奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

文字の大きさ
20 / 97

ごめんなさい

しおりを挟む


大理石の廊下は、墓所のごとき沈黙に支配されていた。

リリスの、自らの命を供物として捧げるという狂気の提案は、三人の英雄たちの思考を、それぞれの迷宮へと突き落としていた。

フィオナの指先に宿る風の刃は、その輝きを失わぬまま、しかし、その切っ先は、確かな躊躇の色を宿して微かに揺れている。

魔族への憎悪という絶対の戒律が、目の前の少女の、常軌を逸した覚悟の前に、僅かながらその絶対性を揺らがされていた。

ゼノンの魂は、罪と憐憫の狭間で、もはや引き裂かれる寸前であった。

少女の悲痛な告白は、彼の騎士としての理想を根底から揺さぶる。

彼女を救うことは、帝国の軍人としての義務に背くこと。

しかし、彼女を見捨てることは、彼自身の人間としての魂を殺すこと。

灰色の瞳は、光を失い、ただ目の前の虚空を、救いなき答えを探し求めて彷徨っていた。

その中で、ただ一人、リアムだけが、冷徹な思考を維持していた。

彼の脳内では、天秤が目まぐるしく揺れ動いていた。

片方の皿には、リリスの提案がもたらすであろう、共和国に対する圧倒的な政治的優位という、計り知れない利益。

もう片方の皿には、この少女という存在そのものが孕む、予測不能なリスクと、この計画が失敗した際の、破滅的な結末。

彼は、帝国の牧師として、神ではなく、国家という、より現実的な主君に仕える者として、最も確実で、最も損失の少ない道を選ばなければならなかった。

その、張り詰めた糸のような均衡が、突如として破られたのは、廊下の奥から響いてきた、複数の、重々しい足音によってであった。

やがて、角の向こうから姿を現したのは、先程逃げるように去っていった執事に先導された、オルレアン侯爵その人であった。

侯爵は、祝宴の時とは打って変わって、その顔に油のような笑みを張り付かせながらも、その瞳の奥には、隠しようのない焦燥と怒りの色を浮かべていた。

彼の背後には、物々しい装飾の鎧に身を包んだ、十数名の私兵たちが、無言のまま控えている。

そのただならぬ空気に、三人の英雄たちの間に、新たな緊張が走った。

オルレアン侯爵は、ゼノンたちの前に進み出ると、まるで舞台役者のように、芝居がかった、大袈裟な身振りで深々と頭を下げた。

その声は、祝宴の喧騒を支配していた時の傲慢さとは裏腹に、媚びと屈従に満ちていた。

「おお、これはこれは、ゼノン様、リアム様、そしてフィオナ様!このオルレアン、なんとお詫びを申し上げればよいか!我が屋敷の不手際により、賓客であらせられる皆様に、これほどの不快の念をお与えしてしまいましたこと、返す言葉もございません!」

彼は、顔を上げると、その憎悪に満ちた視線を、リリスへと向けた。

「この卑劣なる品が、皆様のお気を悪くさせたとのこと、執事より聞き及びました!本来、お客様の夜の慰めとなるべきものが、かくも厚かましく、英雄様を煩わせるなど、あってはならぬこと!この罪、万死に値します!」

侯爵は、そう言い放つと、顎で背後の私兵たちに合図を送った。

屈強な男たちが、リリスの両側へと進み出て、その腕を、無慈悲に掴み上げた。

リリスの身体は、まるで壊れた人形のように、なすすべもなく宙に吊られる。

「さあ、英雄の皆様方、どうかお気を鎮めください。このような出来損ないのことは、お忘れいただき、改めて、我が共和国が誇る、至高の美をお選びいただきたい!今宵のために、貴族の子弟、近隣諸国から集めた絶世の美女、いずれも劣らぬ逸品を揃えておりますれば!さあ、さあ、どうか、今一度、水晶の間へ!」

その言葉は、リリスという存在を、完全に価値のない「不良品」として断じ、英雄たちの機嫌を取り結ぶための、卑屈な提案に満ちていた。

リアムは、その侯爵の下劣な芝居を、冷めた目で見つめていた。

彼の脳裏には、先程のリリスの、自らの命を賭した悲痛な願いが、一瞬だけ、蘇った。

確かに、彼女の提案は、常軌を逸してはいるが、成功すれば、帝国に莫大な利益をもたらすだろう。

その覚悟には、心を動かされるものがあった。

*だが、しかし…。*

リアムは、その一瞬の感傷を、即座に、冷たい理性で断ち切った。

*この娘は、あまりにも危険すぎる。その思考は、我々の常識の範疇を超えている。このような制御不能な駒を、帝国の未来を左右するゲームの盤上に置くことは、あまりにもリスクが高すぎる。たとえ九割九分の成功が見込めたとしても、残りの一分が、全てを破滅させる可能性を秘めている。俺の任務は、帝国に利益をもたらすことだが、それ以上に、帝国に損害を与えないことだ。*

彼の視線が、絶望に打ちひしがれるゼノンを捉えた。

*そして、何よりも、ゼノンだ。この娘の存在は、奴の魂を蝕む毒。これ以上、この娘を奴の傍に置けば、帝国の「断罪の槍」は、その刃を、内側から錆びつかせ、いずれは、その機能を完全に停止させるだろう。それだけは、絶対に避けなければならない。*

決断は、下された。

リアムは、いつもの、人好きのする笑みを、その顔に浮かべた。

「いやはや、オルレアン侯爵。これは、我々の側の問題。貴殿に非はございません。むしろ、我々の仲間が、少々、長旅の疲れで感傷的になっていただけのこと。ご配慮、痛み入ります。では、お言葉に甘えさせていただきましょうか」

その言葉は、リリスの提案を、完全に拒絶し、侯爵の提案を受け入れるという、政治的に、そして、最も安全な選択の表明であった。

リアムの、あまりにもあっさりと、そして、非情な決定。

それは、リリスにとって、ギロチンの刃が、その首筋に落ちてきたのと、同義であった。

彼女の視線が、最後の希望を託して、ゼノンへと向けられる。

しかし、彼は、何も言わなかった。

その肩は、敗北と無力感の重みに、力なく垂れ下がっている。

彼の沈黙は、どんな拒絶の言葉よりも、雄弁に、そして、残酷に、彼女の運命を告げていた。

ああ、やはり、そうか。

この人も、結局は、何もできないのだ。

私を救うことなど、できるはずもなかったのだ。

一瞬でも、彼に救済を夢見た、自分が、愚かだったのだ。

リリスの青い瞳から、最後の光が、完全に消え失せた。

それは、まるで星がその寿命を終え、冷たい暗黒へと沈んでいくかのような、静かで、しかし、決定的な死であった。

彼女の心は、再び、あの厚い氷の中に、閉ざされた。

侯爵の私兵たちが、リリスの腕を掴む手に、力を込めた。

彼女は、もはや何の抵抗も示さなかった。

ただ、引きずられるままに、その身体を、彼らに委ねる。

その、廊下の闇の奥へと、その姿が消えようとした、まさにその瞬間。

リリスは、力なく、顔を上げた。

その、もはや何の感情も映さない、ガラス玉のような瞳が、真っ直ぐに、ゼノンの姿を捉えた。

そして、その震える唇から、掠れた、囁くような声が、漏れた。

「……ごめんなさい」

その声は、あまりにも小さく、ゼノンの耳にしか、届かなかった。

それは、六年前、彼が、無垢な彼女に告げた、あの言葉。

しかし、その意味は、あまりにも異なっていた。

それは、英雄であるあなたに、救われる価値もない存在で、ごめんなさい。

それは、あなたの心を、苦しめてしまって、ごめんなさい。

それは、お母様を、救うことができなくて、ごめんなさい。

それは、この世に、生まれてきてしまって、ごめんなさい。

幾重にも、幾重にも重なった、絶望と、諦観と、そして、自己への呪詛が、その、たった一言に、込められていた。

ゼノンの身体が、まるで雷に打たれたかのように、激しく震えた。

その言葉は、見えない楔となって、彼の魂の、最も深い場所に、永遠に打ち込まれた。

リリスの姿は、無慈悲に、廊下の暗闇へと引きずり込まれ、見えなくなった。

遠ざかっていく彼女の背中に向かって、オルレアン侯爵の、粘着質な声が、追い打ちをかけるように響き渡った。

「英雄様方を失望させた、その大罪、その身に、たっぷりと、教えてやれ!二度と、人間様に逆らおうなどという、大それた考えが、浮かばぬようにな!」

その言葉に呼応するかのように、廊下の奥から、鈍い打撃音と、くぐもった悲鳴が、一度だけ、微かに聞こえてきた。

しかし、それも、すぐに、重厚な扉が閉められる音によって、完全に遮断された。

残されたのは、絶対的な沈黙と、その胸に、永遠に癒えることのない傷を刻まれた、一人の騎士の、絶望だけであった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

復讐の悪女になるはずが、天使系義兄からピュアな執着と溺愛で邪魔されてます!

鈴宮(すずみや)
恋愛
 サウジェリアンナ王国の王女エルシャは、不幸だった前世の記憶を持って生まれてきた。現世ではみんなから愛され、幸せになれると信じていたエルシャだったが、生後五ヶ月で城が襲撃されてしまう。  絶体絶命かと思いきや、エルシャは魔術師の男性から救出された上『リビー』という新たな名前を与えられ、養女として生きることに。  襲撃がジルヴィロスキー王国によるものと気づいたリビーは、復讐のため王太子妃になることを思いつく。けれど、義理の兄であるゼリックがあまりにもリビーを溺愛するため、せっかく王太子アインハードに近づくことに成功しても、無邪気に邪魔され計画がうまく進まない。  ゼリックの干渉を減らすためリビーは彼の婚約者を探したり、ゼリック抜きでアインハードとお茶をして復讐を成功させようと画策する。  そんな中、十六歳に成長したリビーはアインハードと同じ学園に入学し、本格的なアプローチを開始する。しかし、ゼリックが講師として学園へ来てしまい、チャンスをことごとく潰されてしまう。 (わたしは復讐がしたいのに!)  そう思うリビーだったが、ゼリックから溺愛される日々はとても幸せで……?

処理中です...