奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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命の取引

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フィオナの指先に宿る魔力の刃が、死神の吐息のように冷たい光を放っていた。

その切っ先は、リリスの白い喉元に、寸分の狂いもなく向けられている。

絶対的な死の予感が、廊下の空気を凍てつかせ、ゼノンの最後の抵抗の意志さえも粉々に打ち砕こうとしていた。

その、絶望が凝固したかのような沈黙を破ったのは、誰の予想だにしなかった、リリス自身の声だった。

「…お取引を、お願いできないでしょうか」

その声は、死の淵から絞り出されたとは思えぬほど、奇妙に澄み切っていた。

涙も、震えも、そこにはない。

ただ、全てを失った者が最後に辿り着く、無機質な静寂だけがあった。

リアムとフィオナの眉が、僅かに動いた。

この状況で、奴隷の身であるこの少女が、帝国の英雄たちに「取引」を申し出る。

それは、狂気の沙汰か、あるいは、彼らの理解を超えた、何らかの意図があるのか。

ゼノンは、虚ろな瞳を、ゆっくりとリリスに向けた。

彼の耳には、その言葉が、遠い異国の響きのように、意味をなさずに届いた。

リリスは、フィオナの殺意に満ちた視線から目を逸らさなかった。

彼女は、ゆっくりと、リアム、そしてゼノンへと、その視線を移していく。

その青い瞳の奥には、もはや個人の感情はなく、ただ、冷徹な分析と、狂気にも似た覚悟だけが宿っていた。

「リアム様は、帝国の利益を何よりも優先される。ゼノン様の行動がもたらす、政治的な不利益を、何としてでも回避なさりたいはずです」

彼女の声は、淡々とした事実を述べるかのように、澱みなく続いた。

「そして、フィオナ様は、私の内に流れる魔族の血を、心の底から憎んでいらっしゃる。この穢れた存在が、英雄であるゼノン様の傍に侍ることなど、到底お許しにはなれないでしょう」

それは、二人が先程突きつけた、非情な論理そのものであった。

それを、この奴隷の少女が、自らの口で、寸分の狂いもなく再現している。

その異様な光景に、リアムとフィオナは、初めて、この少女に対する評価を、僅かに修正する必要性を感じた。

「もし…もし、私が、この場で、貴方がた三人に、襲い掛かったとしたら?」

リリスは、そこで一度、言葉を切った。

その問いは、あまりにも突拍子もなく、しかし、悪魔的な論理の光を放っていた。

「ドラコニア共和国が用意した奴隷が、祝宴の席で、賓客である神聖ルミナール帝国の英雄を襲撃した。共和国は、言い逃れができますでしょうか。これは、共和国側による、明白な敵対行為。オルレアン侯爵がどれだけ奴隷契約の安全性を保証しようと、現に事件は起きた。そうなれば、リアム様、貴方がた帝国は、この共和国に対して、圧倒的に優位な政治的カードを手にすることになりませんか?」

*この娘…狂っている。自らの命を、外交の駒として差し出すというのか。だが…だが、その策は、確かに、悪魔的なまでに魅力的だ。共和国の首根っこを押さえつけ、こちらの要求を全て飲ませることも可能になる。ゼノンの失態を帳消しにするどころか、それを逆手に取り、帝国に計り知れない利益をもたらす…*

リアムの脳が、高速で回転を始めた。

彼の心の中で、牧師としての倫理観と、帝国の利益を追求する冷徹な計算が、激しく火花を散らす。

「そして、フィオナ様」リリスは、再びその視線を、銀髪のエルフへと向けた。

「襲い掛かった魔族の雑種を、帝国の英雄が、その場で断罪する。これ以上に、貴方様の大義と、帝国の威光を、共和国の者たちに示すことができる場面があるでしょうか。貴方様は、その手で、憎むべき穢れを、公然と、正義の名の下に、葬り去ることができるのです」

フィオナの琥珀色の瞳が、僅かに見開かれた。

この少女は、自らの死に様さえも、取引の材料として提示している。

その覚悟は、彼女がこれまで見てきた、どの魔族とも異質であった。

それは、単なる狡猾さや欺瞞ではない。

もっと根源的な、何かを賭けた、壮絶な意志の力であった。

「…面白いことを言う。で、その狂った芝居の見返りは、何だ?」

リアムが、ようやく口を開いた。

その声には、先程までの厳しい叱責の色はなく、純粋な好奇心と、冷たい探求心が混じり合っていた。

リリスは、その問いを待っていたかのように、即座に答えた。

その声には、初めて、個人の感情が、悲痛な響きとなって滲み出た。

「私の命と引き換えに、一つだけ。バーンズ子爵の屋敷、その地下牢に囚われている、私の母を…アイリスを、救い出していただきたいのです」

それが、彼女の、たった一つの、そして、全てであった。

「母を…救うため…?」ゼノンが、まるで夢から覚めたかのように、掠れた声で呟いた。

彼の灰色の瞳に、ようやく、僅かな光が戻ってきた。

「なぜ…なぜ、そこまで…。お前の命を、投げ出してまで…」

その問いは、彼の騎士としての、人間としての、根源的な疑問だった。

命の尊さを誰よりも信じ、そのために戦ってきた彼にとって、自らの命を、こうも容易く取引の道具とするリリスの思考は、到底理解の及ぶものではなかった。

リリスは、そのゼノンの、あまりにも純粋な問いかけに、ふっと、その唇の端を歪めた。

それは、笑みと呼ぶには、あまりにも悲しく、痛々しい、自嘲の形だった。

「なぜ、ですって…?」

彼女は、うつむいた。

その長い睫毛の影が、真っ白な頬に、暗い線を落とす。

「私が、生まれてこなければよかったのです。私が、この世に生を受けたから、お母様は、あのバラ園という地獄に、縛り付けられることになった。お母様は、ただ、私のために、あの人の自由を、未来を、全てを、犠牲にしてきたのです」

声が、震え始めた。

それは、もはや取引のための冷静な声ではなかった。

六年間、心の奥底に封じ込めてきた、罪悪感と自己嫌悪の、血を吐くような告白だった。

「この命は、元より、私のものではありません。この命は、お母様の苦しみと、絶望と、引き換えに、存在しているだけの、罪そのもの。ならば、この罪深い命を、お母様の自由のために使うことこそが、私が、この世に生まれてきた、唯一の意味なのです」

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

その青い瞳からは、大粒の涙が、静かに、しかし、絶え間なく流れ落ちていた。

その瞳は、真っ直ぐに、ゼノンを、リアムを、そしてフィオナを見据えていた。

「ですから、どうか、お願いします。この、何の価値もない私の命で、たった一人、私にとっての世界そのものである、あの人を、救ってください」

その悲痛な願いは、もはや取引の提案ではなかった。

それは、一人の娘が、その存在の全てを賭けて捧げる、一つの、聖なる祈りであった。

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