奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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一生分の思い出を

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あの絶望の夜が明けた時、リリスの世界から色は消え失せていた。

自室の小さな窓から差し込む朝の光は、もはや希望の輝きではなく、ただ時間の残酷な進行を告げるだけの、無機質な照明に過ぎなかった。

ベッドの上で、彼女は夜通し膝を抱えたまま、一睡もしていなかった。

心は鉛のように重く、指一本動かす気力さえ湧いてこない。

三月。

たった三月。

それは、永遠に続くかと思われた幸福な日々に突きつけられた、死刑執行の宣告だった。

その日が来れば、エヴァもオーギュストもいなくなる。

この温かい場所は、温かい場所ではなくなる。

自分は、また独りになる。

その想像は、鋭いガラスの破片となって、彼女の胸を内側から切り刻んだ。

だが。

リリスは、ゆっくりと顔を上げた。

壁に掛けられた粗末な鏡に映るのは、光を失った瞳と、絶望に青ざめた顔色の、幽霊のような少女の姿。

*こんな顔を、エヴァさんに見せるわけにはいかない。*

エヴァは泣いていた。

自分を傷つけた罪悪感に、苦しんでいた。

これ以上、あの優しい人を苦しませてはならない。

悲しませてはならない。

リリスは、ベッドから這い降り、鏡の前に立った。

そして、自分の頬を両手で挟み、無理やり口角を引き上げた。

鏡の中の少女は、泣き出しそうな、歪んだ笑顔を浮かべている。

ダメだ、これでは。

もっと、自然に。

もっと、幸せそうに。

彼女は何度も何度も、笑顔を作る練習をした。

涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えながら。

*私は、大丈夫。私は、強い。*

自分にそう言い聞かせる。

残された時間は、三月。

その時間を、ただ絶望に浸って過ごすのではない。

この三ヶ月を、エヴァにとって、そして自分にとって、人生で最も輝かしい、最高の思い出にするのだ。

それが、自分にできる唯一の、そして最後の恩返し。

やがて、鏡の中の少女の顔に、完璧な、しかしどこかガラス細工のように儚い笑顔が張り付いた時、リリスは部屋の扉を開けた。

今日から、新しい戦いが始まる。

悲しみという内なる敵との、孤独な戦いが。

その日、食堂に現れたリリスは、いつもと何ら変わらないように見えた。

「おはようございます、エヴァさん、ギルダさん」

その声は明るく、表情は穏やかだった。

昨夜の絶望など微塵も感じさせない完璧な演技に、ギルダは安堵のため息をつき、エヴァは逆に胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

*リリス……あなたは、なんて……。*

朝食を終えると、リリスはエヴァの前に立ち、どこか誇らしげに、しかし少し照れたように言った。

「エヴァさん。今日、私に付き合っていただけませんか? 任務で稼いだお金が、たくさんあるんです」

彼女が差し出したのは、覚醒級冒険者として幾多の任務をこなし、貯めてきた報酬の全てが入った、ずっしりと重い革袋だった。

その額は、一般的な事務職の月収を遥かに超える、数千ドルに達していた。

「これを使って、エヴァさんに、贈り物をしたいんです。それから……街を、案内したい」

戸惑うエヴァの手を取り、リリスは有無を言わさぬ力強さでギルドの外へと歩き出した。

彼女が最初に向かったのは、中央広場に面した、街で最も高級な洋服店だった。

豪奢な装飾が施された扉に、エヴァは気圧されて足を止める。

「リリス、ここは……私たちには分不相応よ」

「そんなことはありません」

リリスはきっぱりと言った。

「今の私は、ギルドの覚醒級冒険者。これくらいのお店に入る資格は、十分にあります。そして、エヴァさんは、私の……一番大切な人です。世界で一番美しい服を着る資格があります」

その真っ直ぐな瞳に、エヴァは何も言えなくなった。

店内は、色とりどりの絹やレースで織られたドレスが、まるで宝石のように並べられていた。

リリスは迷うことなく、その中の一着を指差した。

それは、穏やかな陽光を思わせる、美しい亜麻色のドレスだった。

繊細な花の刺繍が施され、スカートの裾は優雅なドレープを描いている。

「これを、試着してください」

リリスが選んだドレスは、まるでエヴァのために作られたかのように、彼女の柔らかな雰囲気と、亜麻色の髪によく似合っていた。

鏡の前に立ったエヴァは、そのあまりの美しさに息を呑む。

「……リリス、でも、こんな高価なもの……」

「私からの、プレゼントです」

リリスは店員に代金を支払いながら、きっぱりと言い切った。

その額は、彼女の報酬の半分近くを占めていた。

「今まで、たくさんお世話になりましたから。その、ほんの気持ちです」

そう言って微笑むリリスの顔は、本当に幸せそうに見えた。

だが、その笑顔が、鋭い棘となってエヴァの心を突き刺す。

*違う。あなたは、本当は笑ってなどいない。私のために、無理をしているだけ……。*

このドレスの代金は、彼女が血と泥にまみれ、命を懸けて稼いだお金だ。

その重みを思うと、エヴァはドレスを纏う自分の体が、鉛のように重く感じられた。

喜びと、それ以上に深い罪悪感。

その二つの感情が渦巻き、エヴァはただ「ありがとう」と囁くのが精一杯だった。

新しいドレスに着替えたエヴァを連れて、リリスが次に向かったのは、甘い香りが漂う小さな菓子店だった。

ショーケースには、色とりどりのフルーツが乗ったケーキや、艶やかなチョコレート、こんがりと焼き上げられたクッキーが、所狭しと並んでいる。

「わあ……!」

思わず声を上げるエヴァに、リリスは満足そうに微笑んだ。

「好きなだけ、選んでください。全部、私が買います」

彼女は、まるで子供がおもちゃを買い与えるように、エヴァが指差す菓子を次から次へと注文していく。

やがて、二人の手は、持ちきれないほどの紙袋でいっぱいになった。

「こんなにたくさん、どうするの?」

「食べましょう。オーギュストさんや、ギルダさんにもおすそ分けして。でも、ほとんどは、私とエヴァさんで」

リリスはそう言うと、真剣な顔でエヴァを見つめた。

「私、甘いものを食べると、幸せな気持ちになるんです。だから、エヴァさんにも、たくさん幸せな気持ちになってほしい。残りの三ヶ月で、一生分の思い出を、作りたいんです」

その言葉に、エヴァは胸が張り裂けそうになった。

一生分の思い出。

それは、これからの永遠の別離を前提とした、あまりにも悲痛な願いだった。

彼女は、目の前の健気な少女に、何と声をかければいいのか分からなかった。

菓子店を出て、噴水のある広場へ向かう。

石畳の上を歩きながら、リリスは、不意にエヴァの手を強く握った。

その手は、小さく、そして必死なまでに力が込められていた。

まるで、少しでも気を抜けば、エヴァがこのまま霞のように消えてしまうのを恐れるかのように。

リリスは何も言わない。

ただ、前を向いて歩いているだけだ。

だが、その握られた手から、彼女の押し殺した叫びが、悲痛なまでの願いが、エヴァに痛いほど伝わってきた。

*行かないで。私を、独りにしないで。*

エヴァは、その声なき声に応えることができない。

彼女にできるのは、リリスの手を、同じ強さで握り返すことだけだった。

広場のベンチに座り、買ってきたばかりのケーキを頬張る。

甘いクリームが口の中に広がるが、エヴァにはその味をほとんど感じることができなかった。

隣で幸せそうにケーキを食べるリリスの横顔を見つめながら、エヴァの心は、罪悪感という名の底なしの沼に、ずぶずぶと沈んでいく。

自分は、この少女から、未来だけでなく、今この瞬間の幸福さえも奪おうとしているのだ。

その事実に、彼女は耐えられなかった。

その夜、ギルドの自室に戻ったエヴァは、ベッドの上に、今日リリスから贈られた亜麻色のドレスを広げた。

魔石灯の光を受けて、ドレスは静かに輝いている。

それは、リリスの献身と、そして彼女の悲しみの結晶だった。

エヴァはそのドレスに顔を埋め、声を殺して泣いた。

リリスの笑顔が、言葉が、握りしめられた手の感触が、何度も何度も脳裏に蘇り、彼女の心を苛む。

なぜ、自分はもっと早く、彼女の刻印を解く方法を探さなかったのか。

なぜ、安易に帰還を決めてしまったのか。

後悔が、荒れ狂う嵐のように彼女の心を打ちのめした。

だが、もう遅いのだ。

決定は下された。

自分は、この優しい少女を見捨てて、去らねばならない。

その罪の重さに、エヴァはただ打ちひしがれるしかなかった。

そして、壁一枚を隔てた隣の部屋。

リリスもまた、ベッドの上で独り、暗闇の中にいた。

一日中張り続けていた笑顔の仮面を外し、彼女はようやく、自分の悲しみに向き合うことを許された。

堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちる。

寂しい。

怖い。

行かないで。

言葉にならない叫びが、胸の奥で渦巻く。

だが、彼女は決して声には出さなかった。

ひとしきり涙を流した後、彼女は顔を上げ、濡れた瞳で窓の外に浮かぶ月を見上げた。

*泣いていても、時間は過ぎていく。*

明日になれば、また太陽が昇る。

そうしたら、また、笑わなければ。

エヴァさんのために。

残された、かけがえのない時間のために。

リリスは、冷たいシーツを強く握りしめた。

二つの部屋で、二つの孤独な魂が、それぞれの痛みと罪悪感に苛まれながら、同じ月を見上げていた。

幸福な思い出を作るための、献身的な一日は、こうして深い悲しみと共に幕を閉じたのだった。
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