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【三】
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雪巻姉さんが坂巻一番の薪炭問屋である三隅屋の主人・庄右衛門に身請けされて囲われたのは、おしのが客を取るようになった年のことだった。
遊郭の誰もが羨む身請け話だった。庄右衛門は雪巻姉さんのために港近くに別宅を建てて通った。本宅の正妻には、大商いで帰れないと言っていたらしい。
庄右衛門はいい旦那だったようだ。一緒にいるときはどこまでも優しく、本宅に帰って不在の間は雪巻姉さんの自由にさせていた。雪巻姉さんもそれに甘えて他に男を作ったりするようなこともなく、旦那を喜ばせようと芸事の習いに通ったり、遊郭に顔を出しては、おしの達から旦那の商いの足しになりそうな話を聴き込んでいったりした。そんなときの雪巻姉さんは本当に幸せそうだった。
「おしのにも良い人が現れるといいね」
会う度に雪巻姉さんが言った。そんな言い方だったが、雪巻姉さんが誰のことを言っているのか、おしのには明らかだった。
布団部屋で重蔵に会ったあの年の秋、蝦夷から大阪に帰る江差丸がまた坂巻に入港した。蝦夷で仕入れた荷はどこでも高く売れる。その中でも肥料に使う鰊粕は北前船に莫大な利益をもたらした。米どころでは特に大商いになる。そのときも重蔵は船頭のお供で上陸してきた。用事が済んだ重蔵が訪ねてきたのはまだ明るい時間だった。遊郭の禿が外の人間に勝手に会うなど出来ない相談だが、雪巻姉さんがこっそり手を回してくれた。
「これ。蝦夷の土産だ」
重蔵がそう言って差し出したのは、見たこともない異国風の衣装をまとった男女の人形だった。男と女の腕は鎖の輪のように繋がっている。
「これ、一本の木から彫り出してあるんだぜ」
「なんであたしに?」
「喜ぶと思って」
重蔵は日に焼けてすっかり色の褪せた袖で鼻の頭をこすった。
「ありがとう。大事にするね」
それから毎年春と秋、江差丸が坂巻に入る度に重蔵はおしのを訪ねてきた。大阪や蝦夷の土産を持って。
おしのが初めて客を取ったのは十六のときだった。日本一の地主と言われた本田家の者とのことで、莫大な水揚げ料が支払われたらしいが、おしのには関係ないことだ。落ち着いた初老の男で、最初から最後までとても紳士的に優しくおしのを扱った。だから嫌だと思うこともなかったが、特別な感慨も無かった。
その年の秋も重蔵は訪ねてきた。一度昼に来たが、便宜を図ってくれた雪巻姉さんはもうおらず、遊女となったおしのが会うことは叶わなかった。
その夜、重蔵は客としてやって来た。異例の早さで北前船の三役である知工にまで出世していた重蔵が、まだ女を知らないことにおしのは驚いた。
「最初の女はお前と決めていた」
重蔵のぎこちない愛撫を受けながら、おしのはこれまでのどの客にも感じなかった気持を抱いた。それが何なのか、おしのには判らなかった。
遊郭の誰もが羨む身請け話だった。庄右衛門は雪巻姉さんのために港近くに別宅を建てて通った。本宅の正妻には、大商いで帰れないと言っていたらしい。
庄右衛門はいい旦那だったようだ。一緒にいるときはどこまでも優しく、本宅に帰って不在の間は雪巻姉さんの自由にさせていた。雪巻姉さんもそれに甘えて他に男を作ったりするようなこともなく、旦那を喜ばせようと芸事の習いに通ったり、遊郭に顔を出しては、おしの達から旦那の商いの足しになりそうな話を聴き込んでいったりした。そんなときの雪巻姉さんは本当に幸せそうだった。
「おしのにも良い人が現れるといいね」
会う度に雪巻姉さんが言った。そんな言い方だったが、雪巻姉さんが誰のことを言っているのか、おしのには明らかだった。
布団部屋で重蔵に会ったあの年の秋、蝦夷から大阪に帰る江差丸がまた坂巻に入港した。蝦夷で仕入れた荷はどこでも高く売れる。その中でも肥料に使う鰊粕は北前船に莫大な利益をもたらした。米どころでは特に大商いになる。そのときも重蔵は船頭のお供で上陸してきた。用事が済んだ重蔵が訪ねてきたのはまだ明るい時間だった。遊郭の禿が外の人間に勝手に会うなど出来ない相談だが、雪巻姉さんがこっそり手を回してくれた。
「これ。蝦夷の土産だ」
重蔵がそう言って差し出したのは、見たこともない異国風の衣装をまとった男女の人形だった。男と女の腕は鎖の輪のように繋がっている。
「これ、一本の木から彫り出してあるんだぜ」
「なんであたしに?」
「喜ぶと思って」
重蔵は日に焼けてすっかり色の褪せた袖で鼻の頭をこすった。
「ありがとう。大事にするね」
それから毎年春と秋、江差丸が坂巻に入る度に重蔵はおしのを訪ねてきた。大阪や蝦夷の土産を持って。
おしのが初めて客を取ったのは十六のときだった。日本一の地主と言われた本田家の者とのことで、莫大な水揚げ料が支払われたらしいが、おしのには関係ないことだ。落ち着いた初老の男で、最初から最後までとても紳士的に優しくおしのを扱った。だから嫌だと思うこともなかったが、特別な感慨も無かった。
その年の秋も重蔵は訪ねてきた。一度昼に来たが、便宜を図ってくれた雪巻姉さんはもうおらず、遊女となったおしのが会うことは叶わなかった。
その夜、重蔵は客としてやって来た。異例の早さで北前船の三役である知工にまで出世していた重蔵が、まだ女を知らないことにおしのは驚いた。
「最初の女はお前と決めていた」
重蔵のぎこちない愛撫を受けながら、おしのはこれまでのどの客にも感じなかった気持を抱いた。それが何なのか、おしのには判らなかった。
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