愛したいと獣がなくとき。

あじ/Jio

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三章

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 翌日の昼過ぎ。アダムはイサクの言う通りに、職場へとやってきた。
 料理長を見つけるまで、周囲がやたらとざわめいていたが気にしない。過去の苦い日々と比べたら、なぜあんなにも傷ついたのか不思議なくらいだ。

「料理長。休憩中にすみません」
「よく来たな。待ってたぞアダム」

 休憩時間にも厨房に立っていた料理長は、アダムの肩を労るように優しく叩いた。
 二人は厨房を抜け出すと、休憩室を通って隣接している料理長室へと入る。部屋の中は二間続きになっていて、奥の部屋は忙しい料理長が仮眠をとるための部屋になっているらしい。いつも鍵がかけられていて、アダムは入ったことの無い部屋だ。

「そう気張るな。楽にしていい」
「はい」

 椅子に座ると料理長は「待っていろ」と言うなり部屋を出ていった。ぼーっと綺麗に磨かれた机を見下ろす。
 説明ってどんな内容なのだろうか。自分の扱いについても触れられるのだろうか? どちらにせよ、もうここでは働けないことは理解している。
 これからどうしたものかと虚空を見上げたとき、音を立てて扉が開いた。
 居住まいを正してそちらを見やる。部屋に入ってきたのは、料理長とあの狸の先輩だった。

「……本当に来てるんだな。どういうつもりで足を踏み入れてんだか」
「……」

 唾棄するような、嘲るような口調に、アダムの中でメラメラと反骨心が生まれる。言い返そうと立ち上がった時、料理長が先輩を睨みつけた。

「言うことが違ぇだろ」
「……へ? いや、何言ってるんですか。こいつは盗っ人ですよ!」
「おい。もう一度言うぞ。お前はアダムに言うべき事があるんじゃねーのか」
「ないです」

 料理長の睨みは、人ひとり殺せてしまいそうなほど恐ろしい。なのに先輩は、怯えるどころか苛立たしげに腕を組んだ。その怖いもの知らずなところは、思わず尊敬しそうなほどである。
 よく分からない感想に苦笑を浮かべそうになると、料理長が仮眠室に続く扉を開けた。

「来い」

 呼びかけて出てきたのは、青ざめたカルルだった。アダムと目が合うなり、彼は哀れなほど身を震わせて「ごめんなさい!」と叫ぶ。
 一方、アダムは冷静に、やはり彼だったのかと落胆した。あの日、移住区への裏門を沈鬱な表情で通っていたカルル。その翌日に箱が無くなっていると気づいたが、昼過ぎにはもうカルルに隠されていたのだろう。

「アダムさんの大切な箱を盗んだのは僕です……っ」
「……うん」
「ごめんなさい。っ、ごめんなさい」
「箱を返してくれてありがとう。あれは大切なものが沢山入っていたから戻ってきてよかった」
「~ッ、ぅ、」

 気弱なカルルは、ボロボロと大粒の涙を零して座り込んでしまった。

「おい。カルルは素直に打ち明けたが、テメェは本当に言うことがないのか?」
「──ッ」
「話は全部聞いてんだ。テメェの指示通りに動いた他の連中からも言質はとってる」

 料理長とアダムの視線が先輩に向く。数秒の沈黙の後。悔しそうに噛み締めていた唇を開く。何か言い訳でもするかと思いきや、あろう事かカルルを糾弾した。

「なんで……、なんでなんでなんで! おいこのバカ! あれだけ証拠は残すなって言っただろうがっ
 」
「ひっ、ご、ごめんなさいッ」
「箱を盗んだら捨てろって言ったよなッ。どうせお前が料理長に告げ口したんだろう! この、裏切り者ッ! もう二度とお前の家に支援はしてやらねぇっ」

 先輩が唾を飛ばしながら怒鳴りつける。その姿はとても醜い。だがカルルは、この世の終わりかのように呆然としていた。見開かれた瞳から、つぅ、と一筋の涙がこぼれ落ちる。

「っ、それは、それだけはお願いしますっ……! いま、切られたら、っ、僕の家が……っ」
「はっ。知るかよ。せっかく魔女が俺の願いを聞いてくれたのに。……お前のせいで全部が水の泡だよ!」

 とんでもない責任転嫁だ。どこまでこの男は自己中で、他者の痛みに鈍感なのだろう。
 カルルはずりずりと床を張い、縋り付くように低頭した。見ていられなくて目を逸らしたくなる。
 カルルの家が先輩の援助を求めるほど困窮しているのだと、こんな形で知るとは思いもしない。
 彼は子爵家の4男坊だ。貴族とはいえかなり貧乏だから、当主の兄以外は皆自立して働いているのだと、眉を下げて笑っていた姿を思い出す。
 一方先輩はどこかの商家の息子で、いつも取り巻きにチヤホヤされていた。自分の思い通りにいかないと許せない性質を止める者なんて、存在しなかったのだろう。なんせ周りの取り巻きも、気まぐれに与えられる褒美に飢えているのだから。
 好きな男に振られた怒りの矛先を、アダムに向けたのも、癇癪を起こした故なのだろう。
 うんざりだ。先輩とカルルの関係も、今目の前で起きていることにも。
 何が悪いだとか、誰が悪いだとか、もっとシンプルに片付く問題だと思っていたのに。
 これじゃあカルルの行先が気になって、アダムの気持ちは晴れない。同時に反省の色が全く見えないこの狸に、一矢報いたいのも本音だった。
 この男はいつまでこうして、他人を駒に仕立てあげ当然のように遊ぶのだろうか。
 ふつふつと嫌悪に似た怒りが湧き上がったとき、料理長の拳が先輩の顔にめりこんだ。
 音にならない悲鳴があがる。贅肉のついた体が吹き飛び、けたたましい音を立て棚にぶつかった。ガラガラと落ちてくる物から逃れる素振りもない。
 先輩は今起きたことに理解が追いついていないようだった。

「──ッ! っ、ぁ、な、なっ!」
「いい加減にしろ。黙って聞いていりゃあ、胸糞悪ぃことばかり言いやがってよ」
「な、んで……っ。俺、そんなに悪いことしましたか?! ちょっとそいつの持ち物持ち出しただけだろっ。勝手に噂で盛り上がったのは周りの奴らじゃないか! 俺だけのせいじゃないだろ、なんで殴るんだよっ!」
「……本当に分かんねえのか」
「分かるわけないだろ! 俺が悪いなら、一緒に笑って噂して回ったあいつらも同罪だ!」

 殴られたことも、怒鳴りつけられたことも無いのだろう。初めて先輩は怯えを浮かべて震えていた。
 だが、料理長はその様子を気にするでもなく、ずかずかと歩み寄る。そして、先輩の胸ぐらを掴みあげると、鼻先が触れる距離で目をあわせた。

「テメェはよ、見えねえ拳で何度も何度も何度もアダムの心を殴りつけたんだよ」
「ヒッ」
「目に見えなきゃ分からねぇか? あ? おかしな話だぜ。テメェにも考える頭と痛みを感じる心があんだろうが。なのに言葉や態度で相手を傷つけることは、罪じゃねえとでも言うつもりか?」

 ぶるぶる、ぶるぶると、遠目で見てわかるほど震えていた。料理長が手を離すと、立つこともできずに床に座り込んでしまう。
 怒りを宿した鋭い三白眼が、床に這いつくばる二人の部下に向けられる。

「おめぇらは首だ。追随した奴らもだ」

 料理長の宣告に、先輩は瞠目し、カルルは諦めたように項垂れた。首にされたということは、一生消えない烙印をつけられたも同然だ。
 あいつは何かをやらかして城を追い出されたのだと。選ばれた者しか足を踏み入れられない王宮だからこそ、悪い噂というものは直ぐに広がるのだ。

「ちょ、待って……っ、俺は何年もここで働いてきたのに──」
「そうだな。だから俺は何度も窘めた。だがよ、超えちゃならねえラインを超えたのは、自分の責任だろうが」
「……っ」

 料理長は伸ばされた手を掬いとることはしなかった。そして不思議なことに周囲を見渡すと、ぐっと腹に力を込めて大きな声を出す。

「いいか。ここはな、王宮の食を任されてんだ。俺たちの料理を口にするのは、この国を良くするために働く奴らだ。なのに、その料理を作るやつが、信用ならなくてどうする。誰かを貶めて悦ぶやつが作った料理を誰が食べたい! もう二度は言わねえぞ。ここで働くことがどういうことなのか、その矜持がわからねえ奴らは今すぐ帰りな」

 まるで咆哮のようだった。ビリビリと肌が震えて、すぐそばで聞いていたアダムの体は痺れていた。
 その数拍後、ごくりと誰かの唾を飲み込む音が響く。そして部屋を支配していた重苦しい緊張が解けるなり、先輩は弾かれたように部屋を飛び出した。
 そこで漸くどうして料理長が大きな声を出したのか理由を知る。扉の向こう側に、先輩と同じく顔を青ざめて立ち竦んでいる人達がいた。
 立ち聞きしていたのだと知り呆れ返る。きっと、いち早く今起きた出来事を誰かに話したかったのだろう。
 あながち、先輩の言うことも間違っていない。
 噂の発信者がいて、それを腹の中で愉む誰かがいるから、悪意となりあちこちに伝染するのだ。
 私は。俺は。ただ噂を噂として誰かに話しただけ。罪の意識なんてこれっぽっちもない。
 直接的には手を出していないから悪くない。そんなふうに言い訳をしながら、根拠の無い噂を愉快にして回る。
 醜いと思った。同時に、自分は決してこうはなりたくないとも。
 その時、背後でカルルが立ち上がった。そうだ、彼も首になってしまったのだ。理由が理由だけに胸がモヤモヤとする。
 成人したばかりで、少し前は子供だった。同じ15の頃を思い返すと、心がぎゅっと締め付けられる。

「あの、料理長……。カルルもまた被害者なのでは」
「駄目だ。理由があれど悪事を働いた。そこは変えようのない事実だ。アダムよ、気持ちは分かる。だが仮にこれが、毒を入れておけという内容だったらどうする?」
「……それは」
「そんとき、カルルは断れんのかって話になっちまうんだ。……城で働くっつうのはそういうことだ」

 言う通りで何も言葉が続かない。だから超えちゃならないラインがあるのだと、料理長は怒ったのだ。
 アダムがカルルを見遣ると目が合う。真っ赤に腫れた瞼が痛々しい。
 昔の自分と重なって、形容し難い思いに苛まれ俯く。すると、カルルの手が恐る恐るとアダムの垂れ下がった右手に触れた。

「……庇ってくれて、ありがとう、っございます。でも、料理長の言う通りです。僕にはここで働く資格が、ありません」
「でも」
「違うんです……っ! たしかに、脅されたけど、でも最後に決めたのは僕なんです。……アダムさんが羨ましくて、だから、僕は悪いやつです。あなたにこうして庇ってもらえる価値なんて少しもない」

 声が震えていた。だけれど、決して泣くことは許されないと言うかのように、カルルはきつく眉を寄せて、漏れる嗚咽を押し殺す。

「ベータの僕は、あなたが羨ましかったんです。……アルファやオメガが羨ましくて。なりたくてもなれないから、僕は嫉妬して自分のためにアダムさんを傷つけてしまった」

 本当にすみません。
 カルルは最後に頭を深く深く下げて部屋を出ていった。取り残されたアダムの心にカルルの言葉が何度も何度も浮かび上がる。

 ──アルファやオメガが羨ましくて。

 アルファを羨むのは分かる。でも、どうしてオメガを羨むのか。こんな大きなハンデを背負った性を羨んだのか。
 アダムにはカルルの気持ちが分からなかった。
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