クローバー

鹿ノ杜

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宮城健人と清瀬奈々 6

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 仕事を早めに切り上げて、新宿駅の西口にあるビックカメラでインスタントカメラの現像を頼んだ。一時間もしないうちにできあがるというから家電を眺めながら待った。現像が終わった写真を受け取り、店の外に出た。夕暮れに夏の始まりを感じた。
 歩きながら、写真を見てみようと思った。袋を開けるとリアルな写真の手触りと酸っぱいような匂いに懐かしさを感じた。
 一枚目はブレがひどい写真で、奈々のお気に入りの傘と濡れた夜道に映った街灯がなんとかわかった。二枚目は奈々と鳥井くんと三人で写っている写真だったから、新しい方から順に並んでいることに気づいた。それから、奈々とのツーショットの前後に俺だけが写ったものが何枚かあった。いつの間に撮ったんだ、気を抜いているとこんな顔なのか、と笑えてくる。
 ジュンがリビングで文庫本を読んでいる。夜景を背景にしてヤスの後輩、いや、今は恋人のすみれさんがピースをしている。二人で自撮りをしているものもあるし、ヤスだけが写っているものもある。夜景の中に見える東京タワーが赤い火柱のようだ。
 夕暮れの線路を見下ろしたような写真があり、屋内で人が行き交う様子や喫茶店の中の光景、すみれさんがコーヒーを飲んでいるものがある。
 次の写真ではジュンが新緑の中を歩いている。かなこさんも出てきて公園の中でお互いを撮り合っている。誰かに撮ってもらったのか二人で写っているものも何枚かあって、その中に、声をかける前にシャッターを切ってしまったのだろう、カメラの方を向いていないものがあった。でも、ごく自然に視線を交わして笑い合っている。遮るものなんてまるでないかのように二人は想い合っていたんだな。そのことは誰にも知られないで、偶然に、写り込んでしまったんだ。
 木々を見上げるジュンの背中。これはかなこさんが見ていたジュンの姿だ。このカメラはかなこさんにもらったものだと言っていた。かなこさんはジュンに忘れないでいてほしかったのかもしれない。
 その気持ちはわかる気がした。ジュンが文庫本を読んでいる写真を俺はジュンにあげたいと思った。なにげない日常を俺とジュンが過ごしていたってことを、何か形のあるものにして渡したかった。写真を見返していると、ヤスの写真にもすみれさんの写真にも特別な意味があるように思えた。

 ああ、おんなじだ、と思った。

 俺が一人で写っている写真は奈々が見ていた光景だ。そういえば奈々はファインダーをずっとのぞいていた。まるで何かを祈るように。
 ふいに奈々と交わした会話を思い出した。クローバーに住み始めた頃のことだ。
「私がクローバーを気に入ったのはね……クローバーの花言葉って知ってる? 『私を想って』って言うんだよ」
 終わりも始まりもない、ただ、途方もなく広い場所に放り出されたときに、多くなくていい、誰か一人でも自分を想ってくれたのなら……そんな祈りがある。人は「私を想って」という祈りを共有している。「私を想って」と相手に託している。
 まさか、と思った。だけど、俺だけが奈々の写真をうまく撮れていないってことが、自分でも驚くくらい、悔しくてたまらなかった。写真なんていつだって撮れたはずだと思えば思うほど、今すぐ駆け出して会いに行きたかった。
 クローバーに帰って、ジュンとヤスに現像してきた写真を渡した。
「ありがとう。どれどれ、おお、よく撮れてるね」
 ヤスが自分の分を引き抜いて、残りをジュンに渡した。ありがとうございます、と言いながらジュンは写真の一枚一枚をゆっくりと確かめた。ジュンはこんな表情もするんだな。
 その夜、奈々にメールを送ろうと思った。かつて「俺たち付き合わない?」とメールを送ったように何か特別な意味のあることを奈々に伝えたかった。どうしてもなくなってくれないものがあるから、何か特別な意味、それこそ、生きる意味になるようなことを伝えたかった。俺の生きる意味はこれからも続いていくものなんだ。そのために生きていくんだ。

 そうだな。約束だ、と思った。

 これは昔のことだけど、ジュンが珍しく酔っぱらっていて、約束をしましょう、と言い出した。三人で飲み明かしてジュンが酔いつぶれた夜だった。クローバーに住み始めたばかりのジュンが初めて飲みに誘ってくれた。大学の先輩が結婚をしたのだと言っていた。今思えば、それがかなこさんだったのだろう。酔っぱらって、悲しくて、その感情を何かに託したくなったのだ。
「ほら『約束』ってクローバーの花言葉じゃないですか。いつの日か、僕たちが別れるときが来てもまた会いましょうよ」
「ようやく三人でのルームシェアが始まったところなんだけど」
 そう言ってヤスは笑った。俺は目を閉じてつぶやいた。
「でも、いつか終わる」
 その言葉にジュンは悲しそうに笑った。
 それでも、
「約束ですよ」
 と、あの夜、ジュンは確かに言ったのだ。
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