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【二】
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おしのが重蔵に初めて会ったのは、おしのが遊郭に来て初めての春、花巻と名乗り客を取るようになるずっと前のことだった。
禿として姉さんたちの世話をしていたおしのは、その日も雪巻姉さんに言われて夜具の支度をするため布団部屋に入った。重蔵はそこにうずくまって隠れていた。思わず叫びそうになったおしのに重蔵は飛びかかってきて、その口を掌で塞いだ。驚きはしたが、何故か怖いとは思わなかった。
「手荒ですまねえ。声を出さないと約束してくれたら手は離してやる」
おしのはゆっくり頷いた。重蔵の手がおしのの顔から離れた。
「江差丸の連中が来てるだろう? 皆が帰るまで、ここに隠れさせてくれ」
「あたしには決められないけど……黙ってればいい?」
「ああ。すまねえ。それでいい」
重蔵は、大阪から蝦夷に向かう途中で坂巻に入港した北前船・江差丸の炊だった。炊とは北前船の炊事係だが、実質は水主すなわち乗組員の見習い。寄港中でも炊は船に残って留守番するのが習いだ。しかし算盤に長けた重蔵を船頭が重宝がって、商いのある港では彼を伴って上陸することもしばしばだった。
その日も重蔵は船頭に連れられ坂巻の町に来たが、これから遊郭に繰り出すという江差丸の水主に出くわした。景気づけの酒でしこたま酔った彼らの勢いで、まだ女を知らない重蔵を男にしようという話になってしまった。あれよあれよとここに連れてこられた重蔵だったが、いざという時になって怖気づき、寝所を飛び出して布団部屋に隠れていたのだった。
「大阪の賑わいは坂巻なんか比べ物にならんぞ」
「瀬戸内の海は真っ青の中に緑の島々が散らされて、そりゃ綺麗なモンだ」
おしのは重蔵の語る遠国の話に時間を忘れた。
「おしの! 何やってんだい!」
おしのはその声で現実に引き戻された。振り向くと、雪巻姉さんが両開きの引戸を押し広げた格好のまま立っていた。
「全然戻ってこないから心配して来てみれば……おや、この坊やは?」
首を傾げて重蔵を見下ろす雪巻姉さんの前に重蔵が進み出た。
「姉さん、この娘を叱らないでくれ。おれが引き止めちまったのが悪いんだから」
それから重蔵は雪巻姉さんに、自分がここに隠れている理由を話した。
「おやおや、とんだ初だこと。分かったよ。黙っておいてやるよ。おしのはそれを持っておいで」
雪巻姉さんの声は思いのほか優しかった。おしのは急いで指し示された敷布を抱え上げ、重蔵に微笑んで別れを告げると、先に戻っていった雪巻姉さんの後を追った。
禿として姉さんたちの世話をしていたおしのは、その日も雪巻姉さんに言われて夜具の支度をするため布団部屋に入った。重蔵はそこにうずくまって隠れていた。思わず叫びそうになったおしのに重蔵は飛びかかってきて、その口を掌で塞いだ。驚きはしたが、何故か怖いとは思わなかった。
「手荒ですまねえ。声を出さないと約束してくれたら手は離してやる」
おしのはゆっくり頷いた。重蔵の手がおしのの顔から離れた。
「江差丸の連中が来てるだろう? 皆が帰るまで、ここに隠れさせてくれ」
「あたしには決められないけど……黙ってればいい?」
「ああ。すまねえ。それでいい」
重蔵は、大阪から蝦夷に向かう途中で坂巻に入港した北前船・江差丸の炊だった。炊とは北前船の炊事係だが、実質は水主すなわち乗組員の見習い。寄港中でも炊は船に残って留守番するのが習いだ。しかし算盤に長けた重蔵を船頭が重宝がって、商いのある港では彼を伴って上陸することもしばしばだった。
その日も重蔵は船頭に連れられ坂巻の町に来たが、これから遊郭に繰り出すという江差丸の水主に出くわした。景気づけの酒でしこたま酔った彼らの勢いで、まだ女を知らない重蔵を男にしようという話になってしまった。あれよあれよとここに連れてこられた重蔵だったが、いざという時になって怖気づき、寝所を飛び出して布団部屋に隠れていたのだった。
「大阪の賑わいは坂巻なんか比べ物にならんぞ」
「瀬戸内の海は真っ青の中に緑の島々が散らされて、そりゃ綺麗なモンだ」
おしのは重蔵の語る遠国の話に時間を忘れた。
「おしの! 何やってんだい!」
おしのはその声で現実に引き戻された。振り向くと、雪巻姉さんが両開きの引戸を押し広げた格好のまま立っていた。
「全然戻ってこないから心配して来てみれば……おや、この坊やは?」
首を傾げて重蔵を見下ろす雪巻姉さんの前に重蔵が進み出た。
「姉さん、この娘を叱らないでくれ。おれが引き止めちまったのが悪いんだから」
それから重蔵は雪巻姉さんに、自分がここに隠れている理由を話した。
「おやおや、とんだ初だこと。分かったよ。黙っておいてやるよ。おしのはそれを持っておいで」
雪巻姉さんの声は思いのほか優しかった。おしのは急いで指し示された敷布を抱え上げ、重蔵に微笑んで別れを告げると、先に戻っていった雪巻姉さんの後を追った。
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