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三章
16
しおりを挟む彼は寂しいのだろうか。偉い人はいつも役職名で呼ばれ、名前では呼んでもらえない。よく耳にするのは「宰相」「閣下」「魔の人」か。最後のものは最早悪意さえ感じるが。
ふと目の前の人を見て胸がむずむずとした。
相手の行動一つ一つを拾ってしまうのは、あの時の熱が今でも体を包んでいるからなのだろうか。
数々の浮名を流してきた男の触れ方は、まるで愛おしいものに触れるかのように繊細だった。
愛を知らないと紡いだ口は、アダムの頑なに凍りついた思いを解いた。ああして誰かの胸に抱きしめられて、好きなだけ泣いたのはいつぶりか。
親になった自分には二度と手にはできないつかの間の安心だった。
不思議なことに好意から相手を知るよりも、嫌悪から相手を知る方が、印象は鮮やかにいい方へと転がる。最初はなんて傲慢で不遜な男かと思ったが、今ではどうだ。
次に次に見える新鮮な表情や態度を、アダムは見逃すまいと探していた。
「……あの、では、二人きりの時に呼べそうなら」
「あぁ。それでいい」
アダムはそう言って頭を下げた。
大勢が居るところでは難しいが、二人きりならば大丈夫じゃなかろうか。
だがのちに、この時交わした約束がアダムを悩ませる。二人きりの時だけに変わる呼び名は、まるで秘められた時間を過ごすようで。
それがどんなに気恥ずかしく、心を切なく思わせるのか、この時はひと欠片さえ想像もしていなかった。
「仕事に戻る前にこれを渡しておく。このからくり箱はお前のだろう」
「ッ! 見つかったのですか……」
「まあな」
「どうやって……。もう二度と戻ってこないと思っていました」
「……夜になれば嫌でも鼻が利く。お前の家から余所者の匂いがしたから、調理場に確かめに行ったんだ」
「えっ」
「それからこの件に関しては料理長に一任した。明日、体調に異変がなければ昼過ぎに行けば説明されるだろう」
ここ数日の出来事だけでも、半年ほどの時間が過ぎたように思えた。もうこれ以上は驚くことなんてないと思っていたのに。
まさか、犬のように鼻を効かせて犯人を探していたなんて誰が思うのか。高位貴族で、宰相で、それこそ本当にこの国の政務を背負う存在がだ。
「あの……、あのっ、本当にありがとうございます……っ」
手元に戻ってきた箱を確かめるようになぞる。握りしめた指先は白く染まっていた。
「頭をあげろ。とにかくソレはお前に返したぞ。あとは中身を確認して、足りないものがあるならきちんと報告しろ」
「はい」
「ではな」
イサクは立ち上がると、アダムのお見送りを断り帰って行った。
ひとりきりになった部屋の中を、熱い陽射しが照らしている。
からくり箱をあけると、涙のように屑石が煌めいた。限りなく透明で、白にも見える儚い金色。
アダムの色だと嬉しそうに、自慢するように見せてきた、世界で一番好きだった笑顔。
もう二度と出会えない笑顔。
夢の中で思い出した美しい思い出のひと欠片が、そこにあった。何度捨てようとしても捨てきれなかった屑石の指輪。世に出せばなんの価値もない。けれど、あの日々を生きていたアダムには、何よりも尊くて値段などつけられなかった。
他にもあった思い出の品は捨てられた。ひとつひとつ、シオウへの思いを捨てるのと一緒に手放してきた。
暦をめくるように、積み上げてきた愛情を、自分の手で破り捨てた。紙のように簡単に破ければ、あんなにも心は痛まなかった。
育んできた愛情と思い出の品を捨てるたびに決意したのだ。
もう二度と、恋なんてしないと。
キラキラと窓の外で陽が揺れる。生い茂る緑を揺らす風がアダムの髪を靡いた。生命に溢れた力強い夏の匂い。なのに、自分の体に触れたとたん、静けさと共に散ってしまったように思えた。
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