奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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魔族に救済はない

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リアムは、凍りついたままのゼノンの顔を、真っ直ぐに見据えた。

そして、その口から放たれた言葉は、友情の欠片も含まない、鋼のように冷たく、そして鋭い、刃そのものであった。

「ゼノン。お前、一体何を考えている」

その声は、ゼノンの魂を縛り付けていた罪悪感の霧を、一瞬で切り裂いた。

ゼノンの灰色の瞳が、ようやく焦点を結び、目の前に立つ友であり、監視者でもある男の姿を捉える。

その瞳には、困惑と、僅かな反発の色が浮かんでいた。

「リアム…何を…」

「惚けるな!」リアムの声が、大理石の廊下に厳しく響き渡った。

「お前が何をしたか、理解しているのかと聞いているんだ。この俺たちの、いや、神聖ルミナール帝国の断罪の槍たるお前が、敵国である共和国の、それも魔族の血を引く奴隷を、衆人環視の中で夜伽の相手に選んだ。これが何を意味するのか、お前のその理想で満たされた頭でも、少しは考えたらどうだ?」

リアムの言葉は、一言一言が、研ぎ澄まされた短剣のように、ゼノンの良心と誇りを抉っていく。

彼は、一歩、また一歩とゼノンに詰め寄り、その顔を覗き込んだ。

その目は、もはや冗談好きの牧師のものではなく、異端審問官のそれであった。

「お前のその行動は、共和国の貴族共に、帝国最高の騎士がいかに甘く、情に脆いかを宣伝して回ったも同然だ。彼らは、お前のその慈悲を、美徳と見るか?違う!彼らはそれを、帝国の弱点と見るのだ!この行為が、明日の交渉の場で、どれほどの政治的リスクを生むか、考えなかったのか?お前の個人的な感傷一つで、帝国がどれほどの不利益を被るか、その責任が取れるとでも言うのか、ゼノン・アルトリウス!」

*そうだ、全てはリアムの言う通りだ。俺の行動は、騎士として以前に、帝国の軍人として、あまりにも軽率で、愚かだった。だが、だからと言って、目の前で助けを求めるこの少女を、見捨てることが、俺の信じる正義だと言うのか?俺が守るべきは、帝国の威信か、それとも、このか弱き者の命か。*

ゼノンは、唇を固く噛みしめた。

反論の言葉は、鉛のように重く、喉の奥に沈んで出てこない。

彼の理想は、リアムが突きつける、冷徹で、しかし否定しようのない現実の論理の前に、あまりにも無力だった。

そのゼノンの、あまりにも人間的な葛藤を、フィオナは、氷のような無関心さで断ち切った。

彼女は、ゼノンの背後に隠れるように立つリリスへと、その琥珀色の瞳を向けた。

その視線は、もはや生物を見るそれではなく、駆除すべき害虫を見るかのような、純粋な嫌悪に満ちていた。

「リアムの言う通りよ、ゼノン。けれど、問題はそれだけではないわ」

フィオナの声は、静かだったが、その底には、リアムの激しい叱責とはまた質の異なる、絶対的な拒絶の意思が横たわっていた。

彼女は、ゆっくりと一歩前に出ると、リアムと並んで、ゼノンの前に立ちはだかった。

「貴方が手を差し伸べようとしているその存在の、本質を見なさい。それは、ただのか弱き奴隷ではない。その身には、我らが憎むべき、穢れた魔族の血が流れている。貴方は、この娘が、ドラコニア共和国が我々の動向を探るために仕掛けた、巧妙な罠である可能性を考えなかったの?あるいは、魔王軍の残党が、英雄である貴方を堕落させるために送り込んだ、甘い毒である可能性を」

フィオナは、その白い指先を、まるで汚らわしいものに触れるかのように、リリスへと向けた。

「この娘のその怯えた表情も、その涙も、全ては我々を欺くための演技かもしれない。魔族とは、そういう生き物よ。彼らは、その狡猾さと欺瞞によって、幾度となく我々を苦しめてきた。貴方は、六年前の、あの僅かな邂逅の記憶に惑わされ、その本質を見失っている。憐憫など、奴らには不要。我々が与えるべきは、ただ、断罪の鉄槌のみ」

彼女の言葉は、まるで揺るぎない真理のように、その場の空気を支配した。

エルフという、血の純潔を何よりも重んじる種族にとって、魔族との混血は、自然の摂理に反した、存在そのものが罪であるかのような冒涜であった。

彼女の正論は、ゼノンの僅かな希望さえも、根こそぎ奪い去っていく。

ゼノンは、もはや顔を上げることさえできなかった。

リアムの突きつける政治的現実。

フィオナの語る種族的憎悪。

二人の言葉は、それぞれ異なる角度から、しかし寸分の狂いもなく、彼の心の最も弱い部分を貫いていた。

彼は、帝国の槍。

魔を断ち、悪を砕く、正義の執行者。

その彼が、魔族の血を引く者を、個人的な感情で庇護するなど、あってはならないことだった。

それは、自らの存在意義そのものを、根底から覆す裏切り行為に他ならない。

しかし、彼の脳裏には、どうしても、あの日のバラ園の光景が焼き付いて離れなかった。

純粋な好意で、彼に花を差し出した少女。

その瞳には、一片の曇りもなかった。

そして、今、目の前で震えているのは、その少女が、六年の歳月を経て、絶望の果てに行き着いた姿なのだ。

この手を、離せと言うのか。

この少女を、再びあの地獄へと突き返せと言うのか。

それが、帝国のためであり、正義のためであると、受け入れろと言うのか。

ゼノンの全身が、内なる葛藤の重さに、微かに震えていた。

彼の騎士としての誓いと、軍人としての義務が、その魂の中で、互いを喰らい合うかのように、激しく引き裂き合っていた。

彼は、ただ、沈黙するしかなかった。

その沈黙こそが、彼の敗北を、何よりも雄弁に物語っていた。

リリスは、ゼノンの腕を掴むその指先から、力が失われていくのを感じていた。

リアムの厳しい声、フィオナの冷たい言葉、そして、何よりも、それに反論できずに沈黙するゼノンの姿。

その全てが、彼女に、残酷な現実を突きつけていた。

*ああ…やはり、駄目だったんだ…。*

一瞬だけ灯った希望の火は、無慈悲な冷水によって、あっけなく消し去られた。

そうだ、自分は何を期待していたのだろう。

自分は、穢れた魔族の血を引く、ただの奴隷。

英雄であるこの人が、自分のような存在を救ってくれるはずなど、最初からなかったのだ。

あの「ごめんなさい」という言葉は、決して、救済の約束などではなかった。

それは、ただの、どうすることもできない現実に対する、無力な男の、独り言に過ぎなかったのだ。

彼女は、ゼノンが特別な存在だと信じた。

彼だけは、自分を「奴隷」や「魔族」としてではなく、一人の人間として見てくれると、そう願った。

しかし、違った。

彼もまた、「帝国」という、より大きな主人の下にいる、一人の奴隷に過ぎなかったのだ。

彼を縛る鎖は、自分を縛る奴隷契約よりも、遥かに重く、そして断ち切ることのできないものだった。

涙は、もう出なかった。

絶望が、ある一定の深さを超えると、人は、涙さえ流せなくなる。

彼女の身体から、力が抜けていく。

ゼノンの腕に縋り付いていた指が、ゆっくりと、その力を失い、だらりと垂れ下がった。

その青い瞳から、最後の光が消え、再び、あの水晶の間で佇んでいた時のような、完全な虚無が、彼女を支配した。

その仕草には、もはや何の未練もなかった。

ただ、全てを諦めきった者の、静かな絶望だけが、そこに存在していた。

リリスのその諦観に満ちた仕草を、リアムは見逃さなかった。

彼は、これが潮時だと判断した。

彼は、打ちひしがれるゼノンの肩に、あえて無情に、しかし力強く手を置いた。

「ゼノン、分かったな。お前の感傷は、ここで終わりだ」

その声には、もはや友としての響きは微塵もなかった。

それは、上官が部下に下す、冷徹で、絶対的な命令だった。

「その娘を、オルレアン侯爵の元へ返却しろ。そして、今宵のことは、全て、ただの余興であり、我々の記憶には残らぬ、些細な出来事であったと、侯爵に伝えろ。これが、お前の失態を、最小限に留めるための、唯一の方法だ。いいな」

「返却」という、物を扱うかのような言葉が、ゼノンの鼓膜を打った。

それは、リリスを、完全に人格のない「所有物」として扱う、非情な宣告だった。

ゼノンは、何かを言おうと口を開きかけたが、リアムの、全てを見透かすような厳しい視線に、その言葉を飲み込むしかなかった。

ゼノンの僅かな逡巡を、フィオナは、許さなかった。

彼女は、この状況に、完全な終止符を打つことを決意した。

「もし、貴方がまだ迷うというのなら」

フィオナは、静かに詠唱を始めた。

その声は、囁きのように小さく、しかし、周囲の魔力を、急速に束ねていく。

「風の刃よ、我が指先に集え。無形の楔となりて、かの不浄を消せ」

彼女の白い指先に、淡い緑色の光が収束していく。

それは、触れれば容易く肉を切り裂くであろう、高密度の魔力の刃だった。

詠唱は、まだ完全ではない。

しかし、その切っ先は、寸分の狂いもなく、リリスの白い喉元へと向けられていた。

「この娘が、魔族のスパイであろうと、共和国の仕掛けた罠であろうと、知ったことではないわ。確かなのは、これが奴隷であるということ。そして、奴隷の命は、その所有者の意のまま。もし、この場で私がこの娘の喉を切り裂いたとしても、それは、破損した道具を処分したに過ぎず、帝国の法の下では、何らの罪にも問われない」

フィオナの琥珀色の瞳が、リリスを、そしてゼノンを、冷酷に射抜いた。

「選びなさい、ゼノン。この場で、貴方の目の前で、この穢れた血が廊下を汚すのを見るか。それとも、速やかに、この道具を、元の所有者へと返すか。貴方の正義は、どちらを望むのかしら?」

その言葉は、ゼノンに対する、最後の、そして最も残酷な、選択の宣告であった。

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