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第五章 混迷の星
01 スタジアム喪章事件(上)
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ゲバラ侯爵夫人アビガイル・パルマが帰宅したのは午後8時過ぎだった。
クライフの四大陸の一つイシヤマ大陸にあるルーベンススタジアムで行われた皇帝杯クライフ予選開会式出席と開幕試合観戦を終えて大陸のもよりの空港から2時間で第三空港に到着すれば午後7時には屋敷に戻れるはずだった。
地下玄関でリムジンを出迎えた家令のカルモナは主の顔色の悪さに驚き、お休みになられたほうがと言ったが、アビガイルは大丈夫だと言って自室に行き晩餐のために着替え入念に化粧を直した。
ダイニングに行くと、すでに正装したビクトルとレオポルド、アマンダ、それにサカリアスがいた。サカリアスが屋敷に来たことはカルモナから連絡をもらっていたので、アビガイルは驚きを見せなかった。ただ、一言連絡くらいしなさいとだけ言った。
サカリアスは急な休暇だったのでとだけ言った。
「遅れましたけれど、開会式は無事に終わりました。さあ、食事にしましょう。私もすっかりおなかが空いたわ」
実際は食欲はなかったが、食べなければとアビガイルは自らを励ますように言った。
「何かあったのですか」
ビクトルの問いにアビガイルは少し間をおいて答えた。
「話は食事の後で。サカリアス、あなたクラブサンドでこの時間までもたなかったんじゃないの。サパテロさんもお仕事大変なのにこんな時間になってしまって申し訳ないわ」
食事の間、アビガイルは口数が少なかった。代わりにビクトルの舌がよくまわった。
「それで都市伝説の話になったんです。サパテロさん、結構詳しいんですよ」
「いえいえ。店に来る人達の話を聞いただけです。ご老人の話は面白くて」
「ビクトル、大蛇や人魚や雪男のありもしない話を書き散らすなよ。怪力乱神は語るべからずと言う」
「叔父さん、ありもしない話じゃないですよ。目撃者もいるんだから。宇宙軍にはないんですか、そういうの。開かずの倉庫とか」
「下らん。開かなかいドアは壊せばいいんだ。バズーカ一発でたいていのドアは開く」
「さすが軍人だ。でも力では開けられない扉もある、たとえば女心」
レオポルドの言葉にサカリアスはぎくりとした。応接間のやりとりが聞こえたのだろうかと不安になった。
「サパテロさん、御経験がおありのようね」
アビガイルの問いにレオポルドは意味深に微笑んだ。
「それは御想像にお任せします」
社交の場で父が時折見せるこういったほのめかしや婉曲な表現といった貴族の片鱗がアマンダには不思議に思えた。エストレージャの厨房の中にいた時とはまるで違う。祖父の代で大公位を返上したとはいえ、父はやはり貴族の血を引いているのだ。一体、本当の父はどちらなのだろうか。
「叔父さん、女心の扉を開ける兵法をサパテロさんに教わったほうがいいよ」
ビクトルがしれっとした顔で言った。
「兵法だと! それは女性に失礼ではないか。女性は敵か」
サカリアスが真面目な顔で甥をたしなめた。
「そういう意味で言ったんじゃないよ。でも、戦略は必要だよ、何事にも」
「くだらん」
サカリアスは黙ってラム肉のステーキを口に入れた。
兵法、戦略なんて物騒な言葉だとアマンダは思う。心の扉を開けるというのも少し違うような気がする。扉は開けてもらうものではない、自分で開けるものではなかろうか。
「心の扉って、外から他人が開けられるものなんでしょうか。内側から自然に開くのではないでしょうか」
アマンダの言葉にサカリアスのナイフを持つ右手の動きが止まった。
「まあ、ロマンティックね。そうね。他人にこじ開けられるものではないわね」
アビガイルは微笑んだ。
「つまり如何にして御婦人に心を開けてもらうか、だね、叔父さん」
ビクトルはそう言うと、ラム肉の最後の一切れを口に運んだ。
ここが侯爵邸のダイニングでなければおまえを投げ飛ばすとサカリアスは心の中で毒づいた。
デザートとコーヒーのために隣の部屋に移った後、アビガイルは四人を中央のテーブルのまわりに座らせた。いつもなら思い思いの席に座るところだが、今日はあまり大きな声では話せないことを話さなければならなかったのだ。
「開会式のニュースに映像がなかった理由かな」
最初に口を開いたのはビクトルだった。
「気付いてたのね」
アビガイルは話し始めた。
「何もかも予定通りに始まった。ルーベンススタジアムの観客入場は本当にスムーズだった。所持品検査もね。セレモニーもパフォーマンスもイシヤマ大陸の総督の開会宣言も私の祝辞も時間通り。フットボール協会の会長の祝辞はよかったわ。前の会長みたいにだらだらと長くなかったし。帝國国歌斉唱の後くらいから、観客席がざわつき始めた。それでも開会式は無事に終わって、開幕試合のブランコ対カレーラスの選手がフィールドでアップを始めた」
「つまり開会式は無事に終わった」
サカリアスが確認するように言った。アビガイルが食事前に言っていたことは嘘ではない。
「ええ。でもね、私達の知らないところで動きがあった。フィールドで選手がアップしている時に、総督が気付いた。両チームの選手が黒い幅広のゴムバンドを腕に着けていることに。フットボール協会会長に確認した。誰か関係者が亡くなったのかと。そういう話は聞いていないと会長は言った。それから客席を見ると、ブランコ側でもカレーラス側でも、やはり腕に黒いものを巻いているのが見えた。入場の時には誰もそんなもの着けていなかったのに。協会の役員が双方の監督に確認した。すると、これは先日海賊のために亡くなった父娘のための喪章だと答えた」
アマンダは自分と父の訃報が遠く離れた星のフットボールの選手にまで影響を与えたことに驚くと同時に大袈裟な気がした。
「役員はそれならと許可を出した。皇帝陛下が弔意を示したから、これは許されるだろうと考えた上でね。私もちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、陛下から弔意があったからと黙認した。アップが終わって選手たちがいったんロッカールームに引き上げていよいよ熱狂の一年半が始まると思った」
一同が嫌な予感を覚えるに足るほどアビガイルの声は低かった。
「両チームの選手、スタッフが入場した。試合が始まった。いい試合だった。ブランコのフォワードのファン・ドールンがシュートを打てばカレーラスのキーパープラドがしっかりキャッチする。二人ともクライフの昨年の優秀選手に選ばれているだけある。前半は0対0で終わった。あっという間だった。後半は、カレーラスのライネスが一点先取。さあ、ブランコの反撃が始まるっていう時に、貴賓室に警備担当の警察隊長が入って来た。隊長はこれを持ってきた」
アビガイルはスカートの襞の間の隠しから小さく折りたたんだ紙を取り出しテーブルに広げた。
アマンダは思わずひっと声を上げてしまった。
チャンドラーを忘れるな!
コーンウェルのチャンドラーでは
10,000人以上が
海賊に殺された
マクベインのハメットでは100人以上
報道されないのは何故だ?
皇帝はたった二人にしか弔意を示さなかった
示されなかった人々の死は無意味だというのか
チャンドラーを見捨てるな!
一般的な印刷物によく使われる字体で数字だけに赤文字が使われたチラシには深い恨みがこもっているようだった。
「チャンドラーの件は総督は知っていたようだけれど、フットボール協会会長は知らなくてショックを受けてた。警察隊長はこれは謀反だと言い出した。試合を中止にしろと。だけど、ここで中止にしたら観客が騒いで大混乱になるから、フットボール協会会長と総督、私は反対した。警察隊長は終了後は速やかに観客を退場させると言って引き下がった。試合は結局カレーラスが一点を守って終わった。事件は試合後の記者のインタビューで起きた。カレーラスのルイス監督が腕の喪章をつかんで今日の勝利をチャンドラーで死んだ息子と孫娘に捧げる、チャンドラーを忘れないと言った」
四人は息を呑んだ。はるかなケプラー星系に家族のいる監督がいたとは。
「ルイス監督と正式な結婚をしていなかった女性との息子がチャンドラーに住んでいた。警察上層部は念のため選手やスタッフにチャンドラーやハメットの関係者がいないか調べていたらしい。書類に残っていない関係だから警察も把握していなかった。警察隊はすぐにルイス監督を連行した。そしたら、まだ観客席に残っていたカレーラスのサポーターたちがフィールドに降りて来た。ブランコのサポーターたちまで。警察隊は彼らを排除しようとして……」
アビガイルは声を詰まらせた。何が起きたのか、想像はついた。
「自動小銃を使ったの?」
ビクトルの問いにアビガイルは小さくええと答えた。
クライフの四大陸の一つイシヤマ大陸にあるルーベンススタジアムで行われた皇帝杯クライフ予選開会式出席と開幕試合観戦を終えて大陸のもよりの空港から2時間で第三空港に到着すれば午後7時には屋敷に戻れるはずだった。
地下玄関でリムジンを出迎えた家令のカルモナは主の顔色の悪さに驚き、お休みになられたほうがと言ったが、アビガイルは大丈夫だと言って自室に行き晩餐のために着替え入念に化粧を直した。
ダイニングに行くと、すでに正装したビクトルとレオポルド、アマンダ、それにサカリアスがいた。サカリアスが屋敷に来たことはカルモナから連絡をもらっていたので、アビガイルは驚きを見せなかった。ただ、一言連絡くらいしなさいとだけ言った。
サカリアスは急な休暇だったのでとだけ言った。
「遅れましたけれど、開会式は無事に終わりました。さあ、食事にしましょう。私もすっかりおなかが空いたわ」
実際は食欲はなかったが、食べなければとアビガイルは自らを励ますように言った。
「何かあったのですか」
ビクトルの問いにアビガイルは少し間をおいて答えた。
「話は食事の後で。サカリアス、あなたクラブサンドでこの時間までもたなかったんじゃないの。サパテロさんもお仕事大変なのにこんな時間になってしまって申し訳ないわ」
食事の間、アビガイルは口数が少なかった。代わりにビクトルの舌がよくまわった。
「それで都市伝説の話になったんです。サパテロさん、結構詳しいんですよ」
「いえいえ。店に来る人達の話を聞いただけです。ご老人の話は面白くて」
「ビクトル、大蛇や人魚や雪男のありもしない話を書き散らすなよ。怪力乱神は語るべからずと言う」
「叔父さん、ありもしない話じゃないですよ。目撃者もいるんだから。宇宙軍にはないんですか、そういうの。開かずの倉庫とか」
「下らん。開かなかいドアは壊せばいいんだ。バズーカ一発でたいていのドアは開く」
「さすが軍人だ。でも力では開けられない扉もある、たとえば女心」
レオポルドの言葉にサカリアスはぎくりとした。応接間のやりとりが聞こえたのだろうかと不安になった。
「サパテロさん、御経験がおありのようね」
アビガイルの問いにレオポルドは意味深に微笑んだ。
「それは御想像にお任せします」
社交の場で父が時折見せるこういったほのめかしや婉曲な表現といった貴族の片鱗がアマンダには不思議に思えた。エストレージャの厨房の中にいた時とはまるで違う。祖父の代で大公位を返上したとはいえ、父はやはり貴族の血を引いているのだ。一体、本当の父はどちらなのだろうか。
「叔父さん、女心の扉を開ける兵法をサパテロさんに教わったほうがいいよ」
ビクトルがしれっとした顔で言った。
「兵法だと! それは女性に失礼ではないか。女性は敵か」
サカリアスが真面目な顔で甥をたしなめた。
「そういう意味で言ったんじゃないよ。でも、戦略は必要だよ、何事にも」
「くだらん」
サカリアスは黙ってラム肉のステーキを口に入れた。
兵法、戦略なんて物騒な言葉だとアマンダは思う。心の扉を開けるというのも少し違うような気がする。扉は開けてもらうものではない、自分で開けるものではなかろうか。
「心の扉って、外から他人が開けられるものなんでしょうか。内側から自然に開くのではないでしょうか」
アマンダの言葉にサカリアスのナイフを持つ右手の動きが止まった。
「まあ、ロマンティックね。そうね。他人にこじ開けられるものではないわね」
アビガイルは微笑んだ。
「つまり如何にして御婦人に心を開けてもらうか、だね、叔父さん」
ビクトルはそう言うと、ラム肉の最後の一切れを口に運んだ。
ここが侯爵邸のダイニングでなければおまえを投げ飛ばすとサカリアスは心の中で毒づいた。
デザートとコーヒーのために隣の部屋に移った後、アビガイルは四人を中央のテーブルのまわりに座らせた。いつもなら思い思いの席に座るところだが、今日はあまり大きな声では話せないことを話さなければならなかったのだ。
「開会式のニュースに映像がなかった理由かな」
最初に口を開いたのはビクトルだった。
「気付いてたのね」
アビガイルは話し始めた。
「何もかも予定通りに始まった。ルーベンススタジアムの観客入場は本当にスムーズだった。所持品検査もね。セレモニーもパフォーマンスもイシヤマ大陸の総督の開会宣言も私の祝辞も時間通り。フットボール協会の会長の祝辞はよかったわ。前の会長みたいにだらだらと長くなかったし。帝國国歌斉唱の後くらいから、観客席がざわつき始めた。それでも開会式は無事に終わって、開幕試合のブランコ対カレーラスの選手がフィールドでアップを始めた」
「つまり開会式は無事に終わった」
サカリアスが確認するように言った。アビガイルが食事前に言っていたことは嘘ではない。
「ええ。でもね、私達の知らないところで動きがあった。フィールドで選手がアップしている時に、総督が気付いた。両チームの選手が黒い幅広のゴムバンドを腕に着けていることに。フットボール協会会長に確認した。誰か関係者が亡くなったのかと。そういう話は聞いていないと会長は言った。それから客席を見ると、ブランコ側でもカレーラス側でも、やはり腕に黒いものを巻いているのが見えた。入場の時には誰もそんなもの着けていなかったのに。協会の役員が双方の監督に確認した。すると、これは先日海賊のために亡くなった父娘のための喪章だと答えた」
アマンダは自分と父の訃報が遠く離れた星のフットボールの選手にまで影響を与えたことに驚くと同時に大袈裟な気がした。
「役員はそれならと許可を出した。皇帝陛下が弔意を示したから、これは許されるだろうと考えた上でね。私もちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ったけれど、陛下から弔意があったからと黙認した。アップが終わって選手たちがいったんロッカールームに引き上げていよいよ熱狂の一年半が始まると思った」
一同が嫌な予感を覚えるに足るほどアビガイルの声は低かった。
「両チームの選手、スタッフが入場した。試合が始まった。いい試合だった。ブランコのフォワードのファン・ドールンがシュートを打てばカレーラスのキーパープラドがしっかりキャッチする。二人ともクライフの昨年の優秀選手に選ばれているだけある。前半は0対0で終わった。あっという間だった。後半は、カレーラスのライネスが一点先取。さあ、ブランコの反撃が始まるっていう時に、貴賓室に警備担当の警察隊長が入って来た。隊長はこれを持ってきた」
アビガイルはスカートの襞の間の隠しから小さく折りたたんだ紙を取り出しテーブルに広げた。
アマンダは思わずひっと声を上げてしまった。
チャンドラーを忘れるな!
コーンウェルのチャンドラーでは
10,000人以上が
海賊に殺された
マクベインのハメットでは100人以上
報道されないのは何故だ?
皇帝はたった二人にしか弔意を示さなかった
示されなかった人々の死は無意味だというのか
チャンドラーを見捨てるな!
一般的な印刷物によく使われる字体で数字だけに赤文字が使われたチラシには深い恨みがこもっているようだった。
「チャンドラーの件は総督は知っていたようだけれど、フットボール協会会長は知らなくてショックを受けてた。警察隊長はこれは謀反だと言い出した。試合を中止にしろと。だけど、ここで中止にしたら観客が騒いで大混乱になるから、フットボール協会会長と総督、私は反対した。警察隊長は終了後は速やかに観客を退場させると言って引き下がった。試合は結局カレーラスが一点を守って終わった。事件は試合後の記者のインタビューで起きた。カレーラスのルイス監督が腕の喪章をつかんで今日の勝利をチャンドラーで死んだ息子と孫娘に捧げる、チャンドラーを忘れないと言った」
四人は息を呑んだ。はるかなケプラー星系に家族のいる監督がいたとは。
「ルイス監督と正式な結婚をしていなかった女性との息子がチャンドラーに住んでいた。警察上層部は念のため選手やスタッフにチャンドラーやハメットの関係者がいないか調べていたらしい。書類に残っていない関係だから警察も把握していなかった。警察隊はすぐにルイス監督を連行した。そしたら、まだ観客席に残っていたカレーラスのサポーターたちがフィールドに降りて来た。ブランコのサポーターたちまで。警察隊は彼らを排除しようとして……」
アビガイルは声を詰まらせた。何が起きたのか、想像はついた。
「自動小銃を使ったの?」
ビクトルの問いにアビガイルは小さくええと答えた。
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