっ、やめっ!!」
「んー」
「大ちゃんってば!」
きちんとセットしてあった髪が、大ちゃんの手によって掻き回された。もうぐっちゃぐちゃ。やめてって言って手を押し退けたのに全然ダメだった。無念。
「もぉ、髪ボサボサになっちゃったじゃん! 大ちゃんのせいだからね!」
むくれた顔で文句を言うけど、大ちゃんは華麗に無視をキメる。そしてソファーの私の隣にボスンッと倒れ込んで、私の腰に腕を回した。
なんてことはない、これがいつもの私たちの距離感だ。なのに ─── どうしてだろう。大ちゃんの様子が、いつもと違うような気がしてならない。
「大ちゃん?」
「……やっぱこんな仕事、断ればよかった。全然余裕ない」
「だ、大ちゃん? どうしたの、断るなんてそんなの……」
「あーあ、不安しかねぇ」
「き、聞いてる? もしかして一人で仕事回すのしんどい? 私も手伝おっか?」
いつも弱音らしいことなんて言わない大ちゃんなのに珍しい。全然こっちの話を聞いてないらしい返事におろおろしてしまう。
カフェのシフトは毎日入っているわけじゃないけど、それでもその間は他のことに手が付けられない。私がカフェに出勤している間は大ちゃんが一人で何でも屋の仕事を請け負っていた。
あまり考えてなかったけど、そりゃあ大ちゃんだって疲れるはずだ。私の気が回ってなかった。
「それか、私の代わりの人を臨時で雇うとか……」
「臨時とかありえないし。誰がお前の代わりになんかなるか」
大ちゃんの顔を覗き込むと、てっきり目を瞑っていると思っていたのにバッチリ視線が合った。彼の言葉に思わず息を呑む。
でも……きっと、特別な意味なんて無いんだろうな。私以上に使い勝手のいいヤツなんていないって、ただそれだけ。
それでも“お前の代わりなんていない”なんて言われたのが素直に嬉しくて、どうしてもゆるゆると頬が緩んでにやけてしまう。
「もぉ、またそういう調子の良いこと言って……。仕方ないから、この私が大ちゃんのお手伝いしてあげるよー」
「……お前絶対、意味分かってないだろ」
「ん? 何が??」
「何でもねぇよ」
ボソッと呟かれた大ちゃんの言葉に、私は首を傾げた。なのに大ちゃんはまともに答えてくれない。
彼は私の腰に回した腕に力を込めると、「……寝る」と言って目を閉じた。
「え、ここで寝るの?」
「だからそう言ってんだろ。何、お前バカなの?」
「ちょっ、ひどくない!? てか、これじゃ私帰れないじゃん」
「いいよ別に」
答える大ちゃんは本気で寝ようとしてるみたい。しばらく寝やすい姿勢を探してごそごそと動いていたけど、具合のいい位置を見つけたらしくやがて動きを止めた。
やばいぞ、この人マジだ!
「ちょっと待って、私はよくなーいっ!」
「千穂うるさい。黙ってろ」
「いや、だから大ちゃん!」
「……」
ふと、大ちゃんから返事が返ってこなくなった。私はぱちぱちと何度か瞬く。
え、もしかして……ほんとに寝ちゃったの?
確認のために恐る恐る顔を近付けてみれば、小さな寝息が聞こえてくる。
そっか、疲れてるんだもんね。眠くても仕方ないか。起こすのはやめておこう。
うん、と一人で頷いて私は背もたれに体重を預け、座ったまま目を閉じた。
♢♢♢♢♢♢
すやすやと千穂が寝息を立て始めた頃。
大貴は閉じていた目を開けると、彼女を起こしてしまわないようにそっと起き上がった。
目を覚ます気配も見せない千穂をしばらく見つめた後、立ち上がってデスクに歩み寄り一冊のファイルを取り出す。開くと、カサリと小さな音が零れた。
そこに綴じられていたのは、依頼主である三条から預かった橘叶多の調査報告書だ。しかしそこには、鉛筆で新たな情報がいくつも足されている。
全て同じ筆跡。大貴が書き加えたものだった。
「橘叶多、ねぇ……」
大貴は低く呟いてトントンと指先で写真を神経質に叩いた。そこにある情報のほとんど大貴の頭の中に入っていて、その目はもはや字を追っていない。ただぼんやりと紙面を見つめ、昏い感情の渦巻く心を落ち着かせる。
ふと目線を上げると、ファイルの向こうに無防備に眠る千穂の姿が見えた。大貴はおもむろにファイルをデスクに戻すと、部屋の電気を消してから静かに彼女に歩み寄る。
「千穂」
そっと名前を呼んでも、千穂は少しも目を覚まさない。
大貴はその後頭部に手を添え腰に腕を回すと、座ったまま眠っていた彼女をそっとソファーに横たえた。千穂の体重にソファが沈み込む。
窓から滑り込んできた月明かりが、彼女の白い肌を浮かび上がらせていた。僅かに空いた唇から、規則正しい安らかな息が零れる。
「ほんと、馬鹿。いい加減気付けよ」
大貴は呟きながら、スルリと千穂の顎から頬に指を滑らせた。すると千穂は、「大ちゃん…」と言って目を閉じたまま大貴の手に頬を擦り寄せ、柔らかな笑みを浮かべる。そしてまた、すやすやと寝息を立て始めた。
「千穂……」
大貴は千穂の顔の脇に手をついた。ギシッと音を立て、ソファーがさらに沈む。大貴はそっと顔を寄せ、千穂に口付けた。
一度、二度……と、何度も啄ばむようなキスをする。そしてその唇の隙間に、舌を忍ばせた。
千穂はまだ、目を覚まさない。
月光のみがぼんやりと辺りを照らす部屋の中で、大貴は何度も千穂にキスを落とした。
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