潞涿君《ろたくくん》の卵

神光寺かをり

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口元が露わな人

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 立派な家だった。
 しかし人気ひとけがない。
 客をもてなすはしためはただ一人だ。
 
「私のようなでは人々が納得しない、という事だな?」

 この家のあるじごくうす微笑びしょうし、客に問うた。

 白く丸く長い顔に濃いまゆ
 露啄くちがあらわなおとこの文字を潞涿君ろたくくん当字あてじして陰口かげぐちを叩く者がいるほどひげが薄く、実際よく見える口元に微笑がある。
 何を言っても、何を言われても、その微笑は消えない。

 劉備りゅうび玄徳げんとく皇籍こうせきを外れた皇族こうぞくである「属尽ぞくじん」の家の出で、今は豫州よしゅう刺史ししの地位にある。
 それが、己が身をと称するのは、若い頃に相当な貧困ひんこんあえいでいたためであろう。

 柔らかな無表情、少ない口数、直截ちょくさいな物言い。
 まこと奇妙きみょうな人間である。
 客……麋竺びじく子仲しちゅうが、ここを訪れる前に立てていた、

『劉玄徳は偏屈者へんくつものである』

 という予測は当たっていたが、

『しかし、こう表情が変わらないでは、腹の中が読めぬ』

 思いつつ、麋竺自身も表情が変わらぬよう努めて、

「有り体に申さば」

 頭を下げた。

「子仲殿も大変だな。そのに仕えたいと言うのだから」

 微笑の口元から出た嫌味には、不思議と毒気が感じられない。

 麋竺は三日前まで徐州じょしゅうぼく陶謙とうけんに仕えていた。
 今際いまわの床であるじは劉備を後継者に指名して、死んだ。
 
「ご遺言ゆえ」

「仕方がない、か?」

 声に皮肉と憐憫れんびんが混じっている。

如何様いかさま

 麋竺は笑って見せつつ、腹の中で、

厄介やっかいな。他人は己の手の内に引き込まれるのが当と思っている』

 苦々しく思っている。

 すると劉備は少々砕けた口調で、

「馬の骨でも良家の娘と縁組めばはくが付く。昔から良くある策だが、あんたはその箔に『己の妹』を使うという。妹の幸せを願わないとは、ひど兄御あにごだ」

 微笑を崩さない劉備の顔を見つめ続けた麋竺は、この時になって気付いた。

 彼の目に、笑みがない。

 麋竺のきもが冷えてゆく。

「劉使君しくんが御正室を亡くされたとお聞きいたし……」

 かすかに震えた声を出す麋竺から、劉備は視線を外した。
 視線の先でただ一人のはしため酒壺さかつぼを抱えている。
 愛敬のある顔をした、よく働きそうな女だった。
 視線を受けた女は音も無く主人に歩み寄り、杯を満たした。
 劉備は杯を中途に掲げた。目を閉じ、左手で自身の大きな耳朶みみたぶをつまむ。

――これが彼が何か思案するときの癖である事を麋竺が知るのは後々のことである。

 わずかな沈黙の後、彼はボソと言った。

「貴君の妹御の夫には、馬の骨ではなく由緒正しい者を呼ぶが良いだろう。例えば寿春じゅしゅんえん公路こうろ

 麋竺が目を丸くし、

「あの傲慢ごうまんな男ですか?」

 袁家は、漢帝国の重臣たる『三公』を四代に渡って排出した当代随一の権勢家だ。
 現当主の袁術えんじゅつは人望厚く、配下には良臣が多い。
 だが彼はその人望が家柄の所以である事を失念している。自分自身が頼られていると思い込んでいた。
 それが彼に驕慢きょうまんの噂を立てている。

「ああ元龍げんりゅう殿もそう言っていた。文挙ぶんきょ殿などは『あれは墓の中の死体も同然だ』と」

 劉備が事もなげに言う。麋竺の目はさらに丸くなる。
 陳登ちんとう元龍げんりゅう済北さいほく国のしょう陳珪ちんけいの子。孔融こうゆう文挙ぶんきょ北海ほっかい国の相で、かの孔子こうしから数えて二十代目の子孫。
 共々、まごうこと無く当代きっての傑物けつぶつである。

「あのお二人のすすめを?」

「断った」

 麋竺は言葉を失った。すると劉備は、

「子仲殿は元々商人だったそうだな?」

 ふっと本筋から離れた問いを返した。
 麋竺はいぶかしく思ったが、

「麋家は代々あきないいを生業なりわいとしております」

 答えるだけは答えた。

「私も昔、商いをしていた」

「左様で」

「子仲殿の家業に比べれば、取るに足らない小商こあきないいだ。それでも知っているつもりだ……商人は利の無い事には関わらない、とな」

 一つ息をして、劉備は目を薄く開けた。

「俺を持ち上げて、お前に何の利がある?」

 眼光が鋭利な刃物と化し、麋竺を貫く。
 麋竺の返答を待たず、劉備は低くうなる。

「俺は大店おおだなの入り婿には向かんぞ」

 その言葉が、麋竺の鳩尾みぞおちを強かに殴った。
 胃液がこみ上げてくる。

『見込み違いだ!』

 麋竺の脳が悲鳴を上げた。
 彼と同僚達は劉備をただの田舎者と見ていた。破落戸ごろつき上がりの傭兵ようへい隊長だと高をくくっていた。
 実際は違った。
 この男は、彼らの思惑と動きとをすっかり見通しているでは無いか。
 田舎者に恩を売り、飾物の殿様に据えて、州政を思うままに操る目論見もくろみを!

 麋竺の総身から脂汗がにじみみ出た。
 劉備は再び目を閉じ、

「それに、なぁ……」

 一変、力なくつぶやくと杯をあおった。

「私には女房を二人も養う甲斐性かいしょうはない」

 劉備は酒の力を借りて言った己の言葉に笑った。
 声を立てて笑った。大きく開いた口も、薄く開けた目も、身体全体で笑っている。
 麋竺は目をしばたかせた。
 呆気あっけにとられているその眼前で、劉備は酒壺を抱えているはしためを抱き寄せた。

かん美淑びしゅくだ。以前から私の母の世話をしくれている。母はこれか気に入りで、いっそ後添えにしろとうるさい」

 
 耳まで紅色に染めた美淑の困惑顔の横で、劉備は笑っている。
 楽しそうな、嬉しそうな、澄んだ笑みだ。
 麋竺も笑った。心の底から笑った。
 脂汗はすっかり引いている。

「ならばどうか、我が妹をご母堂ぼどうの世話をする下女げじょとしてやとうてください。
 それと、やはり使君には牧に成って頂きたい。いや、貴男あなたでなければなりません」

 麋竺の胸はは大商いの予感に弾んでいる。
 何が生まれるか判らない、巨大な卵を仕入れたのだから。
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