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病間にて
胡蜂と蜜蜂
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寝室と居間との境目に、マダム・ルイゾンの痩躯があった。闖入者を目の当たりにしたことになるのだが、マダムはまるでブライトがここにいることが当たり前のような顔をしている。
ブライトの横顔に怒りがないのを見たシルヴィーは、カーテンコールに応じる主演役者がするような、軽く膝を曲げた礼をして見せた。
「ま、ちょいとは期待してたがね。クスリが効いてぐっすり寝込んでいるンなら、少なくとも布団をまくる前に殴り返されるよなことはないんじゃなかろうか。
よしんば殴られたとしても、いつもみてぇに強か殴られて顎の骨が砕かれちまうよなことにはなるまいってな」
「顎の、骨を砕く!?」
シルヴィーの黒目がちな瞳が大きく見開かれた。彼女はその目玉でブライトとクレールの顔を交互に見た。
ブライトの横顔は真面目そのものに見えた。一方、クレールは呆れたような顔つきで苦笑いをしている。
そのはにかんだ笑顔のおかげで、シルヴィーはブライトの言うことが「いくらか」大仰に過ぎるのだろうと察することができた。
ブライトは頬杖の掌を開いて無精髭の顎をなで回し、真剣な眼差しをクレールに注いでいる。
「俺は前々から、お前さんにはワルい魔法使いのヒドイ虫除けの呪いかなんかがかかってるンじゃねぇかと睨んでるんだ」
「その呪いで、自分が避けられていると?」
ため息混じりにクレールが反問する。ブライトは背筋を伸ばし脚をほどき、居住まいを正すと、真顔で大きく肯いた。クレールはあきれ顔で、
「もしそんな呪いがあるとして……あなたがそれを信じていて、そう仰っているのなら、ご自分が毒虫であると自覚していると言うことになるのでは?」
重ねて訊ねる。
ブライトは下唇を突き出した。
「アブねぇ胡蜂とかわいらしい蜜蜂の区別がついていねぇから、ワルい魔法使いの呪いだっていうんだ」
「その大きな体で、ご自身を小さな蜜蜂に例えますか」
クレールは微笑していた。
「そう、俺サマは蜜蜂さ。お前さんというたっぷり蜜を隠した可憐な花に首ったけの、な。
……つまり、俺ぁお前さんを『美しい、綺麗だ、魅力的だ』と褒めてやっているってことだ。
乙女らしく大喜びしてこのホッペに軽い接吻の一つもしてくれようって気にはならんかね? 拳骨じゃなくて、さ」
ブライトはおのれの頬をクレールの顔の前に突き出した。ただし、顔つきはあくまで真剣であった。
滑稽だった。いい年齢をした無精髭の大人が子供のような真似をするのを見たシルヴィーは、堪えかねて吹き出した。それでも、マダム・ルイゾンに視線でとがめられ、声を上げて笑うことは耐えたが、肩が大きく揺れるのを押さえることはできない。抱えていた手桶の水が跳ね上がった。
「あらあら」
ルイゾンが彼女の手や衣服を拭いた。顔はシルヴィーに向いているが、
「いいえ旦那は胡蜂ですよ。
だって蜜蜂は一挿ししたが最後自分も死んじまうけど、旦那は何度だってぶっ挿すおつもりでしょうから」
その言葉はブライトに投げかけられている。
ルイゾンもにんまりと笑った。
ブライトも同じような下品な笑みを返した。
自称蜜蜂には彼女の言いたいことがすぐに解ったが、世に疎い可憐な花にはそこから卑猥なニュアンスをくみ取れる猥雑な知識がない。
ブライトが解顔したわけも、ルイゾンがシルヴィーを抱えるようにして強引に部屋から出て行ったわけも、彼女にはついに解らなかった。
ブライトの横顔に怒りがないのを見たシルヴィーは、カーテンコールに応じる主演役者がするような、軽く膝を曲げた礼をして見せた。
「ま、ちょいとは期待してたがね。クスリが効いてぐっすり寝込んでいるンなら、少なくとも布団をまくる前に殴り返されるよなことはないんじゃなかろうか。
よしんば殴られたとしても、いつもみてぇに強か殴られて顎の骨が砕かれちまうよなことにはなるまいってな」
「顎の、骨を砕く!?」
シルヴィーの黒目がちな瞳が大きく見開かれた。彼女はその目玉でブライトとクレールの顔を交互に見た。
ブライトの横顔は真面目そのものに見えた。一方、クレールは呆れたような顔つきで苦笑いをしている。
そのはにかんだ笑顔のおかげで、シルヴィーはブライトの言うことが「いくらか」大仰に過ぎるのだろうと察することができた。
ブライトは頬杖の掌を開いて無精髭の顎をなで回し、真剣な眼差しをクレールに注いでいる。
「俺は前々から、お前さんにはワルい魔法使いのヒドイ虫除けの呪いかなんかがかかってるンじゃねぇかと睨んでるんだ」
「その呪いで、自分が避けられていると?」
ため息混じりにクレールが反問する。ブライトは背筋を伸ばし脚をほどき、居住まいを正すと、真顔で大きく肯いた。クレールはあきれ顔で、
「もしそんな呪いがあるとして……あなたがそれを信じていて、そう仰っているのなら、ご自分が毒虫であると自覚していると言うことになるのでは?」
重ねて訊ねる。
ブライトは下唇を突き出した。
「アブねぇ胡蜂とかわいらしい蜜蜂の区別がついていねぇから、ワルい魔法使いの呪いだっていうんだ」
「その大きな体で、ご自身を小さな蜜蜂に例えますか」
クレールは微笑していた。
「そう、俺サマは蜜蜂さ。お前さんというたっぷり蜜を隠した可憐な花に首ったけの、な。
……つまり、俺ぁお前さんを『美しい、綺麗だ、魅力的だ』と褒めてやっているってことだ。
乙女らしく大喜びしてこのホッペに軽い接吻の一つもしてくれようって気にはならんかね? 拳骨じゃなくて、さ」
ブライトはおのれの頬をクレールの顔の前に突き出した。ただし、顔つきはあくまで真剣であった。
滑稽だった。いい年齢をした無精髭の大人が子供のような真似をするのを見たシルヴィーは、堪えかねて吹き出した。それでも、マダム・ルイゾンに視線でとがめられ、声を上げて笑うことは耐えたが、肩が大きく揺れるのを押さえることはできない。抱えていた手桶の水が跳ね上がった。
「あらあら」
ルイゾンが彼女の手や衣服を拭いた。顔はシルヴィーに向いているが、
「いいえ旦那は胡蜂ですよ。
だって蜜蜂は一挿ししたが最後自分も死んじまうけど、旦那は何度だってぶっ挿すおつもりでしょうから」
その言葉はブライトに投げかけられている。
ルイゾンもにんまりと笑った。
ブライトも同じような下品な笑みを返した。
自称蜜蜂には彼女の言いたいことがすぐに解ったが、世に疎い可憐な花にはそこから卑猥なニュアンスをくみ取れる猥雑な知識がない。
ブライトが解顔したわけも、ルイゾンがシルヴィーを抱えるようにして強引に部屋から出て行ったわけも、彼女にはついに解らなかった。
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