奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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帰る?私を、置いて?

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覚醒級冒険者としての彼女は、確固たる信頼を勝ち得たギルドの中核戦力の一人であった。

彼女が参加する任務の成功率は群を抜き、「茨の魔女」という異名は、畏怖と共に仲間内での確かな評価となっていた。

だが、その完璧な世界の縁に、ごく微かな、しかし確実な影が差し始めていることに、彼女はまだ気づいていなかった。

それは、任務報告を終えた後の、オーギュストの執務室から漏れ聞こえてきた会話だった。

「……もう、潮時だろう。これ以上、本国のギルドを空けておくわけにはいかん」

オーギュストの低い声。

「ですが……リリスのことが……」

エヴァの、不安に揺れる声。

「あの子はもう、ひよこではない。自分の足で立てる。いつまでも我々が親鳥でいるわけにはいかんのだ」

扉の隙間から聞こえてきた断片的な言葉は、リリスの胸に小さな棘のように刺さった。

*本国のギルド?潮時?*意味の分からない言葉が、脳内で反響する。

だが、その時の彼女は、それが自分の幸福な日常を根底から覆すものであるとは、想像だにしなかった。

彼女はただ、二人が何か難しい話をしているのだと、そう思うことにして、その場を足早に立ち去ったのだった。

その宣告は、数日後の夕食の席で、何の前触れもなく行われた。

食堂はいつものように、任務を終えた冒険者たちの活気と、エールジョッキのぶつかる音、そしてギルダの豪快な笑い声に満ちていた。

リリスはエヴァの隣に座り、ギルダが自慢げに振る舞うドワーフ風シチューを頬張りながら、その温かい喧騒に身を委ねていた。

それが、自分の世界のすべてだった。

彼女が命を懸けて守りたいと願う、温かく、かけがえのない宝物だった。

全ての食事が終わり、皆が食後の一杯を楽しんでいた時だった。

オーギュストが、静かに立ち上がった。

彼のその普段と違う挙動に、食堂の喧騒が水を打ったように静まり返る。

彼はテーブルにいる全員の顔を、特にリリスの顔を一度見渡した後、重々しく口を開いた。

「皆に、伝えておかねばならんことがある」

彼の隣で、エヴァが俯き、固く拳を握りしめている。

ギルダは表情を変えずに、ただ黙ってオーギュストを見つめていた。

「私と……エヴァは、三月後、このサラスを離れ、ドラコニア共和国へ帰還する」

一瞬の静寂。

その言葉の意味を、リリスはすぐには理解できなかった。

ドラコニア共和国へ?なぜ?帰る?ここが、私たちの家ではないのか?

「ご存知の通り、我々は本来、共和国のギルド白銀の天秤亭からの出向者だ。オーギュスト殿は先代マスターの盟友として、エヴァは交換治癒師として、この鉄槌と坩堝を助けてくれていた」

静寂を破ったのは、ギルダの声だった。

その声は落ち着いていたが、どこか寂しさが滲んでいる。

「だが、あちらのギルドも人手が足りん。特に、あの忌々しい煤の底の事件以来、立て直しで大わらわだと聞く。そろそろ、お二人を本来の場所へお返しするのが筋というものだ」

ギルダの言葉が、オーギュストの宣告が紛れもない事実であることを、リリスの頭に叩きつけた。

世界が、音を立てて崩れていく。

ついさっきまで温かいシチューで満たされていた胃が、氷の塊で満たされたように冷たくなる。

手足の先から血の気が引き、耳鳴りが全ての音を遮断する。

*帰る?私を、置いて?*

「……わ、私も……私も、行きます!」

リリスは、椅子から転げ落ちるように立ち上がった。

声が震え、喉が引き攣る。

「私も、皆さんと一緒に……ドラコニアへ……!」

それは懇願であり、悲鳴だった。

再び、一人になる。

捨てられる。

あの暗く、冷たい場所に、独りで。

その恐怖が、彼女の理性を麻痺させた。

「リリス……」

エヴァが、涙を浮かべた瞳でリリスを見つめた。

彼女は立ち上がり、リリスの肩に手を置く。

「それは、できないの。あなたを、連れて行くことはできない」

「な、なぜですか……!? 私は、もう弱くありません! 覚醒級です! 足手まといには、なりません! どんな仕事だって……!」

「違うの、リリス。そういうことじゃないの」

エヴァは首を横に振り、その手でリリスの首筋にそっと触れた。

「この……黒い薔薇の刻印がある限り、あなたは法的にはバーンズ子爵の所有物なのよ。私たちがあなたを共和国へ連れ帰れば、それは奴隷の窃盗という重罪になる。あなたは捕らえられ、あの男の元へ……以前よりも、もっと酷い地獄へ送り返されることになる」

エヴァの言葉は、冷たい刃となってリリスの最後の希望を切り裂いた。

奴隷の刻印。

忘れかけていた、自分の体に刻まれた、消えない呪い。

このギルドで、人間としての扱いを受けるうちに、自分がまだ法の下では「物」でしかないという事実を、彼女は都合よく忘却していた。

そうだ。

私は、自由ではない。

このサラスは、帝国の辺境都市だからこそ、共和国の法が及ばず、束の間の安息を得られていただけ。

一歩外に出れば、私は、逃亡奴隷に過ぎないのだ。

足元から、奈落が口を開けた。

手に入れたはずの光が、幸福が、温もりが、全て幻だったかのように遠ざかっていく。

目の前が暗くなり、リリスはその場に崩れ落ちそうになった。

煤の底の悪臭。

男たちの嘲笑。

無力な自分。

アイリスの、血塗れの最後の顔。

「自由になれ」

母の遺言が、嘲笑のように脳裏に響く。

自由など、どこにもなかった。

彼女は、生まれた時からずっと、見えない檻の中にいたのだ。

絶望が、黒い泥のように心に溢れ出す。

その時、彼女の視界に、エヴァの顔が映った。

エヴァは、泣いていた。

リリスを傷つけ、絶望させている罪悪感に、その美しい顔を苦痛に歪ませ、大粒の涙を流していた。

その顔を見て、リリスの中で、何かが堰を切った。

*ああ、そうだ。この人たちを、困らせてはいけない。*

この人たちは、私を救ってくれた恩人だ。

私に、人間としての生き方を教えてくれた。

彼らには彼らの人生があり、帰るべき場所がある。

私が、それを邪魔してはいけない。

リリスは、奥歯を強く噛み締めた。

唇の内側が切れ、鉄の味が広がる。

彼女は溢れ出しそうになる嗚咽を、その血の味と共に飲み込んだ。

そして、顔を上げた。

リリスは、笑っていた。

それは、ひび割れた仮面のように、痛々しく歪んだ笑顔だった。

瞳からは涙が止めどなく溢れているのに、唇だけが、必死に笑みの形を作っている。

「……そう、でしたね。私、うっかりしていました」

声は、自分のものではないように、か細く、震えていた。

「ごめんなさい、エヴァさん、オーギュストさん。わがままを、言いました」

彼女は袖で乱暴に涙を拭う。

「お二人が、帰るのは……当たり前、ですよね。ずっと、ここにいてもらうわけには、いかない」

リリスは、深呼吸を一つした。

肺が痛い。

「だから、大丈夫です。私は、ここで……ギルダさんと一緒に、ギルドを守ります。もう、一人でだって、戦えますから」

強がる言葉が、空々しく響く。

そして、彼女は、自分の魂を繋ぎ止めるための、最後の希望を口にした。

「だから……待っていてください」

リリスはエヴァの手を、祈るように両手で握りしめた。

「私、もっともっと強くなります。いつか、超然級にだって、なってみせます。そうすれば、こんな刻印、自分で消せるようになるかもしれない」

それは、何の根拠もない、ただの願望だった。

「そしたら、私が、必ず、皆さんを迎えに行きます。会いに行きますから。だから……だから、私のこと、忘れないで……ください……」

最後の言葉は、嗚咽に掻き消えた。

それは、実現の可能性が限りなく低い、しかし彼女の砕け散った心を繋ぎ止めるための、あまりにも悲痛な約束だった。

エヴァは、もう何も言えなかった。

ただ、リリスを強く、強く抱きしめることしかできなかった。

その夜、ギルドの誰もが、重い沈黙の中にいた。

エヴァは自室のベッドで、リリスの「忘れないで」という言葉を繰り返し思い出し、彼女を置いていくという選択がもたらす罪の重さに、静かに涙を流し続けた。

オーギュストは執務室の暗闇の中、一人、エヴァが淹れてくれた苦い茶を啜っていた。

非情な決断を下した己の立場を噛みしめながら、遠いドラコニア共和国の、混沌とした未来に思いを馳せていた。

そして、リリスは。

彼女は、ギルドから支給された自室のベッドの上で、膝を抱えていた。

部屋の明かりは消され、完全な暗闇が彼女を包んでいる。

手に入れたはずの光が、音を立てて消えていく。

温もりは、指の隙間からこぼれ落ちていく。

三月後。

その日、自分の世界は、再び終わるのだ。

彼女は、暗闇の中で、ただひたすらに、その耐え難い恐怖と孤独に、独りで耐え続けていた。
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