悪役令嬢、婚約破棄された本日より暴走を開始します 

八雲

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クラリス王女との「経済戦争」を完全勝利で終え、ヴァレンシュタイン領にはかつてない好景気が訪れていた。


そんな中、ニーアはジークハルトに呼び出され、月明かりが照らす公爵邸のテラスへと足を運んだ。


「……ジークハルト様、こんな夜更けに呼び出すなんて、残業手当の割増料金が発生いたしますわよ?」


ニーアはいつものように算盤を抱え、冗談めかして言った。


だが、ジークハルトの表情はいつになく真剣で、その手には小さな、しかし重厚な細工が施された銀の箱があった。


「ニーア。以前のプロポーズで、私は君を『最高経営責任者』として雇うと言ったな」


「ええ。時給換算すれば今でも満足のいく契約ですわ」


「………だが、訂正させてくれ。私は、君を雇いたいのではない。私のすべてを、君に『譲渡』したいんだ」


ジークハルトは膝をつき、銀の箱を開いた。


中に入っていたのは、宝石が散りばめられた指輪……ではなく、鈍く光る黄金の鍵と、一枚の羊皮紙だった。


「……これは?」


「我が公爵家が所有する全財産、全領土、そして騎士団の動員権に至るまで、すべての決済権限を君に委譲する『全権委任状』だ」


ニーアは息を呑んだ。プロの商売人として、その紙切れが持つ「価値」がどれほどのものか、瞬時に理解してしまったからだ。


「……ジークハルト様。これ、冗談では済みませんわよ? 私がその気になれば、明日にはこの国を売り払って、南の島を買い占めることだって……」


「構わない。君がそう判断したのなら、それが最も効率的な投資なのだろう。……私は、君という人間に、私の人生のすべてを賭けたいんだ」


ジークハルトはニーアの手をそっと取り、その指先に温かな口付けを落とした。


「指輪は、ただの飾りだ。だがこの鍵は、私の心と財産のすべてを開ける鍵だ。……ニーア。改めて、私と結婚してくれないか?」


「…………」


ニーアの脳内算盤が、かつてないほどの火花を散らした。


(……全権委任。期待利益、無限大。リスク、ジークハルト様の愛という名の過剰干渉………ですが、このリターンを逃すのは、商売人として一生の不覚……!)


ニーアは真っ赤な顔で、しかし力強く、その黄金の鍵をひったくるように受け取った。


「………分かりましたわ! この『超大型案件』、私が責任を持って引き受けさせていただきます!」


「………ふ。……契約成立だな」


ジークハルトが立ち上がり、ニーアを抱き寄せようと腕を伸ばす。


「待ってください! まだ条件の確認が済んでおりませんわ! 共同名義の口座開設と、相続税対策のスキームを今すぐ……!」


「……ニーア。今この瞬間だけは、数字のことは忘れろ。……これは、私の『純利益』を君に分配する時間なんだ」


ジークハルトはニーアの言葉を唇で塞ぎ、深く、情熱的なキスを交わした。


「……っ。……ジ、ジークハルト様………今の行為、……私の人生の貸借対照表において、……最大の資産として、……計上……いたしますわ……」


ニーアは真っ赤な顔で、彼の胸に顔を埋めた。


悪役令嬢による「愛の経営計画」。


それは、計算を超えた幸福という名の「配当」を、一生かけて受け取り続ける契約となったのである。
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