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王宮にある執務室は、かつてないほどの静寂と、それに相反するような「絶望の気配」に包まれていた。
主である第一王子リュカのデスクの上には、もはや壁と呼ぶべき高さの書類が積み上がっている。
「……おかしい。何かがおかしいぞ、カイル。この部屋の空気、以前より薄くなっていないか?」
リュカが震える手で羽ペンを置き、虚空を見つめて呟いた。
目の下のクマは、もはやお洒落なアイラインでは誤魔化せないほどに濃くなっている。
「気のせいではありません、殿下。二酸化炭素の濃度ではなく、純粋に仕事の密度に押し潰されているだけです。ちなみに、その右側の山が今日中に終わらせるべき徴税報告書で、左側の山が昨日までに終わっているはずだった予算案です」
カイルは冷徹な声で告げ、手元の懐中時計をパチンと閉じた。
「……シャーミー。ああ、シャーミー……。彼女がいれば、こんなものは『ティータイムのついで』に片付いていたというのに!」
リュカは机に突っ伏し、愛しい元婚約者の名前を呼んだ。
これまでは、彼が「今日は気分が乗らない」と言えば、シャーミーが「まあ、仕方のない殿下ですわね」と優雅に微笑み(実際には冷笑だったが)、爆速で書類を捌いてくれていたのだ。
「殿下、今さら彼女の有能さに気づいても遅すぎます。彼女は今、田舎で土をいじり、幽霊を部下にして楽しくやっているようですから」
「カイル、君はわかっていないな! 彼女があんな場所へ行ったのは、すべて俺の気を引くための高度な駆け引きなのだよ!」
リュカはガバッと起き上がると、狂気に満ちた瞳でカイルを指差した。
「考えてもみろ。彼女ほどの知略家が、本気で芋を植えるためだけに王都を去ると思うか? あえて不便な場所に身を置き、俺が『戻ってきてくれ』と迎えに行くシチュエーションを演出しているのだ! あの『殺します』という手紙も、裏を返せば『会いに来ないと死んじゃう』という甘い囁きに他ならない!」
「……殿下。一度、冷たい水で顔を洗ってきてください。できればそのまま、頭を冷やしに北の氷河まで行っていただいても構いません」
カイルが深くため息をついた、その時。
「失礼しますわ!」という明るい声と共に、新しい婚約者のマイカが部屋に入ってきた。
彼女の両手には、これでもかと派手な花で作られた冠が握られている。
「リュカ様、お疲れのようでしたので、お庭の花でお守りを作ってきました! これを被れば、難しい書類の文字も、きっと可愛い妖精さんに見えますわ!」
「おお、マイカ! 君の優しさは砂漠のオアシスのようだ!」
リュカは差し出された花冠を頭に乗せた。
ひどくシュールな姿だが、本人は至って真面目である。
「……マイカ様。今、殿下は国政に関わる重要な判断をされています。その妖精さんの冠で、予算案が勝手に書き換わる魔法でもあるのでしょうか?」
カイルの刺すような視線にも、マイカは「はわわ」と首を振るだけだ。
「カイル様、そんなに怖い顔をしないでください。あ、そうだわ! シャーミーお姉様にも、お花を届けてあげたいです! きっと寂しくて、暗いお部屋で泣いていらっしゃるはずですもの」
「マイカ……! 君という女性は、なんと慈悲深いんだ! 元婚約者のことまで気にかけるとは、まさに次期王妃にふさわしい!」
(……この部屋には、正常な判断ができる人間が俺しかいないのか?)
カイルは天を仰いだ。
シャーミーが去ってからというもの、王宮の機能は目に見えて低下している。
いや、低下どころか、リュカとマイカの「天然コンビ」によって、あらぬ方向へ加速し始めていた。
「決めたぞ、カイル! 俺は明日から視察に出る。行き先はもちろん、彼女のいる別荘だ!」
「……正気ですか、殿下。この書類の山をどうするおつもりで?」
「そんなもの、視察の移動中に馬車の中でやればいい! シャーミーに直接会って、俺の愛の詩を朗読してやれば、彼女も意地を張るのをやめて戻ってくるはずだ。そして、また二人で仲良く……いや、彼女に八割くらい仕事を任せて、俺たちは愛を育むのだ!」
リュカは立ち上がり、マントを翻した。
その頭の上で、マイカが作った花冠が虚しく揺れている。
「マイカ、君も一緒に行こう。シャーミーに、俺たちがどれほど幸せかを見せてやるのも、彼女に対する礼儀というものだろう?」
「はい、リュカ様! ピクニックですね! お弁当に、たくさんのお団子を持っていきますわ!」
二人の盛り上がりを前に、カイルは静かに手帳を取り出した。
そして、シャーミー宛に速達を送るためのメモを書き殴る。
『緊急事態だ。バカが二人、そちらに向かう。
特に王子は「自分のことが好きすぎて逃げ出した」と本気で信じている。
迎撃の準備、あるいは完全に無視する算段を立てろ。
追伸:できれば、そのまま彼らを芋の肥やしにしてもらえると助かる』
「……さて、俺も同行せざるを得ないな。彼女が本当に王子を物理的に排除する前に、止めに入らなければならないからな」
カイルの眼鏡が、不気味な光を放った。
一方、別荘のシャーミーは、そんな不穏な空気を微塵も察していなかった。
彼女は今、庭で幽霊の「白い影」と共に、特大の肥料袋を運んでいる最中だった。
「いい、白(しろ)ちゃん! これを撒けば、明日の朝にはジャガイモたちが元気に芽を出すわよ! あ、その前に、新しい鍬の試し切りもしなきゃね!」
シャーミーはピカピカの鍬を振り回し、不敵な笑みを浮かべていた。
彼女が待ち構える「戦場」に、何も知らない王子一行が足を踏み入れようとしていた。
主である第一王子リュカのデスクの上には、もはや壁と呼ぶべき高さの書類が積み上がっている。
「……おかしい。何かがおかしいぞ、カイル。この部屋の空気、以前より薄くなっていないか?」
リュカが震える手で羽ペンを置き、虚空を見つめて呟いた。
目の下のクマは、もはやお洒落なアイラインでは誤魔化せないほどに濃くなっている。
「気のせいではありません、殿下。二酸化炭素の濃度ではなく、純粋に仕事の密度に押し潰されているだけです。ちなみに、その右側の山が今日中に終わらせるべき徴税報告書で、左側の山が昨日までに終わっているはずだった予算案です」
カイルは冷徹な声で告げ、手元の懐中時計をパチンと閉じた。
「……シャーミー。ああ、シャーミー……。彼女がいれば、こんなものは『ティータイムのついで』に片付いていたというのに!」
リュカは机に突っ伏し、愛しい元婚約者の名前を呼んだ。
これまでは、彼が「今日は気分が乗らない」と言えば、シャーミーが「まあ、仕方のない殿下ですわね」と優雅に微笑み(実際には冷笑だったが)、爆速で書類を捌いてくれていたのだ。
「殿下、今さら彼女の有能さに気づいても遅すぎます。彼女は今、田舎で土をいじり、幽霊を部下にして楽しくやっているようですから」
「カイル、君はわかっていないな! 彼女があんな場所へ行ったのは、すべて俺の気を引くための高度な駆け引きなのだよ!」
リュカはガバッと起き上がると、狂気に満ちた瞳でカイルを指差した。
「考えてもみろ。彼女ほどの知略家が、本気で芋を植えるためだけに王都を去ると思うか? あえて不便な場所に身を置き、俺が『戻ってきてくれ』と迎えに行くシチュエーションを演出しているのだ! あの『殺します』という手紙も、裏を返せば『会いに来ないと死んじゃう』という甘い囁きに他ならない!」
「……殿下。一度、冷たい水で顔を洗ってきてください。できればそのまま、頭を冷やしに北の氷河まで行っていただいても構いません」
カイルが深くため息をついた、その時。
「失礼しますわ!」という明るい声と共に、新しい婚約者のマイカが部屋に入ってきた。
彼女の両手には、これでもかと派手な花で作られた冠が握られている。
「リュカ様、お疲れのようでしたので、お庭の花でお守りを作ってきました! これを被れば、難しい書類の文字も、きっと可愛い妖精さんに見えますわ!」
「おお、マイカ! 君の優しさは砂漠のオアシスのようだ!」
リュカは差し出された花冠を頭に乗せた。
ひどくシュールな姿だが、本人は至って真面目である。
「……マイカ様。今、殿下は国政に関わる重要な判断をされています。その妖精さんの冠で、予算案が勝手に書き換わる魔法でもあるのでしょうか?」
カイルの刺すような視線にも、マイカは「はわわ」と首を振るだけだ。
「カイル様、そんなに怖い顔をしないでください。あ、そうだわ! シャーミーお姉様にも、お花を届けてあげたいです! きっと寂しくて、暗いお部屋で泣いていらっしゃるはずですもの」
「マイカ……! 君という女性は、なんと慈悲深いんだ! 元婚約者のことまで気にかけるとは、まさに次期王妃にふさわしい!」
(……この部屋には、正常な判断ができる人間が俺しかいないのか?)
カイルは天を仰いだ。
シャーミーが去ってからというもの、王宮の機能は目に見えて低下している。
いや、低下どころか、リュカとマイカの「天然コンビ」によって、あらぬ方向へ加速し始めていた。
「決めたぞ、カイル! 俺は明日から視察に出る。行き先はもちろん、彼女のいる別荘だ!」
「……正気ですか、殿下。この書類の山をどうするおつもりで?」
「そんなもの、視察の移動中に馬車の中でやればいい! シャーミーに直接会って、俺の愛の詩を朗読してやれば、彼女も意地を張るのをやめて戻ってくるはずだ。そして、また二人で仲良く……いや、彼女に八割くらい仕事を任せて、俺たちは愛を育むのだ!」
リュカは立ち上がり、マントを翻した。
その頭の上で、マイカが作った花冠が虚しく揺れている。
「マイカ、君も一緒に行こう。シャーミーに、俺たちがどれほど幸せかを見せてやるのも、彼女に対する礼儀というものだろう?」
「はい、リュカ様! ピクニックですね! お弁当に、たくさんのお団子を持っていきますわ!」
二人の盛り上がりを前に、カイルは静かに手帳を取り出した。
そして、シャーミー宛に速達を送るためのメモを書き殴る。
『緊急事態だ。バカが二人、そちらに向かう。
特に王子は「自分のことが好きすぎて逃げ出した」と本気で信じている。
迎撃の準備、あるいは完全に無視する算段を立てろ。
追伸:できれば、そのまま彼らを芋の肥やしにしてもらえると助かる』
「……さて、俺も同行せざるを得ないな。彼女が本当に王子を物理的に排除する前に、止めに入らなければならないからな」
カイルの眼鏡が、不気味な光を放った。
一方、別荘のシャーミーは、そんな不穏な空気を微塵も察していなかった。
彼女は今、庭で幽霊の「白い影」と共に、特大の肥料袋を運んでいる最中だった。
「いい、白(しろ)ちゃん! これを撒けば、明日の朝にはジャガイモたちが元気に芽を出すわよ! あ、その前に、新しい鍬の試し切りもしなきゃね!」
シャーミーはピカピカの鍬を振り回し、不敵な笑みを浮かべていた。
彼女が待ち構える「戦場」に、何も知らない王子一行が足を踏み入れようとしていた。
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