風を待つ

一ノ瀬亮太郎

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【五】

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 そして春が来た。人夫たちが町から去っても、代わって春の風が水主たちを運んできて、賑わいは途切れず続くはずだった。しかし風は吹かず、町から賑わいが消えた。

「今日も吊るし雲は出てないね」

 ここ最近、遊女の間で交わされる朝の挨拶だ。水主の客が無いだけでなく、景気の悪い町の者も来なくなってしまった。いつもなら客と迎える朝だが、今では一人で目を覚まし窓の外の鳥波山を見るのが習いになった。

「馬鹿言うんじゃねえ! 客も来ねえのに買えるわけねえだろ」

 店の勝手口で板前と魚売りの棒手振ぼてふりが押し問答するのが聞こえてきた。

「そこを何とか。たまには女たちに上手い魚でも食わしてやんなよ」
「客が無いんだ。そんな金があるわけねえだろう」
「はあ、いつになったら風が来るのかねえ」

 二人で溜息をつく様子が目に浮かぶ。町の皆が風を待っている。誰もが鳥波山を見上げて溜息をつく。

 そんな町の気分とは裏腹に、おしのには風が吹くのを恐れている部分がある。

 重蔵の気持は嬉しい。もちろん遊郭を出たいと思う。でも自分が幸せになる未来を想像できない。今の重蔵に偽りは無いとしても、人の気持は変わるもの。遊女あがりの自分を重蔵が守り続けてくれるだろうか? 今や北前船の船頭となった重蔵だ。もっと良い縁談などいくらでもあるだろう。重蔵がおしのを邪魔に思う日が来るのではないか?

 いつもおしのの考えはそこに至って止まってしまう。重蔵を連れてくる風を待ちわびながら、このまま風が吹かず答えを出さずに済むなら、とも思ってしまうおしのだった。

「花巻よ、お前、港を見ておいで。誰か馴染みに会ったら誘ってくるんだよ」

 蝦夷の男女人形をつついたりして暇を持て余しているおしのに遣手婆やりてばばが言った。おしのは今や店で一番の稼ぎ頭だ。坂巻の町中くらいなら自由に出歩くことを許されている。逃げ出してもどうせくるわの外では生きられないと判っているのだ。おしのは店を出た。

 いつもならごった返す店の前の道だが、陰気な色街には冷やかしも近寄らない。人気ひとけの無い通りを港に向かって歩いた。

 港も嘘のように静まり返っていた。船がいないのだから当然だ。岸壁に建ち並ぶ蔵のなかには、冬の間に滞った空気を入れ替えようと戸を開け放してあるところもあるが、たいてい中は空で、見張りの者すらいない。

 おしのは海岸沿いから一本奥に入った問屋街に入った。こちらも人影はまばらで、店は軒並み閉まっている。たまに開いている店も、小僧が退屈そうに鼻をほじっている有り様で、まともに商売する気もないのが明らかだ。

「やあ、花巻じゃないか。様子を見に来たのか? ご覧の通りの有り様だ。悪いが私も遊びに行ける状態じゃない。風が吹いたら行くから待っていておくれ」

 珍しく旦那がいる店があっても、先手を打たれてしまう。とても客を誘える状態でないと判断したおしのはきびすを返して帰途についた。そこへどこかの店の小僧が息せき切って走ってきた。おしのは小僧に道を開けるために道の端に避けたが、脚のもつれた小僧がおしのの眼の前で派手に転んだ。

「おやおや、危ないねえ。何をそんなにいてるんだい?」

 おしのは小僧を助け起こしながら訊いた。

「佐渡の沖で沈んだ船があるらしいんだ!」
「沈んだ船? 風も無いのに?」
「あの辺りはもう風が来てるみたいなんだよ」
「それで、沈んだ船の名前は?」
「江なんとか丸って聞いたけど、はっきりは判んねえ」
「えっ! まさか江差丸じゃないだろうね?」
「さあ。そこまでは判んねえよ。もういいだろう? 旦那に知らせなきゃなんないんだから」
「ああ、ごめんよ」

 おしのが手を離すと小僧は走り去った。おしのは不安に押しつぶされそうになりながら店への道を急いだ。

 まさか、重蔵さんの船が沈んだ? どうしよう? 誰に聞けば詳しく判る?

 とにかく店の前まで戻ったおしのの目に、店の前でウロウロしている男の姿が映った。振り向いた男は政五郎だった。
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