誘拐されて、悪役令嬢として断罪されているよです!

ハチワレ

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「……おい。そこで何をしている。言っておくが、そこは軍事機密の詰まった重要拠点だぞ」

カイルは、砦の最下層にある重厚な鉄扉の前で、足を止めた。

そこは本来、緊急時の武器庫、あるいは反逆者を収容するための特別牢獄として作られた場所だ。
だが今、その扉の前には「立ち入り禁止」の代わりに「熟成中・お静かに」という手書きの可愛らしい看板が掲げられていた。

「あら、カイル様。ちょうど良いところに。この扉の隙間から漏れ出る香りを嗅いでみてくださいませ。……ほら、微かにナッツのような、芳醇な香りがしてきませんこと?」

マーシャは扉に耳を押し当て、まるで恋人の鼓動を聴くようなうっとりとした表情を浮かべていた。

カイルはこめかみを押さえ、深いため息をついた。

「……ナッツの香りは知らんが、俺には『国家転覆の香り』がする。貴様、武器庫を勝手にチーズの熟成庫に改造したな? 中の槍や盾はどうした」

「ああ、あちらでしたら皮剥き……いえ、ハンスさんが丁寧に磨いて、日当たりの良い物置に移動させておきましたわ。錆びないように、オリーブオイルを薄く塗っておいたそうです」

「ハンスだと? あの王国最強の暗殺者に、武器のメンテナンスまでやらせているのか!?」

「ええ。彼、手先が本当に器用なんですもの。最近ではジャガイモの千切りで、向こう側が透けて見えるほどの腕前になりましたわよ。……あ、ハンスさん! 温度計のチェックは終わりました?」

奥から、純白のエプロン(どこから調達したのか)を身に纏ったハンスが、真剣な顔で現れた。

「……マーシャ様。北側の壁際に、わずかな湿気の澱みを感じました。このままではブルーカビの繁殖にムラが出ます。……クッ、俺の魔力がもっと精密であれば!」

「いいえ、ハンスさん。あなたの火魔法による微調整は完璧ですわ。自信を持って。さあ、次はバターの撹拌作業をお願いしますね」

「はいっ! 喜んで!」

かつて王国の影として恐れられた男が、眩いばかりの笑顔で厨房へと駆けていく。

カイルはその光景を呆然と見送るしかなかった。

「……マーシャ。お前、本当は何者だ。ただの食いしん坊な公爵令嬢に、これほどの心酔を部下(と敵の刺客)にさせる力があるとは思えん。……もしや、魅了(チャーム)の魔法でも使っているのか?」

カイルが真面目な顔でマーシャの肩を掴み、その瞳を覗き込む。

マーシャは不思議そうに小首を傾げた。

「魅了? そんな面倒な魔法、使ったこともありませんわ。……カイル様、人は誰しも、美味しいものを食べさせてくれる人の味方になるものですわよ。胃袋は、心よりも正直なんですもの」

「……胃袋は心より正直、か。貴様にそう言われると、否定できんのが口惜しい」

カイルの手の力が、わずかに抜ける。
彼は気づいていた。自分自身もまた、彼女が作る料理の虜になり、彼女の突拍子もない行動を許してしまっていることに。

「……だが、王国側も黙ってはいないだろう。お前を『悪役令嬢』として断罪した手前、お前が帝国で楽しそうにチーズを作っていることが知れれば、彼らの面目は丸潰れだ」

「あら、あんな国、面目なんてとっくにスープの具材にして食べてしまいましたわ。……それよりカイル様、王国について何か新しい情報は?」

カイルは懐から、一通の密書を取り出した。

「ああ。……面白いことになっているぞ。王太子ウィフレッドが、お前を連れ戻すために『特使』を派遣したらしい」

「連れ戻す? あの方が? どういう風の吹き回しかしら」

「なんでも、聖女リリアが作った料理で、王宮の重鎮たちが次々と倒れたらしい。……彼らは今、切実に『毒味役』……もとい、まともな食事を管理できる人間を求めているんだとさ」

マーシャは、心底嫌そうな顔をして身を震わせた。

「……お断りですわ。あんな、味覚の荒野のような場所に帰るなんて、死んでも嫌です。……カイル様、私をあんな国に返したりしませんわよね?」

マーシャが、珍しく不安げな表情でカイルの袖を掴んだ。

カイルの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
いつもの不敵な笑顔ではない、守ってやりたくなるような少女の瞳。

「…………返さん。お前がここにいた方が、この砦の飯が旨いからな。……ただそれだけの理由だ」

カイルはわざとらしく視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。

「まあ、嬉しい! さすがカイル様、お話がわかるわ! お礼に、今夜はとっておきの隠し酒を使った『牛肉の赤ワイン煮込み』を振る舞いますわね!」

「……隠し酒? おい、まさか俺の私蔵のヴィンテージワインを……!」

「あら、機密事項ですわ。うふふ!」

マーシャは蝶のように軽やかに笑いながら、階段を駆け上がっていった。

カイルは残された冷たい廊下で、自分の熱くなった顔を片手で覆った。

「……困惑どころではないな。……これでは、俺の方が彼女に飼われているようなものではないか」

将軍としてのプライドと、男としての本音が、彼の胸の中で激しく火花を散らしていた。
だが、その鼻をくすぐる「煮込み料理」の予感が、すべての思考を『幸福な空腹』へと塗り替えていくのを、彼は止めることができなかった。
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