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第六章 査察団

08 誓い

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 唇で誓うと言っても、身体を近づけなければそれはできない。
 サカリアスはアマンダを抱き締めたことを思い出す。立って唇を合わせるのは身長差があるので二人とも少々つらい姿勢になる。

「こちらに座ってくれないか」

 サカリアスの座るソファは三人は座れる。隣に座ればさほど無理な身長差にはならない。 
 アマンダは抱き締められた時のことを思い出した。あんなふうに抱き締められて口づけるのだろうか。想像するだけでひどく恥ずかしかった。
 けれどこれは誓いである。恥ずかしいからと拒むことはできない。
 アマンダはゆっくりと立ち上がり、向かいのソファの端に座った。

「もう少しこっちだ」

 サカリアスに言われ10センチほど動いた。

「もっとこっちへ」
 
 さらに近づく。サカリアスの身体との間隔は5センチもない。サカリアスが低い声で囁いた。

「家族以外との口づけは初めてか」
「はい」

 アマンダは小さくうなずいた。
 サカリアスはよくぞ娘を守ってくれたとレオポルドに感謝した。

「私もだ」

 サカリアスの言葉にアマンダは思わずえっと声に出していた。サカリアスは26歳のはずである。これまで交際していた人がいなかったとは信じられない。ドラマの中のこの年頃の男性主人公はたいてい恋を一度か二度は経験しているのに。
 確かに軍隊は男性が多い。女性兵士もいるが、補給や後方に多くパイロットは少ない。ただ、彼らに出会いの場がないわけではないこともアマンダは知っている。ヨハネス基地の兵士たちの多くが基地周辺にある女性のいる飲食店に出入りしている。学校に隠れてそういう店でアルバイトをしていた商業学校の同級生もわずかだがいた。卒業と同時にヨハネス基地の兵士と結婚した同級生もいる。今幸せかどうかは知らないが、少なくとも兵士は交際しようと思えばできるのだ。
 一方、サカリアスはアマンダの反応に困惑していた。女性にとって男性に経験がないのは驚くべきことなのかと。だが、伝えるべきことは伝えたかった。

「口づけは大切な人にとっておきたかった」

 口づけは。それ以外はとっていないということかとアマンダは解釈した。ということはこれまで交際していた女性がいたということだろう。大切な人と言ってくれるのは嬉しいが、少し引っかかるものがあった。

「ありがとうございます。でも」
「何だ」
「いえ、いいです」
「何か訊きたいことがあるなら何でも訊いてくれ」
「私の前に交際していた方々は大切にされてなかったのですか。なんだか大切にされなかった方々の恨みをかいそうで」

 サカリアスは衝撃でひっくり返りそうになった。

「た、大切にするも何も、誰とも交際してない」
「は?」
「だから恨まれることはない」
 
 ということは「口づけは」ではなく「口づけも」が正しいのではないだろうかとアマンダは思った。ともあれ細かいことを問い詰めるとサカリアスが焦るようなので、やめておいたほうがいいような気がした。

「恨まれることがないのなら安心です」
「よかった」

 サカリアスの片頬がわずかに動いた。と同時に左の腕で抱き寄せられた。顔がグンと近くなり、アマンダは深呼吸した。サカリアスの右手がアマンダの髪を撫でた。

「髪を切ったそうだな。身元を偽るためとはいえつらかったのではないか」
「そうでもないです。気分が変わるし」
「結婚式のために伸ばしておいてくれ」

 帝國の結婚式では女性は長く伸ばした髪を結い上げるのが一般的だった。
 
「殿下は髪を伸ばしてらっしゃるのですか」

 アマンダは炎の色の髪に手を伸ばした。サカリアスはそれだけで身体中がかっと熱を帯びてきたように感じられた。

「切る暇がなくてな」

 宇宙軍の基地内には理容室がある。行った時に限って途中で出動命令が出るので行かなくなった。伸びすぎたら自分で切っている。というわけでサカリアスの髪は軍人にしては長い。仕事中は整髪料でなびかないように固めている。

「お忙しいのですね」
「軍人が忙しいのは望ましいことではないな」
「髪はそのままがいいかと」
「え?」
「初代の陛下も髪が赤かったとうかがっています。赤い髪をなびかせた軍服姿は絵になります。初代の陛下を連想させますし」

 そんなことをサカリアスは考えたこともなかった。宮殿の大広間に掲げられた巨大な肖像画を見て髪が同じ色だと思ったことはなかった。晩年の白髪姿だったからである。だが、若い頃の写真や肖像画の髪は確かに赤かった。

「そうだな」

 市井に暮らしていたアマンダはサカリアスが気付かないことを指摘する。この髪が絵になるとは、まるで俳優かアイドルについて語るようだった。
 話をしている間にも時は過ぎる。9時までそんなに時間はない。
 サカリアスは言った。

「誓いをせねばな。私、サカリアス・アルフォンソ・ベテルギウスはアマンダ・ドラ・サパテロを妻とし永遠に愛することを誓う」

 別に誓いをしなければならないという決まりはないのだが、サカリアスは結婚式の誓いの言葉を真似た。
 アマンダはサカリアスの口上を真似た。

「私アマンダ・ドラ・サパテロはサカリアス・アルフォンソ・ベテルギウス殿下を夫とし永遠に愛することを誓う」

 サカリアスはアマンダに見つめられ頭に血がのぼってきた。冷静にならねばと思い下を向くと、真紅のドレスの胸元が見えた。前からは定かにはわからなかったが、上から見ると、二つの乳房の谷間が垣間見えた。胸を強調するデザインの魔法によるものである。
 まずい。サカリアスは自分の身体が暴走しかけていることに気付いた。冷静にならねば。円周率を頭で繰り返すといいと言うが、とても覚えている桁数では間に合いそうにない。

「殿下、いかがされましたか」

 アマンダの声がサカリアスの混乱に拍車をかけた。冷静になどとてもなれない。

「少し待ってくれ」
「え?」

 サカリアスは立ち上がると、凄い勢いで奥へ行った。
 ソファに取り残されたアマンダはわけがわからなかった。
 おなかの具合がよくないのだろうか。だが、今日の食事に特に問題はなかったように思う。アマンダの消化器には何ら異常はない。
 それとも緊張して胃腸に負担がかかったのだろうか。
 あれこれ考えても結論は出ない。
 戻ったら聞いてみようかと思った。体調が悪いなら早く休ませて差し上げなければ。
 しばらくするとサカリアスは戻って来た。

「大丈夫ですか。無理はなさらないで」
「大丈夫だ」

 サカリアスはアマンダの隣に座った。さっきより落ち着いて見えた。きっとおなかの調子がよくなったのだろうとアマンダは思った。
 サカリアスはアマンダを抱き寄せた。さほど強い力ではなかった。

「口づけをしていいか」
「はい」

 アマンダは目を閉じた。ドラマのヒロインは必ずキスの時目を閉じる。
 唇に少しかさついた唇が重なったかと思うとすぐ離れた。それだけだった。これが口づけ? ドラマならもっと長い時間するものなのに。誓いの口づけだから短いのだろうか。
 目を開けると、サカリアスの厳つい顔と赤い髪がすぐそばに見えた。

「これで私達は婚約した。父上には私から報告するから、あなたはもうお休み。疲れただろう」
「はい。殿下も早くお休みになってください」

 アマンダは部屋を出た。
 廊下の古めかしい大時計が9回音を鳴らした。



 サカリアスは感じたことのない種類の疲れを感じていた。肉体的なものではなく精神的な疲れだった。
 勿論、アマンダの気持ちを確かめられたのは嬉しかった。一緒に戦ってくれるとも言った。こんなに嬉しいことはなかった。士官学校で成績優秀者のメダルを獲得した時も大学でシャトルの一級免許を取得した時も嬉しかったが、それとは違う喜びをサカリアスは感じていた。
 だが、この喜びを持続させるためには忍耐力が必要だった。アマンダが望まないことはしないと言ったのだから。
 それがこんなにもつらく切ないとは思いもしなかった。これから挙式まで耐えられるだろうか。そう思うとますます疲れが募ってきそうだった。
 ふと時計を見上げた。9時を10分も過ぎている。レオポルドは一体どこに行ったのか。娘の部屋に行ったのだろうか。
 サカリアスが風呂から出た後も、レオポルドは部屋に戻ってこなかった。
 こんなことならもっとアマンダと話をすべきだったと思ったが、もしかすると娘と話し込んでいるかもしれなかった。父親として花嫁の心得でも語っているのだろうか。
 奥のベッドルームにはシングルのベッドが二つあった。サカリアスは先に寝ておくことにした。いつ緊急の招集がかかるかわからなかった。休暇中でも近くの惑星の部隊に出動要請されることもあるのだ。
 レオポルドが寝室に入ってきたと思われる物音を聞いたのは真夜中だった。サカリアスは帰ってきたのかと思っただけで再び眠りに落ちていった。



 

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