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どうか、今宵一夜…
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冷たい白銀の鎧に、リリスは自らの額を押し付けた。
金属の無機質な感触が、皮膚を通して、骨の芯まで染み渡るようだった。
それは、彼女が存在するこの世界の冷たさそのもの。
涙が、後から後から溢れ出し、頬を伝って、鎧と肌の隙間に吸い込まれていく。
その涙は、もはや演技のための道具ではなかった。
それは、六年間、彼女の内で凍りついていた悲しみと絶望が、ゼノンという、予期せぬ熱源に触れて、一気に溶け出した奔流だった。
震える唇から、声が、絞り出された。
「どうか、今宵一夜…貴方様の、傍にいることを…お許しください」
その声は、か細く、途切れ途切れだったが、水晶の間の喧騒を切り裂くほどの、凄まじい切実さを孕んでいた。
それは、奴隷が主人に捧げる甘い誘惑の言葉ではない。
嵐の夜の海で、難破船から投げ出された者が、唯一見つけた流木に、命の全てを賭けてしがみつくかのような、魂の叫びそのものであった。
*お願い。お願いだから。私を見捨てないで。あなたは、他の誰とも違う。あなたは、私を救ってくれるはずの人。この穢れた身体でも、この汚れた魂でも、あなただけは…。お母様を助けるために、どうか、この手を、取って…!*
ゼノンの世界から、音が消えた。
オルレアン侯爵の下品な笑い声も、貴族たちの囁きも、遠い世界の反響音のように、彼の意識の表面を滑り落ちていく。
彼の全感覚は、膝当てに触れる、少女の額から伝わる微かな温もりと、鼓膜を直接揺さぶる、あの懇願の声に、完全に支配されていた。
灰色の瞳には、もはや何も映っていない。
ただ、彼の脳裏で、二つの映像が、狂ったように明滅を繰り返していた。
一つは、陽光の下、無垢な笑顔で赤いバラを差し出す、十二歳の少女の姿。
その瞳は、世界への絶対的な信頼に輝いていた。
もう一つは、今、目の前で、涙に濡れ、絶望に打ちひしがれ、彼の鎧にその身を預けて救いを乞う、十八歳の奴隷の姿。
*ああ…ああ、ああ……。*
声にならない呻きが、彼の喉の奥で詰まった。
なぜ、こうなった。
なぜ、彼女が、こんな場所にいる。
六年前、自分が発した「ごめんなさい」という言葉。
それは、これから彼女を待ち受けるであろう過酷な運命を予見しながら、何もできない自らの無力さに対する、空虚な謝罪だった。
そして今、その予見は、最悪の形で現実となっている。
彼女を、拒絶する?
この震える手を、振り払う?
それは、六年前のあの日に、少女の純粋さを踏みにじった騎士の罪から目を背け、今、目の前で助けを求める魂を見殺しにすることを意味する。
それは、ゼノンという人間が、自らの魂に刻み込んできた「正義」という名の、最後の支柱を、自らの手でへし折る行為に他ならなかった。
彼の騎士としての誇りも、人間としての尊厳も、全てが、この選択に賭けられていた。
永遠にも感じられる沈黙が、二人を支配した。
会場の誰もが、息を殺して、英雄の決断を見守っている。
やがて、ゼノンは、まるで錆びついた機械のように、ぎこちなく、その右腕を上げた。
白銀の手甲に覆われた彼の指が、ゆっくりと、リリスの華奢な肩へと伸ばされる。
指先が、薄い絹のドレス越しに、彼女の震える肌に、触れた。
その瞬間、リリスの身体が、びくりと大きく跳ねた。
ゼノンの指から伝わってきたのは、拒絶の冷たさではなかった。
それは、不器用で、ぎこちなく、しかし、確かに、彼女の存在を受け入れるという、温かな肯定の意志だった。
ゼノンは、何も言えなかった。
彼の唇は、罪悪感と憐憫の重さに、固く閉ざされたままだった。
しかし、その肩に置かれた手の、僅かな力の込め方が、彼の選択の全てを物語っていた。
彼は、この少女を、選んだのだ。
その選択を、オルレアン侯爵が見逃すはずがなかった。
彼は、まるで舞台役者のように両腕を広げ、その甲高い声を、シャンデリアの水晶に反響させた。
「おお、おお!ご覧ください皆様!我らが英雄、帝国最強の断罪の槍ゼノン様は、あのか弱く美しい花をお選びになられました!なんと心優しきご選択!今宵、英雄の疲れを癒すに、これほど相応しい花はおりますまい!さあ、皆の者、英雄の寛大なるご選択に、祝福の拍手を!」
その言葉を皮切りに、張り詰めていた会場の空気が、一気に弛緩した。
貴族たちは、待ってましたとばかりに、計算された拍手を送り、貴婦人たちは、扇の陰で、好奇心と嫉妬の入り混じった囁きを交わし始めた。
壁際に並んでいた他の「花々」の中からは、あからさまな嫉妬と侮蔑の視線が、リリスの背中に突き刺さる。
オルレアン侯爵は、満足げに頷くと、すぐさま近くに控えていた執事を手招きした。
「おい、聞こえたであろう。ゼノン様のために、最上の客室を用意しろ。そして、その娘を、丁重に、お部屋までご案内申し上げるのだ。英雄の夜の安らぎを、何者にも邪魔させてはならんぞ!」
「はっ、かしこまりました、侯爵様」
執事は深々と一礼すると、リリスとゼノンの方へと静かに歩み寄った。
この一連の、あまりにも劇的な展開を、フィオナは席から、冷めた目で見つめていた。
フィオナの琥珀色の瞳は、氷のように冷え切っていた。
*…穢れた血の、狡猾な策略。あの涙も、あの懇願も、全ては、男を篭絡するための、計算され尽くした演技。そして、あの愚かな人間は、まんまとその手に落ちた。魔族とは、どこまで行っても、信用ならぬ、汚らわしい存在。*
彼女は、オルレアン侯爵の下劣さにも、ゼノンの愚かさにも、等しく静かな怒りを感じていた。
彼女の思考は、既に、あの魔族の少女が、ゼノンに対してどのような危害を加える可能性があるか、その危険性の分析へと移行していた。
彼らが、それぞれの思惑を巡らせる中、リリスは、ゼノンに肩を支えられるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は、もはや涙を流してはいなかった。
ただ、その青い瞳は、目の前に立つゼノンの、儀礼鎧の胸当ての一点だけを、じっと見つめていた。
「お客様、こちらへどうぞ」
執事が、感情のない声で、道を促す。
リリスは、ゼノンに付き従うようにして、その小さな一歩を踏み出した。
会場中の、好奇、嫉妬、侮蔑、賞賛、あらゆる感情が渦巻く視線をその背中に浴びながら、彼女は、ただ、前だけを見て、歩き始めた。
これから向かう先が、一時的な安息の場所なのか、それとも、更なる地獄への入り口なのか、彼女にはまだ、分からなかった。
金属の無機質な感触が、皮膚を通して、骨の芯まで染み渡るようだった。
それは、彼女が存在するこの世界の冷たさそのもの。
涙が、後から後から溢れ出し、頬を伝って、鎧と肌の隙間に吸い込まれていく。
その涙は、もはや演技のための道具ではなかった。
それは、六年間、彼女の内で凍りついていた悲しみと絶望が、ゼノンという、予期せぬ熱源に触れて、一気に溶け出した奔流だった。
震える唇から、声が、絞り出された。
「どうか、今宵一夜…貴方様の、傍にいることを…お許しください」
その声は、か細く、途切れ途切れだったが、水晶の間の喧騒を切り裂くほどの、凄まじい切実さを孕んでいた。
それは、奴隷が主人に捧げる甘い誘惑の言葉ではない。
嵐の夜の海で、難破船から投げ出された者が、唯一見つけた流木に、命の全てを賭けてしがみつくかのような、魂の叫びそのものであった。
*お願い。お願いだから。私を見捨てないで。あなたは、他の誰とも違う。あなたは、私を救ってくれるはずの人。この穢れた身体でも、この汚れた魂でも、あなただけは…。お母様を助けるために、どうか、この手を、取って…!*
ゼノンの世界から、音が消えた。
オルレアン侯爵の下品な笑い声も、貴族たちの囁きも、遠い世界の反響音のように、彼の意識の表面を滑り落ちていく。
彼の全感覚は、膝当てに触れる、少女の額から伝わる微かな温もりと、鼓膜を直接揺さぶる、あの懇願の声に、完全に支配されていた。
灰色の瞳には、もはや何も映っていない。
ただ、彼の脳裏で、二つの映像が、狂ったように明滅を繰り返していた。
一つは、陽光の下、無垢な笑顔で赤いバラを差し出す、十二歳の少女の姿。
その瞳は、世界への絶対的な信頼に輝いていた。
もう一つは、今、目の前で、涙に濡れ、絶望に打ちひしがれ、彼の鎧にその身を預けて救いを乞う、十八歳の奴隷の姿。
*ああ…ああ、ああ……。*
声にならない呻きが、彼の喉の奥で詰まった。
なぜ、こうなった。
なぜ、彼女が、こんな場所にいる。
六年前、自分が発した「ごめんなさい」という言葉。
それは、これから彼女を待ち受けるであろう過酷な運命を予見しながら、何もできない自らの無力さに対する、空虚な謝罪だった。
そして今、その予見は、最悪の形で現実となっている。
彼女を、拒絶する?
この震える手を、振り払う?
それは、六年前のあの日に、少女の純粋さを踏みにじった騎士の罪から目を背け、今、目の前で助けを求める魂を見殺しにすることを意味する。
それは、ゼノンという人間が、自らの魂に刻み込んできた「正義」という名の、最後の支柱を、自らの手でへし折る行為に他ならなかった。
彼の騎士としての誇りも、人間としての尊厳も、全てが、この選択に賭けられていた。
永遠にも感じられる沈黙が、二人を支配した。
会場の誰もが、息を殺して、英雄の決断を見守っている。
やがて、ゼノンは、まるで錆びついた機械のように、ぎこちなく、その右腕を上げた。
白銀の手甲に覆われた彼の指が、ゆっくりと、リリスの華奢な肩へと伸ばされる。
指先が、薄い絹のドレス越しに、彼女の震える肌に、触れた。
その瞬間、リリスの身体が、びくりと大きく跳ねた。
ゼノンの指から伝わってきたのは、拒絶の冷たさではなかった。
それは、不器用で、ぎこちなく、しかし、確かに、彼女の存在を受け入れるという、温かな肯定の意志だった。
ゼノンは、何も言えなかった。
彼の唇は、罪悪感と憐憫の重さに、固く閉ざされたままだった。
しかし、その肩に置かれた手の、僅かな力の込め方が、彼の選択の全てを物語っていた。
彼は、この少女を、選んだのだ。
その選択を、オルレアン侯爵が見逃すはずがなかった。
彼は、まるで舞台役者のように両腕を広げ、その甲高い声を、シャンデリアの水晶に反響させた。
「おお、おお!ご覧ください皆様!我らが英雄、帝国最強の断罪の槍ゼノン様は、あのか弱く美しい花をお選びになられました!なんと心優しきご選択!今宵、英雄の疲れを癒すに、これほど相応しい花はおりますまい!さあ、皆の者、英雄の寛大なるご選択に、祝福の拍手を!」
その言葉を皮切りに、張り詰めていた会場の空気が、一気に弛緩した。
貴族たちは、待ってましたとばかりに、計算された拍手を送り、貴婦人たちは、扇の陰で、好奇心と嫉妬の入り混じった囁きを交わし始めた。
壁際に並んでいた他の「花々」の中からは、あからさまな嫉妬と侮蔑の視線が、リリスの背中に突き刺さる。
オルレアン侯爵は、満足げに頷くと、すぐさま近くに控えていた執事を手招きした。
「おい、聞こえたであろう。ゼノン様のために、最上の客室を用意しろ。そして、その娘を、丁重に、お部屋までご案内申し上げるのだ。英雄の夜の安らぎを、何者にも邪魔させてはならんぞ!」
「はっ、かしこまりました、侯爵様」
執事は深々と一礼すると、リリスとゼノンの方へと静かに歩み寄った。
この一連の、あまりにも劇的な展開を、フィオナは席から、冷めた目で見つめていた。
フィオナの琥珀色の瞳は、氷のように冷え切っていた。
*…穢れた血の、狡猾な策略。あの涙も、あの懇願も、全ては、男を篭絡するための、計算され尽くした演技。そして、あの愚かな人間は、まんまとその手に落ちた。魔族とは、どこまで行っても、信用ならぬ、汚らわしい存在。*
彼女は、オルレアン侯爵の下劣さにも、ゼノンの愚かさにも、等しく静かな怒りを感じていた。
彼女の思考は、既に、あの魔族の少女が、ゼノンに対してどのような危害を加える可能性があるか、その危険性の分析へと移行していた。
彼らが、それぞれの思惑を巡らせる中、リリスは、ゼノンに肩を支えられるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は、もはや涙を流してはいなかった。
ただ、その青い瞳は、目の前に立つゼノンの、儀礼鎧の胸当ての一点だけを、じっと見つめていた。
「お客様、こちらへどうぞ」
執事が、感情のない声で、道を促す。
リリスは、ゼノンに付き従うようにして、その小さな一歩を踏み出した。
会場中の、好奇、嫉妬、侮蔑、賞賛、あらゆる感情が渦巻く視線をその背中に浴びながら、彼女は、ただ、前だけを見て、歩き始めた。
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